- Amazon.co.jp ・本 (252ページ)
- / ISBN・EAN: 9784102065013
感想・レビュー・書評
-
桜の園の方が圧倒的に好きだったので桜の園のレビューを記す。登場人物が多くて、名前も場面ごとに変わるのでなかなか掴みづらいがそれぞれの人物をグルーピングすることが理解に役立つと思う。
まずは桜の園に住み、かつては栄華の中に暮らした上流階級の人々。
ラネーフスカヤ、ガーエフ:生まれながらにしての上流階級であり、美しいものへの憧憬が深いながらも実務的才能はない。桜の園と共に没落していく運命だがどこまでも能天気な二人は不思議と悲惨には映らない。
アーニャ、ワーリャ:運命に翻弄される若き女性たち。実る恋、実らぬ恋が彼女たちを苦悩させる。
次は上流階級と民衆の狭間の人々。桜の園の人々よりは才気にあふれ、やり手だが結果的にはどちらとも肌が合わない。
ロパーヒン:四六時中、働き詰めのお陰で最後には桜の園を買い取ることに成功したものの幸せの形には最も疎い男。最も現代人に近い分、最も不幸せそうに思える。
トロフィーモフ:常に現在の自分と「なれるはずだった自分」との乖離に苦しむ。極めてロシア的。最も作者チェーホフの考え方に近いのは彼かと。
シャルロッタ、エピボードフ、ドュニャーシャ、フィールス、ヤーシャは桜の園で主人に支えてきた民衆の人々。民衆を生活に追われる無個性な人間として描くのではなく彼らなりの苦悩や色恋沙汰を描くことで物語に重層性が生まれている。
誰一人としていわゆる幸せなぞ手に入れていない。むしろ極めて個人的な不幸に苛まれている。トルストイも言っている。「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『桜の園』は、チェーホフの晩年に書かれ、いわゆる4大悲劇の最後を飾るもの。初演は1904年だから、日本との関連で言えば、まさに日露戦争の最中であった(もっとも、書かれたのはその前年だが)。そうして、革命の足音もしだいに迫りつつある頃だ。そのことは、劇にも濃厚に反映されており、登場人物ではロパーヒンが、まさにその体現者だ。一方、ラネーフスカヤ等の一族は、かつての富と繁栄の象徴であった桜の園を追われてゆく。その静かな交代劇は、「滅びの美学」ということになろうか。なお、3幕で幕を閉じる方が劇的ではないかと思う。
この作品(併録の「三人姉妹」も)は、とりわけロシア名前に苦労する。なにしろ、トロフィーモフの愛称がペーチャ。もっとすごいのがレオニード・アンドレーエヴィチで、彼は通常はガーエフと呼ばれているが、リョーニャという愛称も持っている。 -
何が起きなくとも楽しいの原点はここ(チェーホフの戯曲)じゃないかと思う。
「桜の園」と「三人姉妹」という、共通的な人物はあれど一見正反対の戯曲。時系列を考えるとチェーホフの心の向きとか時代の流れに無理なく寄り添った、なんというかトレンディかつ斬新なな戯曲だったんだろうと感じる。
ロシア人は哲学は得意だけど普通の生活がてんで不得意っていう劇中のセリフがまんま通底している作品。 -
人が話したいと思い、真剣に話しているからと言って、聞き手も一生懸命に話を聞いているわけではない。
そんなやりとりが、『桜の園』には、たくさん表れる。
登場人物同士の会話は、うまく流れておらず、だからといって、決して繋がっていないわけでも、ディスコミュニケーションというわけでもない。
その会話を読むだけでも、実に面白い小説だ。
宮沢章夫の『チェーホフの戦争』を読んでみる必要があると思った。 -
『桜の園』。四幕ものですが、チェーホフは「喜劇」としてゐます。本当かね。
桜の園の女地主ラネーフスカヤは、この地を離れてパリで過してゐましたが、五年ぶりに帰つてくることになりました。待ち侘びる従者たちの描写から始まります。
いよいよ帰還するラネーフスカヤ。娘アーニャや若い召使ひのヤーシャも一緒であります。兄のガーエフ、養女のワーニャも歓迎を示します。
ラネーフスカヤはここで余生を悠々と過ごすために帰つてきたのでせうか。いやいや、実はこの一家はかつての栄光はなく、破産寸前なのでした。桜の園は人手に渡る事は不可避と思はれます。どうやらその対処の為みたいです。
しかしラネーフスカヤは節約をする様子はありません。金に困つた事のない人間は、所得が減つても生活レヴェルを落とせないものです。それどころか、乞食にも惜しみなく財布を与へてしまふ。ワーリャに、自分たちが食べるのに困つてゐるのに、あんな浮浪者に金をあげるとは、と難詰されても「わたし馬鹿なんだもの、仕方がないわ」と答へる始末であります。
商人のロバーヒン(貧しい出自で、出世した)は、土地を他人に貸与することで活路を見出せると助言するのですが、ラネーフスカヤはどうも真剣に危機を受け止めてゐないやうです。
舞踏会を開いても、かつてのやうに名士が集まるでもなく、地元の知り合ひが来るくらゐ。しかも進行がグダグダで適当に切り上げてしまひます。
で、結局桜の園は競売に出され、何とロバーヒンが落札しました。ラネーフスカヤもガーエフも悲嘆にくれますが、今さら嘆いても遅い。全く歯痒いのであります。
桜の園を失つた一家は、それぞれがバラバラになり、別々の道を歩むことになりました。ラネーフスカヤは再びパリへ。
太宰治は『斜陽』を書く際に、日本版『桜の園』を目指したと述べてゐました。確かに名家の没落を描いた点では同じですが、『桜の園』は登場人物の言動がより戯画化されてをり、一種のドタバタ劇とも申せませう。その辺が「喜劇」たる所以でせうか。
そして残念な最後にはなりますが、一応は皆行く先が決まつてゐて、斜陽の人物みたいに自殺はしないのであります。あ、一人残された老僕のフィールズがゐましたな。皆、彼の事を忘れ出て行つてしまつたのです。フィールズはぼやきながら横になり、そのまま動かなくなるのでした......
『三人姉妹』はかつての軍人一家プローゾロフ家の三人姉妹を中心に繰り広げられる群像劇。しかし『桜の園』みたいに諧謔調のセリフで我々をニヤリとさせるやうな部分は少ないのです。それぞれが何かしら不満を抱き、根拠のない希望を持つのであります。当地では我々の教養も生きないと、以前住んでゐたモスクワに帰りたがつてゐます。
長女のオーリガは厳格に育てられ、現在は教師をしてゐます。のちに嫌々ながら校長を引き受けます。
次女マーシャは既婚者。夫のクルイギンも教師でありますが、結婚生活には失望してゐるやうです。
三女のイリーナは現実を見ない夢みる女性。特にモスクワに帰りたがつてゐる。
そして兄弟としてアンドレイがゐます。オーリガとマーシャの間らしい。学者を夢見てゐましたが叶はず、議員になりました。しかし今では議員であることに誇りを持つてゐます。ナターシャといふ恋人がゐて、彼女は姉妹達から嫌われてゐたのですが、後に結婚します。彼女の、結婚前と結婚後の態度の豹変ぶりが面白い。
話としては、専制君主となつたナターシャがアンドレイを操り、姉妹たちを結果的に追ひ出す形になります。末娘イリーナは男爵トゥーゼンバフとの結婚が決まりましたが、やはりイリーナを愛するソリョーヌイが男爵に決闘を申し入れるのです。そしてその結果は、ああ......
一番夢見がちで幼いと思つたイリーナが、運命を受け入れる際には一番潔い印象で終りましたね。何だか力強さまで感じます。
この三人姉妹の末に幸あれと願ふばかりでございます。 -
『桜の園』『三姉妹』の戯曲二編。
『桜の園』では、没落していく地主とその家族、召使いたちの様子が描かれ、ついには土地を失い桜の園を去るシーンで終わる。全体を通して登場人物たちの会話は噛み合っておらず、道化のよう。女地主は、お金がないのに散財してしまう己の行為をどうしようもないと嘆く(そのそばで散財を繰り返す)し、その弟は哲学ばかり並べ立て、生活の知恵もなくフワフワしてるところがどうしようもない。当人たちに深刻さが欠如しているからか、悲劇というより、どこかしら喜劇的に感じる。文学におけるロシア人は憂鬱な楽観主義者ってイメージが強くて(あと名前がわかりにくくて)苦手だけど、なんだか妙に好きになってきた。かもしれない。ありがとう、チェーホフ。
解説でも触れられていたけど、ここまで読みやすく美しい日本語に訳した神西さんはすごい方だ… ありがとう、神西さん。 -
ロシア人の名前はやっぱり苦手です…。翻訳文の時代のせいなのか、戯曲のせいなのか分からないですが、読みにくい。それでも桜の園は、時代の移り変わっていく様子が、それそれの登場人物にうまく反映されていて、面白かったと思います。できれば、本を読むより舞台で観たほうが良さそうでう。
-
貴族と借金は切っても切れない仲らしい。
没落は惨めで滑稽。
はじめから貧しいならこうはならない。 -
去年、三人姉妹の舞台を観たので改めて原作再読。
生きにくい現代の女性像を彷彿させる様な、世知辛いけれど、進んでいこうと思いたい様な作品です。