第5巻、さらに予想を超えた展開に。「GWTW」(「 風と共に去りぬ 」をこう略すらしい)はこんな小説だったとは!! 映画版とは大きく違うようだ。
この巻ではスカーレット・オハラとレット・バトラーの結婚生活が描かれる。なんだかんだで気の合う二人だしお金持ちだからきっと幸福な暮らしでめでたしめでたし…かな。と思っていた。
ところが、物語は壮絶な展開に。凄絶、凄惨の感すらある。
〈以下ネタばれあり〉
スカーレットはレットとの子を妊娠( スカーレット4度めの子で、レットとの間で2人めの子 )。しかし、流産。しかもレットからアクシデンタルに階段から落とされたかたちで。さらにレットが溺愛しまくっていた愛娘ボニー( 第3子 )は落馬して死去。そして今やスカーレットの盟友戦友となったメラニーの病死。
不幸が次々に襲うのであった。
悲劇はそれだけでは終わらない。愛娘を喪い失意のレットは落胆と絶望のあまり人が変わってしまったようになる。そしてスカーレットに、離婚したいと告げる。10年もの間スカーレットの愛を得ようと懸命にアプローチして来たが、その想いも情熱ももはや涸れ果てたという。あれほどスマートにスカーレットを支え続け、情熱的に愛を語ったレット・バトラー。だが2人は同じ時代の中でわかり合うことは出来なかった。スカーレットはようやくレットへの愛に目覚め、レットを繋ぎとめようと必死に食い下がる。だが、レットは去りゆく。
運命の二人とも思われた二人だが、心が深く結ばれわかり合うことはなかった。稀に見る哀しい別れである。こんな痛ましい別離を読んだのは久しくない。
ところでスカーレットの決まり文句(思考)がある。「いまは考えるのはよそう。いま考えたら挫けてしまう。あした考えよう。」
スカーレットの楽天的な逞しさ、ある種のプラグマティズムを伺わせる。悪く言えば問題の先送りだが、この思考法でスカーレットは戦争と以降の荒廃した時代を生き抜くことが出来た。
そして最終幕、レットを喪う場面で再びまさかのこの言葉が
「とりあえず、なんでもあした( 中略)明日になれば、耐えられる。あしたになれば、レットをとりもどす方法だって思いつく。だってあしたは今日とは別の日だから」
驚き。この終幕、レットとの関係修復の希望を滲ませるもの、と思う人も居るかもしれない。だが私はそうは思わない。レット喪失という衝撃の重さを逆説的に感じたのであった。
巻末の解説が内容充実。米文学に於ける「GWTW」の位置と役割などを詳述していて面白い。今回5巻を図書館から借りて通読したのだが、第5巻だけ再読してもよろしいかもと考える。食わず嫌いされている感のGWTWだが、米国文学における大きなミッシングリンクを見つけたような感慨を感じている。
解説では話法に関して『ボヴァリー夫人』や『灯台へ』との関連にも言及。またレットの人物造型が『ジェイン・エア』のロチェスター像から影響を受けていること、などなど。いずれも最近読んだ作品ばかりなので尚更興味深いのであった。