- Amazon.co.jp ・本 (261ページ)
- / ISBN・EAN: 9784103606086
感想・レビュー・書評
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2013年12月刊。新潮社の雑誌考える人2005年冬号〜2013年夏号連載のエッセイ。引出しが多いというか、深いというか、凄みすらある興味深い話があちこちに出てくる。精妙で微妙な機微を感じます。さすが山田さん、深淵で面白い。
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小説を読んでもあまりピンとこないけど、エッセイは好きだなあと思う作家が何人かいて、山田太一氏もその一人。「生きる悲しみ」など折にふれて読み返すのだが、これもしーんと心にしみてくる一冊だった。
著者もすでに八十歳。「岸辺のアルバム」も「異人たちとの夏」もずいぶん昔のことになってしまったのだなあ。映画の助監督時代、シナリオライター時代それぞれの思い出や、老いを迎えて思うことなどが、過ぎ去った「月日の残像」をすくい取るように、静かに書かれている。
大勢の人が当たり前のように言うことにどうしようもない違和感を抱くが、正面切って反論できるわけではなく、そもそも自分の考えていることが確かであるという自信もなく、それでも澱のように沈殿するよりどころのない気持ちを小声で言ってみる…。著者の文章にはそんな気配がある。「世間」を否定するわけではない、ただ、心情的にそこにためらいなく交じっていけない者の居場所もどこかにあって欲しい。そんなつつましい願いを感じながら読んだ。
「女と刀」と題された章。かつて随筆で、電車内でのある経験から「たちまちなごやかになれる人々がなんだか怖い」と書いて小さな波紋を呼んだこと、「なごやかになれない人」の結晶のような女性を描いた「女と刀」という小説のドラマ用脚本を書いた時のことが綴られている。いやほんと、なにかで居合わせた人たちがちょっとしたきっかけで和気藹々、というのは心温まるものではあるけれど、一方で、そう簡単に心を開けない人もいるわけで、それはそれで許容されるべきもののはずだ。現実的に、そういう態度を貫くのはなかなか大変だったりするんだなあ。
「恥ずかしい」という感覚についても何回か言及される。著者は東京下町の生まれなので、またアレかな?と思う。わたしは「江戸っ子の恥ずかしがり」っていうのにあまりいい感じを持てないのだ(優越感が三回転半ヒネリしてるようで「勝手に照れてろ!」とか思ってしまう。そのことに自覚的な人が書いたものは別だけれど)。しかし、ここで書かれていることは、たいそううなずけるものだった。
「食べもののことをあれこれ言ったり、食べるところを見られるのは恥ずかしい」という感覚は、共有する人がきわめて少なくなっているのだろう。食の情報があふれかえる現代ニッポン。「食べる哀しみ、食べなければ生きていけない無念、羞恥などなんとことかわからなくなってしまった」と著者は書く。なぜ自分が食べることにそこはかとない恥ずかしさを感じるのか、うまく言い表せなかったのだが、「素の自分」をさらすことだからだろうか、とも思う。
「ひとりカラオケ」という章の、次のくだりにはまったく同感だ。
「いわゆる『孤独死』をただ痛ましく悲惨のようにいう人がいると、それは近所の人たちの迷惑にはちがいないから早く死亡に気がつくというような対策は必要だが、悲惨という言葉でくくってはいけない『孤独死』もあるのではないか、と『ひとりカラオケ』がよぎるのである。一人もいいものだ、と。
言葉尻をつかんで怒る人がいるから、念を押すが、『絆』に救われる現実もあれば『ひとりカラオケ』に救われる現実もあり、それは別の人のことではなく、両方の現実を同じ人間が生きているというようなことを思うのである。
書いてみれば当たり前すぎることだが、絆が大切という正論が、そこから逃げたいという心情をかくすようなことになりすぎない方がいいと、まあ、考えたりしたのである」
すぐに正論の大合唱になりがちな世の中では、こうした複眼的な見方は決して「当たり前」ではないと思う。残念ながら。 -
年末の新聞の書評欄で、複数の選者が推薦トップ3に挙げていたので手に取ってみました。
著者の山田太一氏は、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」など数多くのテレビドラマを手掛けた脚本家です。本書は、山田氏の家族をはじめ巡り会った人々との思い出を語ったエッセイです。
確かに、それぞれの章で開陳されている山田氏一流の物事の捉え方は、私の興味を掻き起します。が、年間トップ3までのインパクトは感じませんでした。ただ、あと10年ほど経って読み返すと、おそらく感銘は深まる予感はありますね。 -
第13回小林秀雄賞を受賞ということを知り購入。季刊誌『考える人』は特集に惹かれて読むが、毎号連載されていたこのエッセイには目を通したことがなかった。細部まで練り上げられた密度の濃い文章、味わい深い文章を知らずにいたことが恥ずかしくなる。
題名のとおり、過去の思い出が断片的に描かれている。記憶はくっきりとした像を結ばず、ぼんやりとした残像のように浮かんでくる。それらの像は重なり合い、交錯し合う。しかし、シナリオライターの思い描く35の残像は、題名の暗示するとおり、どれも映像として立ち上がってくるから不思議だ。一編を読み終えるごとに、テレビドラマの一つのシーンを見ているような錯覚に陥る。
『考える人(秋号)』で、選考委員が選評を書いている。どの委員も、このエッセイの良さを表現するのに苦労していることが窺われて面白かった。加藤典洋「家族への言及など、節穴から差す光は強い」。養老孟司「人生をきちんと見ている人の目は厳しい」。関川夏央「温顔のゆかしい書きぶり、その下にある著者の本質的な勁さ」。堀江敏幸「普遍をはみだす破れ目に触れる感性があり、実際に触れてもいるのに、向こう側へ身体を入れてしまうことはしない」。橋本治「書き手ばかりが前に出るわけではなく、書かれた文章の中に作者が見事に収まっている、その案配の良さが文章の美しさを作り出している」。
フェルナンド・ペソアと三島由紀夫の言葉が頻繁に引用さているのも印象に残る。自分を過剰に押し出すことはせず、しかし受け身のままではない強さも見せ、他者との距離の取り方が絶妙。こうしたことは長く生きていれば身につくというものではないこともわかる。幾つかの残像と余韻が残る素晴らしいエッセイ集だ。 -
若き日の松竹撮影所時代の思い出など
故人を偲び、自身も年を重ねた今をどのように生きているのか。
35篇からなるエッセイ集。
「時代はその時代を生きる誰に対しても時代の限界を強いるものだし、誰に対してもなにかを託すものだといえなくもない」
木下恵介さんとのエピソードが書かれた「七回忌もすぎて」が秀逸。
年下の人からの指摘にも耳を傾け
そのことに思いを巡らせる「ひとりカラオケ」も良かった。 -
羞恥心を持ち、謙虚さを身にまといつつ、それでいて「大衆的なもの」を容赦なく攻撃する。というのが著者の印象だが、その背景・経緯のようなものが垣間見えた気がした。内容的には自分の死について相当覚悟しているようなので、かなり諦観が漂う。
時代を経るに従い、TVで大衆を攻撃するような内容のドラマを放映するのは憚れるようになり、著者の活躍の場もどんどんと狭まっていったのではないのかと感じた。
大原麗子と母の葬儀の話が印象的だった。やはり人は人の死にイチバン心を動かされるのだろうか。が、自分が死んだ後は周囲の人にとっては自分無き新しい世界の始まりでもあると。 -
松竹時代のエピソードが面白い。
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山田太一『月日の残像』新潮社、読了。若き日の自身の思い出から、寺山修司論、木下恵介論まで35編。日本を代表する脚本家の良質なエッセー。老いとは「自分には憶おぼえのない自分に出会う」こと。そこに小さな興奮がある。日々を一新しながら丁寧に生きることを諄々と綴る名著。