先生とわたし

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  • 新潮社
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784103671060

作品紹介・あらすじ

幸福だった師弟関係は、なぜ悲劇に終ったのか?伝説の知性・由良君美との出会いから別れまでを十数年の時を経て思索、検証する、恩師への思い溢れる長篇評論。

感想・レビュー・書評

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  • そもそも四方田犬彦のことを知らなかった。
    ましてや由良君美をやである。
    かなり前、魯迅の藤野源九郎や吉本隆明の今氏乙治という恩師の話をしていた時、友人の口から出たのが四方田犬彦でありこの本であった。魯迅が仙台医専で藤野先生に講義ノートの添削など特別目をかけて貰いながら突然訣別し文学の世界に身を転じた、その真意がわからず、尊敬する恩師との師弟関係について常々気になっていた。先日、古本屋でこの本を目にした時の嬉しさは一入であった。
    読むうちに、当時の文学アカデミズムの世界を覗き見て始めて知る世界の物珍しさに不思議な臨場感に浸ることができた。学術界の東京帝国大学を頂点とする権威主義や専門分野の派閥毎に作られた序列構造の保守性と排他性には違和感を感じながら読んだ。
    由良君美は東大入試に落ち、学習院大学から慶應義塾での研究職と教師を経て東大教授になる。筆者は駒場教養部で英文学のゼミ教官であった彼に出逢う。彼は学習院の哲学教授に「これ程優秀な学生を平岡公威(三島由紀夫)以来教えたことがない」と言わせた秀才で当然の如く東大教授に迎えられていた。才能や研究が最も充実し高揚した時期の先生に遭遇し濃密な師弟関係が始まる。ゼミは欧米文学の作家やサブカルチャーの作品をオルタナティブな視点で議論を深化させ言語を超えて読み、思考し、議論し、才能の火花を散らすものであった。由良は英文学に限らずロマン主義の系譜、詩、古典や新しい思潮も積極的に受け入れた。
    ジョージ・スタイナーに共感し、T・Sエリオット批判で日本英文学界の物議を醸した頃が絶頂であった。
    慶應で師事した西脇順三郎がゼミ生の江藤淳を嫌い、由良も彼の代表作『漱石とその時代』をイギリス絵画への基本的な無知に基づく方法論を欠いた愚著だと公言した。文学の研究は確固とした方法論に基づいてなされるべきが持論で、小林秀雄も脈絡のない感想を特権的な場所から述べ立てている文壇人で、吉本隆明は出鱈目な理論を好き勝手に援用している野人に過ぎないと彼らの体系のなさと印象批評を憎んだ。同年代の英文学者篠田一士との確執は由良の幼げな競争意識による面もある。反面横光利一には生涯敬意を持ち埴谷雄高や鮎川信夫には好感を持っていた。
    由良は駒場の主任教授に選出され学内政治のストレスやコンプレックスでアルコールに依存し筆者とも齟齬が重なり決定的な出来事で訣別し以後断絶する。
    時を経て、由良の急逝に弔問し妻との会話を始め生前の関係者に詳しく聞くうちに見えていなかった恩師を発見する。それは華麗な家系の出自による気負いと学歴への負い目、類稀な能力が顕揚者への嫉妬をうみ、狷介な性分が災いする人間関係に悩む孤独な姿でありアルコールに耽溺する窮状であった。70年代には仏文の渋澤、独文の種村と並んで英文に由良ありと幻想文学愛好家から御三家扱いされた高踏的な英文学者は英語が苦手で会話に劣等感を持つ、メディア受けする評論家を批判するが自分では体系的な長い論文は書かなかった。
    筆者はジョージ・スタイナーの『師の教え』と山折哲雄の『教えること、裏切られること』を読み師弟関係について深く考え、師の弱さを忖度できなかった自分を悔いる。
    この作品は弟子である四方田犬彦が痛恨の思いで書いた61歳で弟子より早く死んだ恩師由良君美への餞であり、読む者にも大いに共感を誘う。

  • 今回は、ライブラリー・ワークショップ企画「総合科学営業 『僕の読み解く数冊の本』」で展示させてもらっている本を紹介します。

    本のテーマは「極めるということ」。次の6冊を展示しています。

    『ファンタジア』ブルーノ・ムナーリ (視座 『自然に触れる』)
    『マン・オン・ワイヤー』フィリップ・プティ (視座 『人と触れる』)
    『日本語ほど面白いものはない』柳瀬尚紀 (視座『人と触れる』)
    『先生とわたし』四方田犬彦 (視座 『人と触れる』)
    『静かなる旅人』ファビエンヌ・ヴェルディエ (視座 『人と触れる』)
    『フェルマーの最終定理』サイモン・シン (視座 『ものに対応する』)


    一見ばらばらの本ですが、読んでいるうちに私の中でつながりを感じて、このテーマに集約されました。


    「極める」にも色々あります。芸術を極める、研究を極める、自分の夢を実現する……。

    そしてまた、これらを語る本の切り口も様々です。

    道を極めた人のものの見方を示すもの、極めた人の人生について語るもの、極められた研究の成果を理解するもの……。


    これらの本を読んで共通に感じたのは、何かを身につける、自分が納得いくまで極める、という領域へは、当然のことながら自分で感じ自分で動くことでしか至ることができないのだ、ということ。

    それには、本物に触れ、現実に触れる、ということが必要になってきます。

    誰かのフィルターを通じて現実を見ていては、そこには至れません。

    ネットで何でも調べられる今だからこそ、地上に足をつけて歩く感覚をしっかりつかみたい。

    きっとそんなことを考えていたのだと思います。


    実は、この本を集めたときに、もう一つ、テーマの候補がありました。

    それは、「良い師を得る」。これらの本のいくつかには、「師」が登場します。

    「良い師を得る」ということは、数百冊の本を読むのに匹敵するな、と感じたのです。

    それは、道を極めるためのヒントを得られる、とか、近道を教えられる、ということではありません。

    師が持っている知や技の世界の前に立たされて、自分の力でその意味を捉え、自分の世界と照らし合わせて自分のものにしていく、という作業を繰り返す中で、本を読んで得る知識よりもはるかに多くの、有機的に繋がりのある「自分にとって必要なもの」を得る、ということ。


    大学図書館ができることは、多くの方に学びのきっかけを掴んでもらうことだと思っています。

    そして、学生のみなさんには、大学で良い師に出会うきっかけがあるはずです。


    今回展示している本はほんの10数冊ですが、これが、誰かにとって「師」のような存在、あるいは良い師に出会うきっかけになれば、と願っています。


    http://opac.lib.tokushima-u.ac.jp/mylimedio/search/search.do?materialid=207002079

  • 一気に読了したが、途中何度か鼻の奥がつーんとなった。

    人は誰でも人生のどこかで師と呼べる人と出会う。どんな師と出会うかは、弟子の資質にもよるだろうが。優れた師と出会い、その薫陶を受けながらも、やがて齟齬が生じ、思いもかけぬ別れが来る。誰にもある経験だが、その経験をどう自分のものにするかが、問題である。

    由良君美という名前をご存知だろうか。70年代、幻想怪奇文学が脚光を浴び、大小を問わぬ出版社から様々な企画の選集やアンソロジーが相次いで出版されたが、その水先案内人として、仏文学の澁澤龍彦、独文学の種村季弘と並び称されたのが、英文学における由良君美だった。

    愛書家、蔵書家としても夙に有名で、試みに、書架をあたってみると由良が携わっていた雑誌「牧神」の創刊号を飾る口絵写真(ベックフォードの『ヴァテック』やウォルポールの『オトラント城』)には「旧都艸堂架蔵本」という注記がある。つまり、由良君美が買い集めた洋書の一部である。

    パイプを燻らせ、優雅な口調で教壇に立つ由良君美は、サイードを無名のうちから「見ててごらん。いずれこの人はスゴイことを仕出かすよ。」と、学生に話すなど、時代の先端を行く思潮に鋭敏な眼を持つ学者であった。講義の終わった後、研究室で紅茶を飲みながらゼミ生相手に、一週間の収穫を聞いては、関連する洋書を貸し与えて読ませてしまうという魅力ある師であったようだ。特に、厖大な知識量と、派閥横断的な教養の深さは他の教師陣とは一線を画していた。学生当時の目線で、気鋭の英文学者の姿を憧憬の眼差しで仰ぎ見るように描くこのあたりの描写は読んでいて愉しい。

    反面、生粋の東大出身者でない由良は学内では力を持たず冷遇されていたようだ。自らの語学力を恃み、歯に衣を着せず他の英文学者の誤りを追究する由良の姿勢は仲間に疎まれてもいた。小林秀雄、吉本隆明、江藤淳の三人を方法論を欠いた印象批評家として認めず、書評家として独自の論陣を張るも、英文学界では孤立していった。いつしかアルコールの量が増え、それとともに、座談中に見せたかつての精彩が消えていくことに弟子は心配しながらもどうすることもできなかった。

    由良の父は西田幾多郎の弟子でドイツ留学を果たし、カッシーラーに師事するなど、将来を嘱望されていたが、帰国後は時代の波に乗り、ナチスに傾倒したため、戦後は日の眼を見ることがなかった。その出自から師の屈折した自我を読み解いていく弟子の筆は過去の経緯を括弧に括った客観的なものだ。留学経験がなく、海外事情に疎い師は、弟子が海外に出はじめてから次第に距離を置くようになり、やがて、酒場での不幸な出会いを生む。そのとき、師は、「きみは最近、僕の悪口ばかりいい回っているそうだな。」と言い、弟子の腹を拳で殴ったのだ。

    「われわれは、師とは過ちを犯しやすいものであるということを見てきた。嫉妬、虚栄、虚偽、背信がほとんど避けがたく忍び寄ってくる。」というのが、スタイナーが、『師の教え』の最後に書きつけた一文である。四方田は、スタイナーと山折の著作を手がかりに師と自分の間に起きたことを理解しようとする。それだけではない。今や、師の立場に立つ者として、かつての自分がいかに弟子の立場からしか師を見なかったかを悟る。末尾、富士の見える墓所に詣で、水代わりのカップ酒を師の墓に手向ける四方田の姿は限りなく哀切である。

    四方田犬彦が、あの由良君美のゼミ生で、高山宏と並んで東大駒場時代、愛弟子の一人と目されていたことはこの本を読むまで知らなかった。『先生とわたし』は、知の巨人的な相貌を持つ師との出会いにはじまり、衝突事故のような事件の後、何年かの途絶期間を経、師の死を契機にして和解へと至る「師弟の物語」として読める。一方、由良の出自を探り、その系譜を丹念に辿るあたりは由良の評伝とも読めるが、裏返して読めば1970年代という一つの時代を東大生として過ごした著者自身の自伝にもなっている。しかも、間奏曲として由良が日本に紹介したジョ-ジ・スタイナーの『師の教え』と宗教学者山折哲雄の『教えること、裏切られること』の二冊を援用して記される「師弟論」をあえて挿入することで、本論と挿話の位置が逆転し、この一冊は「師弟論」についての卓抜な評論に転化してしまうという、四方田らしい手の込んだ作品になり果せている。

  • 著者とその師・由良君美との師弟関係をめぐる思索は、人文教養主義など鼻で笑われてしまう昨今にあって、本を読むことへの基本的欲求、知的好奇心を最高に刺激してくれるものだった。2007年の出版時に購入したものの、長らく積読状態であったことを大いに悔やんでいる。もっと早くに読めばよかった。力作。

    人物評伝では高山文彦による中上健次の評伝「エレクトラ」もいい。

  •  由良君美の評伝という形をとりながら、師弟論へと発展させて締め括る構成の妙が面白い。
     由良君美の父親まで丹念に調べあげた精密さがあるからこそ、師弟関係が崩れていく過程が泣かせる。
     しかし、師を語りながらちょっと自慢が過ぎやしないかい。

  • 師、由良君美を追想する四方田犬彦。

    上品にスーツを着こなしパイプを咥え、ぞくぞくするようなとんでもない博学を披露する知の巨人としての教師が、やがて人間的側面を暴かれ籠絡していく様は、ナボコフほどではないにしろ、やはり残酷なものを感じずにいられない。

    本書の中で、変化はしばしば老いと重ねられ、あるいは成長と重ねられ、時間の経過が一人の人物をいかに変えうるのか、印象とはいかに脆く崩れやすいものであるのか、そしてその崩れやすい仮面を、教師がいかに必死に保持しているのか、描かれていく。

    一方で、本書がいかに残酷な内容であったとしても、四方田が由良へと寄せる変えようのない思慕は端々に感じられ(それがしばしば他を攻撃するような表現へ繋がるのだが)、不幸な出来事を通じてもなお、彼らの関係は変わらなかったのだろうと予想させられる。

    全編を通じて視線は優しく過去へ注がれ、甘い痛みを伴うロマンティシズムに満ちていた。

  • 生々しすぎるドロドロの密室感に息が詰まり心が締め付けられる

  • 447.07.7/20、2刷、並、カバスレ、帯付
    2011.2/19、阿倉川BF

  • このタイトル以外つけようがないな、というのが読後の第一感想。
    読み進めるうちに胸が痛くなってしまう。それは、師である由良氏の痛みを思ってか、弟子である四方田氏の痛みを思ってか、よくわからないけれど、たぶん、両方で、
    この本のテーマは、由良氏についてを弟子の四方田氏がご自身と由良氏の関係から書いている、伝記のような、小説のような、というもの。

    後輩が明らかに自分より優秀なとき、わたしは嫉妬する、そして不安に陥る。
    そんな気持ちを邪悪だといつも自己嫌悪していた、けれども、
    先にいた年長の人間が、若い人間の才能を見たときの嫉妬、
    そして、
    若い人間が自分のもとから巣立っていく焦り、
    というものは、
    人間の根本感情なのだな(ではわたしの邪悪な感情もこの流れを汲んでおり、ある意味普遍のものかと安堵するのが正直なところ)、と、凄く凄くさみしい気持ちで、悲しい気持ちで思います。
    年下の人間としては極力年長の人間にそのような焦りや不安を与えない忠義が大事なのかもしれないけれど、でも、それも限界があります。そうすると、やっぱり、
    由良氏の抱いていた、弟子の四方田さんへの感情のねじれ、というものは、
    孤独、そのひとことに尽きると感じました。
    由良先生ご本人のコンプレックスやらによるパーソナルな孤独と、師弟関係や学内政治等々による社会的な孤独、それらがあいまって、底知れない狂気や恐怖になっていたし、才能ある方だからこそその綻びが顕著になったのかもしれないなと思います。

    この本、簡単に言うと、
    「ま、師匠と疎遠になったのは、結局師匠がアル中になったり俺のこと殴ったり、それって師匠が俺とか他の人間に嫉妬してたからじゃん」
    と言えるのかもしれないし、
    死人にくちなしで、四方田さんがいろいろ飾って書いているということもリスクとしてはいなめないけれど、
    純然たる文学として読んだとき、
    非常にしんみりと、深い孤独やら底知れぬ狂気を抱えた由良先生の孤独を、そして時間が経ってからその孤独に気づく四方田さんのやるせなさ、その両方を感じます。

    好きだけど、嫌い。
    これって、異性間に限ったことではないのですよね。
    なんてアンビバレントなんだろう。

  • 師匠と弟子というものが忘れられた時のために残しておきたい、理想的な師弟のかたち。

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著者プロフィール

四方田 犬彦(よもた・いぬひこ):1953年生れ。批評家・エッセイスト・詩人。著作に『見ることの塩』(河出文庫)、翻訳に『パゾリーニ詩集』(みすず書房)がある。

「2024年 『パレスチナ詩集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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