至福のすし: 「すきやばし次郎」の職人芸術 (新潮新書 46)

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  • Amazon.co.jp ・本 (185ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784106100468

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  • 20170731読了
    2003年発行。先日、「すきやばし次郎」と「みかわ」の主人ふたりを追った番組を観た。最盛期のようにはからだが動かなくなり老いを自覚してはいても、つけ台に立つ時間はもとうとする寿司職人・二郎さん。もう90代なのだから衰えは当然だよ・・・!と思う。こんなに動けているだけでもすごいのに。この本が出版されたときすでに78歳で、老いを感じると心境を語っている。●職人の、寿司に対する情熱と仕事への誇りが伝わってくる一冊。お店には高級すぎて行けそうもない。行けたとしても凡庸な舌は味覚レベルが追いつかなさそう。●大きな時間軸から小さく迫っていく章立ての構成がよい。第一章小野二郎に出逢う、第二章小野二郎の五十年、第三章「すきやばし次郎」の一年、第四章「すきやばし次郎」の一日、第五章「すきやばし次郎」の一時間。

  • 二郎さんの握ったお寿司は相当なお値段なので、口にする事はないと思う。でも、お客様の為に、握る手を美しく保とうと、40歳から外出時には手袋を欠かさないとか、シミのある顔だと食事が不味くなると、シミ抜きに行ったり、考え方が並ではないと、思った。

  • すきやばし次郎を舞台とした、すしに関る読み物。いつかはここで食事ができるような、品格と所得を持ちたい。
    「すきやばし次郎の1年」と題して、季節ごとのネタの移り変わりとうんちくを、「すきやばし次郎の1日」と題して、清潔の大切さ、仕入れを語り合う。最後は、「すきやばし次郎の1時間」と題して、一食の流れを記する。小野二郎さんと著者の対談の形で文が進む。

  • 山本益博が料理の世界に与えた影響はとても大きい。

    山本というと、格付けということになるのだろうが、その根本にあるのは、本当の職人仕事に対する尊敬の念だ。

    この本を読むと、小野二郎という稀代の鮨職人と、客として、つけ台を間に対峙する山本益博の初々しい緊張感が感じられる。

    「職人仕事というものが、毎日の同じ作業の繰り返しの中から真実を探し当てるものだとすれば、料理はまさしく、頭で考えたことを手でもって表現する職人仕事にほかならない。」

    こういった職人の典型である料理人の条件について考えるところからこの小さな本は始まる。

    「健康、感性、清潔、勤勉、謙虚」

    ことに清潔さということに人一倍こだわる小野の姿勢。

    さかなの匂いがするようじゃ、鮨屋失格だと、日々徹底した掃除をする。

    「わたしの店では、お勝手と調理場は、夜仕事が終わると、お湯を全部かけて洗わないことには、店は仕舞にならないんです。それをやらないと、どうしても匂いがだんだん重なっていって、しまいには匂いがついてしまう。」

    新入りは当然、こうした掃除をやらされることになる。それでねをあげる者がほとんどだが、これなしに、鮨職人としては一人前になれないという強い信念がある。

    客の前に、完璧な状態で、ネタと、酢めしをそっと置くまでの間に、見えないところで多くの支度がされている。江戸前の職人というのは、水、米、魚の支度にかける時間と集中の濃密さによって、食の真実を追究している。その中でも一番大切な、清潔さを追求する掃除という仕事。

    そういった下働きがあって、職人としての強さが培われていく。

    「うちは早くても十年たたないと店に出しませんから。ウラでの仕込みの仕事のほうがよっぽど大事なんです。その仕込みがきちんと出来るようになれば、にぎりなんてのはそうむずかしいことじゃないんです。」

    この小野の言葉に、「10年といっても、その季節その季節の魚を十回しか見ることができないってことですものね。長いようで短い」という山本の言葉も深い。どんなことにも無駄なことはないし、学びの時間は無限ではない。

    ネタのよさを保ち、お客に最高の形で提供するまでに、どれだけの時間と執念が向けられているか。

    フランス料理の巨人、ロブションに、このたこは伊勢海老の味がするとうならせたタコ。

    大阪にいたころの明石のたこの味を、なんとかして、東京で可能にしたいという思いがこの奇跡を可能にする。

    「手を変えてどのくらい試したでしょうかねぇ。関東のたこでもって、どうしても明石のたこのような香りと味わいを出したいと・・・。最も手間がかかったすし種かもわかりません。揉んで茹でるんですが、揉む時間が半端じゃいけない。茹でるタイミングもむずかしい。茹で上げたあと、冷めてしまうと香りがなくなってしまう。もう執念です。」

    こういった努力は、関西の客から、明石のたこですか?と言われるまでにいたる。

    値段だけじゃなく、こういったはりつめた職人芸に対して、客たるものどうしたらいいのかという当惑には、山本が、店でであった一人の老人のエピソードがすべて答えてくれる。

    老人がひとりでステッキをついて入ってくる。80歳をすぎているような、ネクタイをきちんとしめたその客は、次郎ではあまりみかけない不思議な顧客だった。ところが、小野二郎はその顧客を目礼して、奥へと手招きし、カウンターへと招く。

    席についても、黙ったままの老人に、小野がすしを出す。

    「老人は腕を上げ、スリークオーターから手をゆっくり伸ばしたかと思うと、黒板に置かれたすしをつまんでから口へ運ぶまでは鮮やかなほど速かった。そして、何もしゃべらない。(中略)余計なことは一切口にせず、「お茶、お願いします」「穴子をもうひとつ」「ごちそうさまでした」の三言のみで、しかも、符丁など使わず、礼儀正しくて、にぎられたすしだけを食べて、さっさと席を立つ。時間にして、わずか十五分あまりだっただろうか。まるで、すし屋でのすしの食べ方のお手本のようだった。」

    鮨を食べることだけを目的にしてやってくるこういったお客を支えに、「昨日も今日も明日も、同じ仕事を繰り返しながら、繰り返し同じ仕事をしないのが職人仕事」という人生をおくりつづける「すきやばし次郎」に対する山本益博の思いがあふれかえっている。

    こんな件には、自分自身の鮨屋についての記憶が蘇ってくる。

    鮨好きだった、死んだ父親に、子供の頃、鮨屋に連れられていったときのことだ。父親と二人で、出かけるのが嬉しくて、はしゃいだぼくが、まわりをまねて、ムラサキだとかアガリだとかいって、行きつけの店の親方たちを笑わせた。

    店を出たあと、夜道を歩いているとき、父親が、微笑しながら、そういう符丁は使わない方がいいよと、言ったのを思い出す。父親は、理由をくわしく教えてはくれなかった。それでも、なんとなく、子供心に、はしたなさのようなものへの恥じらいというものを感じ、素直に頷いた記憶がある。

    鮨屋というのは、昔から、そういった感情教育の場所でもあったようなのだ。

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