過ぎ去りし世界 (ハヤカワ・ミステリ1906)

  • 早川書房
4.00
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感想 : 13
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  • Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150019068

作品紹介・あらすじ

抗争のさなかに妻を失ってから十年。息子と共に生きようとする元ギャングのもとに届いたのは暗殺の予告だった。第二次大戦下のフロリダで繰り広げられる犯罪組織の熾烈な暗闘を圧倒的筆力で描く

感想・レビュー・書評

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  • ジョー・コグリン完結編。

    ギャングとしてあくまで倫理を失わず、敵を作らないやり方でその道での座を築いてきたジョー。
    前作『夜に生きる』がその出世物語だったのに対し、今作は王座を揺るがされる物語。

    第二次世界大戦という外的要因により、家業のしのぎが難しくなっていく中、誰かがジョーを無き者にしようとしているという話がジョーの耳に届けられる。
    いったい誰が。
    一方では、明らかに密告者がいるような摘発が続く状況や、不用意な抗争を無秩序に仕掛ける浅はかな組織の構成員が悩みの種に。

    何しろジョーの立ち回りがかっこいい。完璧に洗練された大人のギャング。
    そして結末が切ない。
    この家業でハッピーエンドなんて夢のまた夢。

  • 一気読み。「夜に生きる」を直接受けて、その7年後が描かれる。「夜に~」は、三部作最初の「運命の日」に感じた冗長さがまったくなく、抜群におもしろかったが、これもそれに勝るとも劣らない傑作。

    圧倒的なリーダビリティで、エンタメ度は高いけれど、そこにとどまらないものがある。あっけなく、さして意味もなく人が死に、信じていたものには手ひどく裏切られ、愛するものは弱みとなる、そうした現実が世代を超えて連鎖する世界。それが甘さのカケラもなく描かれるのに、全篇にどうしようもない切なさが漂っていて、そこがルヘインの大きな魅力だ。

    ギャングの世界など垣間見ることもない無縁なものなのに、ここまで真に迫って感じられるのはどういうわけか。まるで実際に映像を見ているような感覚にしばしば陥った。ジョーが殺し屋テレサと刑務所で会うシーン、やはり殺し屋であるコヴィッチの家を訪れたときの緊迫した描写(一つ一つの動きが目に見えるよう)、そして何と言っても圧巻は、終盤近くジョーが飛行機で脱出しようとする場面。飛行機のエンジン音や叫び声まで聞こえてきそうだ。

    ラストはやはり、これしかないだろうという結末。これぞルヘイン。しかし、「次世代」が(まだ生まれていない子も含めて)何人も登場していたわけだから、パトリック&アンジーシリーズにまさかの完結編があったように、次作があるかも、と期待してしまう。

    (この後あの「犬の力」の続篇「カルテル」を読もうと思うのだけど、うーん、しばらくこの余韻に浸りたい気もする)

    • niwatokoさん
      わー、そんなによかったんですねー。この作品、読むつもりでいながらついついあとまわしになっていたんですが、今読んでいるものが終わったら即読みま...
      わー、そんなによかったんですねー。この作品、読むつもりでいながらついついあとまわしになっていたんですが、今読んでいるものが終わったら即読みます!! ルヘイン、いいですよね。ほんとに、非情で残酷なのにロマンティックというか。
      そして、同じく、ウィンズロウの「カルテル」も読むつもりでいるんですが、まだ少し先になりそうです。
      2016/05/18
    • たまもひさん
      「非情で残酷なのにロマンティック」 いやあ、ほんとにそうですよね! ルヘインは、最初に読んだパトリック&アンジーシリーズが今でも一番好きです...
      「非情で残酷なのにロマンティック」 いやあ、ほんとにそうですよね! ルヘインは、最初に読んだパトリック&アンジーシリーズが今でも一番好きですが、これも良かったです。
      ウィンズロウも前評判が高いので楽しみ。ルヘインとはまた違った迫力なんですよねえ。今年のミステリランキングを賑わしそうな二作を立て続けに読むとは、うーん、贅沢。
      2016/05/18
  • 楽しみにしていた『夜に生きる』の続編。スルスル読める。これ以上はネタバレになっちゃう!シリーズ一作目は『運命の日』は未読だけど、とても面白かったです。

  • 作中の会話は、著者が労せず「流れるように出てくる」と語る通り、無理なく自然でしかもカッコいい。逆に苦労したと語るプロットは、最初の登場人物紹介に載らない脇役の名前を、後で控えておけば良かったと後悔するほど、細部まで目端が利いていて、すべてのピースが揃い主人公が天啓を得る瞬間は鳥肌が立った。ただ完璧であればあるほど瑣末な部分が気になってくるのも事実で、読後に幾分もどかしさが残った。
    まず、コグリン三部作の完結編と知っていたためか、ある程度主人公の末路は予見ができたが、さかんに出てくる子供の幻影にはフラグを立たせ過ぎだろとツッコミを入れたくなった。最初は少年の顔はぼやけているが、徐々に自分自身だとわかるのもそうだし、眠れないからと受診した医者に幽霊がいると認めることは死後の世界を認めることと同じという言葉をかけられるのも、暗示がききすぎてその逆の展開なのかと最後まで疑ったほど。むしろその息子のトマスの運命をどう決着させるのかが気になったが、著者あとがきにある通り、なるほど続編がないわけではないなと安心した。
    殺しの計画についてのメインプロットについてはもっと違和感がある。まず、組織の<委員会>の面々がバルトロ・ファミリーのボスの襲撃を、事前に承認していたというのがわからない。ボスの友人の主人公には知らせず、計略で遠ざけようとしたというのは分かるが、ボスに対する裏切りという形になる部下の計略にお墨付きを与え、あとで騒ぎを大きくさせすぎた落とし前を請求するのはどう見ても無理がありすぎる気がする。仮に<委員会>の面々が、ボスの排除がどうしても必要と考えるなら、若くて有能とはいえ年期の浅いリコに任せるより、前ボスでしかも<委員会>メンバーのジョーに任せるのが筋だし、その方法も白昼堂々マシンガンをぶっ放すよりもっと目立たず確実な方法があるだろうに。
    一番の違和感はディオンとジョーの関係。ジョーはボスであるディオンに命じられて、モントゥースの隠れ家に単身向かうのだが、命令は彼を片づけるから外に連れ出せというものだった。なのにジョーは断わりなく自己判断で、モントゥースに将来の憂いになりそうな別のボスの襲撃を持ちかける。両方が共倒れとなり、ボスの命令も果たせると思ったのだろうが、なんとモントゥースは単身でかち込みをかけ見事生還する。これが最後の引きがねとなり、ディオンの襲撃計画が発動するのだが、ディオンはジョーに恨み言一つこぼさない。逆にジョーは、俺を裏切り、息子を危険にさらしたと、ディオンを追い詰めるが、ディオンは、もともと自分の命令を守らないからこうなったとはひと言も言わず、言われるがまま、最期の時を迎える。モントゥースが、ジョーの目論見どおり、相打ちと終わっていたとしても、計画は変えられず、ディオンの命令通りに事を行なっていれば、襲撃者の口実を与えることはなかったと考えると、ディオンが不憫でならない。

    表題の「過ぎ去りし世界」とは、主人公にとっては、単なる郷愁ではないし、そもそも実体さえ怪しい場所。
    時間は、所有することのできない「借り物」だと考えるジョーにとって、たとえ「借り物」でも充分においを嗅ぎ、味わう前に過ぎ去った世界を、時代の変化の風を感じつつ、取り返したという切なる「願望」がそこにある。

  • 『過ぎ去りし世界』デニス・ルヘイン
    World Gone By  by Dennis Lehane
    このミス9位、文春ミステリー12位

    『運命の日』『夜に生きる』『過ぎ去りし世界』
    コグリン・シリーズの3作目

    1,2作目は冗長に感じたところがあり
    3作目がいちばん好きかな
    ミステリー的なところもあって楽しめた。

  • 「夜に生きる」の続編。前作で妻を亡くしたジョーは9歳の息子と生きている。ギャング団のボスは退き組織の顧問となっているが、彼を殺そうとしている者がいるという。心当たりはない。死の影に密かに怯えるジョーは不思議な幽霊を見るようになる。無法者たちの造型が生き生きとしてて素晴らしい。それぞれが自分だけのルールに従って生きているのだが、それでもギャングの掟には縛られている。必死に生き残り、のしあがろうとする彼らがとても魅力的だ。ジョーがたどる運命は、そんな風に自由に思うままに生きてきた者が当然行きつくものなのかもしれない。

  • 「夜に生きる」のラストの謎が最後に解ける。
    そういう事だったのか! そして読書会で出た解釈は全てハズレだったのか!
    いやぁ、ルヘインにしてやられた。
    当然予想してしかるべきだったのに!
    そして「夜に生きる」と「過ぎ去りし世界」の2冊の装丁が素晴らしすぎるので、ぜひ並べてみてほしい。

  • CL 2016.6.11-2016.6.17

  • ジョー・コグリンは、タンパ、その他で複数の会社を経営する実業家として知られている。慈善家としても知られ、第二次世界大戦下にあるアメリカを支援する募金集めのパーティーを開いたばかり。しかし、その実態はイタリア系のディオンをボスと仰ぐマフィアの顧問役だ。第一線を引いたとはいえ、ジョーの力は今も健在で、組織のなかでは<委員会>の数少ないメンバーの一人であり、委員会の決定にはボスといえどもさからえない。ジョーがボスの座を小さい頃からのワル仲間であるディオンに譲ったのは、ディオンとはちがってアイルランド系のジョーには幹部の席は与えられないというチャーリー・ルチアーノの考えを知ってのことだ。

    頭も切れて、度胸もある。ポルトガルであつらえた百十ドルのスーツを着こなし、人好きのする笑顔が魅力的なジョーは、誰からも好かれている。特に、仕事の上で他人を儲けさせることにかけて、ジョーの右に出るものはいない。そんなジョーには敵というものが思いつかなかった。ところが、そんなジョーの命を狙うものが現われた。殺しに来る者の名前も日にちも分かっているという。分からないのは、それを命じた相手とその目的だ。

    かつてはジョーも相当荒っぽいことをやってきた。殺した相手も多い。しかし、それは過去のことだ。妻は七年前に亡くしたが、九歳になるトマスという息子もいる。それに、今はヴァネッサという名門の一人娘でタンパ市長夫人と熱愛中だ。危険は避けたい。ジョーは、水疱瘡にかかったトマスを車に乗せて情報を告げてよこしたテレサという殺し屋に会いに行く。テレサも雇い主に命を狙われていた。うまく話をまとめてくれたら、ジョーを襲う殺し屋を教えるというのだ。

    デニス・ルヘインという作家は初めてだが抜群に面白い。クライム・ノワールというジャンルには疎く、予備知識はなかったが、グレイの地にヴィンテージ・カーとリボルバーのシルエットが浮かぶ表紙に魅かれて手にとった。パーティーに顔を見せるギャングたちの写真に色めき立つ記者を編集長が抑えにかかる冒頭の挿話で、主要な登場人物の紹介を片づけるだけでなく、本編で重要な役割を果たす、ありえない登場人物まで総ざらいしてみせる手際はなかなかのもの。えっ、ありえない登場人物とは誰かって?そう、絶対に在り得ない存在。なぜかといえば、それは「幽霊」だからだ。

    ジョーは、事あるごとにニッカボッカをはいたブロンドの少年を目にする。それは夜のパーティー会場だったり、真昼間の桟橋の上だったり、時間や場所に関係なく現れる。何かを告げに来ているようだが、着ている物や髪形ははっきり見えるのに顔にあたる部分だけがぼやけている。およそ三十年も昔のころの服装をした少年はジョーの父親に似ているようにも思われるが、ジョーには、父親の少年時代の姿は想像できない。どうやら、孤独な少年時代を送ったジョーには両親と過ごした良い思い出はないみたいだ。

    実は、『過ぎ去りし世界』は、<コグリン・シリーズ>三部作の第三作にあたるらしい。ジョーの子ども時代や、ギャングとしてのし上がってゆく時代は前二作に書かれている。それらを読めば、ジョーと両親の確執も、「幽霊」の正体も、もっとはっきりするのだろうが、本編を読むのに、前の二作を読む必要はまったくない。これ一冊で確立した世界がある。しかも、小説の書き手としてのデニス・ルヘインの実力は並々ならぬものがある。読み終わってから再読すると巧みな伏線がいたるところに引かれていて、うならされた。作品世界の紹介も必要充分になされている。

    何より魅力的なのは主人公であるジョーの人物像だ。人を殺し、麻薬も扱うのだから善悪の範疇で分類すれば悪の側に入る人物であることはまちがいない。ただ、作者もいうように、この世の中にまったくの悪人も完全な聖人もいない。一本のスケールの両端に悪人と聖人がいるとすれば、われわれは、その目盛のどこかに位置している。まあ、ふつうの人生を送るわれわれ一般人は、かなりの程度で真ん中よりのどちらかにいるだろう。ジョーは、まちがいなく悪に近い。それくらいのちがいだ。

    主人公だけがよく描けていても、まわりがショボかったら、その小説はとても読み続けられない。この作家は、魅力的なライヴァルや相棒、それに敵役を作り出すのがうまい。敵対関係にある黒人のギャングとディオンがもめたとき、その仲裁に入ったジョーとボスのモントゥーソ・ディックスの話し合いがいい。互いを信頼し合い、認め合いながらも手を組むことができない二人は絶体絶命の状況下にありながら、海のために乾杯し、互いの息子の噂話にふける。

    ギャングや殺し屋といっても、全部が全部キレッキレでヤバい奴ばかりではない。働き盛りの男たちは、学校に通う年頃の子どもを持つ親でもある。自分の命を狙っている相手の家に乗り込み、ビールを飲み交わしながら話すのもやはり子どもたちのことだ。タクシー会社で働きながらフリーで殺し屋もやるビリー・コヴィッチとの対話も読ませる。凄腕の殺し屋というのは、そのターゲットさえも心を許してしまいそうな、ごくごくふつうのどこにでもいる善人にしか見えない。裏稼業さえ別にしたら、友だちにしたいような人間なのだ。互いの妻が死んだ時は弔いの席に顔を出す関係でもある。しかし、何かがあれば殺しあうしかない。緊張感をはらんで対峙しあう二人の間に過ぎ去っていく時間の愛おしさ。

    いくら愛し合っても展望の持てない男女の関係ほど苦しくも切ないものはない。ヴァネッサもジョーもこの関係がいつまでも続けばいいと思っている。しかし、そんな時間が長く続くはずがないことは二人もよく分かっている。だからこそ、セント・ピーターズバーグにあるサンダウナー・モーター・ロッジ107号室での逢瀬は時を惜しんで愛し合うことになる。相手がギャングと知りつつも、生まれてから今までで最も幸せな時間を過ごせているという実感は嘘ではないからだ。ヴァネッサのこの愛も哀しい。

    テンポのいい会話、凄まじい暴力シーン、と息もつかせぬ展開でぐいぐいと押しまくってくる前半に比べ、後半は少しずつ不安の影が忍び寄る。思い出したのは、映画『ゴッドファーザー』だ。パート1のデ・ニーロ演じるコルレオーネがのし上がってゆくときの仲間や同郷の者に寄せる情愛が暴力をさえ美しく見せていた。しかし、パート2、パート3と展開するにつれ、ただただ組織を守るために自分の信条をすら犠牲にしていかざるをえないマフィアの実態が空しく思えてきたものだ。『過ぎ去りし世界』は、あの映画に似ている。そういえば、イーストウッド監督の『ミスティック・リバー』は、デニス・ルヘイン原作だった。シリーズを構成する前二作『運命の日』、『夜に生きる』を探し出して読みたくなること必定の一篇である。

  •  コグリン三部作の完結編。警察小説としての『運命の日』では長男のダニー・コグリンを、ギャング小説としての『夜に生きる』では三男のジョー・コグリンを描いたシリーズ最終編は、ジョー・コグリンのその後、前作より10年後の世界を描く。少し前に紹介された『ザ・ドロップ』という小編も含めて、最近は裏社会に材を取ることの多いこのところのルヘイン。

     本書は裏社会を描いているものの、実は背景としては太平洋戦争真っ只中である。つまり現代人にとってはもはや過ぎ去った時代であると同時に、暴力的な暗黒組織にとっても、ラッキー・ルチアーノが収監中というもはや過ぎ去りし世界の物語なのである。

     さて、もとはハードボイルドの探偵小説でスタートを切り、その後ギャング戦争に題材を移しているかに見えるルヘインだが、最近では、ドン・ウィンズロウなども同じ傾向で小説戦争を仕掛けているところを見ても、この題材、つまり暗黒街や犯罪組織間戦争というアメリカ史にとって切っても切れない裏世界は、人間の生き様として魅力溢れるものなのだろう。

     犯罪結社というと切りがない闘争というイメージが歴史上残されているし、現に日本でも最近の組織間抗争は衰えを知らず繰り返され、一般社会に不安を呼び起こしている。

     アメリカは銃の歴史を持つ国家なので、抗争そのものも派手だし、あらゆる小説にガンマンという職業も当たり前のように頻出する。西部劇の舞台に生まれた文化が、コンクリート・ジャングルの時代にも変わらず引き継がれ、男たちは撃ち、撃たれる。

     本書では子供の姿をした幽霊がジョーの視界に頻出するし、彼には9歳になる息子がいる。子供たちの世界を巻き込んでの暴力闘争というところに、普通の親なみの痛みを覚え、悩む主人公は、作者がならではの、勧善懲悪ではない、善と悪の間を行き来するしかない弱い人間たちの象徴であるかに見える。原罪を持つ人間たちのカルマのようなものが小説をドラマティックに構築しているように見える。

     人間の命がごみのように扱われ、せっかく生まれた者たちが、いともあっさりと消えてしまう世界。手軽に持ち運びされ得る人間の運命、もしくは死体。そんな過酷な世界に身を置く者たちの極度の日常世界。それは、我々の遥か遠くにあるようでいて、実は隣り合った場所にこっそり紛れ込んでいるような世界であり、それはもしかすると一般社会にも容易に入り込んで来るかもしれない重たい駆け引きで糾われる残酷な絵巻の世界であるのかもしれない。

     そうであれば、むしろ本書の世界は、過ぎ去らざる世界であるのかもしれない。警鐘は鳴り響き、そして今に続いているのかもしれない。

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