グッドラック: 戦闘妖精・雪風 (ハヤカワ文庫 JA カ 3-26)
- 早川書房 (2001年12月15日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (624ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150306830
感想・レビュー・書評
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ああもう5をつけるよ。
人間的、機械的、と言ってしまうのは簡単だ。
だがその土台をどう定義する?
その基準をどう伝達する?
人とは? 機械とは? “わたし”とは?
ガトリングガン並の勢いで、普段の生活では棚上げされているあれこれを突きつけられる1冊。
1作目より視点は深く、人物も世界も深く濃くなったSF。
雪風の格好よさったらない。
そして桂城少尉がドストライクすぎて転がった。 -
戦闘妖精雪風の続編。
単なる戦記モノでもなく、戦争を通じた人間ドラマでもなく、社会派でもなく。シンプルにこれはエンターテインメント。SFである。
人口知能テーマで、高度に発達した電子頭脳と人間の関係がうんたらとかいうともはやテーマとしては陳腐ではないかと思われるが、それはこれでもかというほどの博覧強記なマニアックな描写が強烈なリアリティを持たせてじっくり読ませるし、無駄にキャラが出てきたり無駄に饒舌だったりしないし、本編に無関係なエピソードもなければ、意味のない恋愛や性描写もなく、ひたすら冷徹なまでにフェアリー世界を描いている。凄い。
最後はいよいよこれからってところでメイヴ雪風が飛翔して終わるって、これは「さらば宇宙戦艦ヤマト」じゃないんだから!という読後感。続きを読めってことですな。 -
戦闘妖精・雪風シリーズ2作目。
三ヶ月間意識のない零を心配するブッカー少佐とか、部下を誰一人失いたくないブッカー少佐とか、ブッカー少佐は天使なところがおおい。
零は雪風のことを愛している。自分の一部を失おうともそれを守ろうとするほどに。その愛こそがジャムの、人間の理解しがたいところであり、だからそれが戦略の要となればいいのに。
コミュニケーションというものが根底のテーマとしてあるが、それそのものが何れ程に意味を持つかというのがよくわかる。意思疏通ができないことから起こる、ジャムと人間の擦れ違い、戦闘。
桂城少尉がいちばん人間らしくおちゃめでキュートになってた。ビフテキ3ポンド!!!
ロンバート大佐は娘とかにすごい甘そう。雪風の「わたしを信じろ」とか、零が雪風を疑わずに真意を理解するところとか、1作目とは全く違う意味でドキドキしたし、面白かった。 -
2012年2月4日読了。1999年に刊行されたシリーズ第2作。激化する「ジャム」と人類との戦い、人類を認識しFAF組織の中に入り込み始めたジャムの変化を前に、人類側もまた分裂し、戦いはさらに混沌としていく・・・。「自分」と「ジャム」の存在がリアルで、自分たちを理解しない「地球/日常」との阻害を主人公が感じるのが前作であったが、この作品では人間もジャムもコンピュータも交じり合い、「何のために闘うのか?」という答えすら、容易に出せない状況に登場人物たちは陥ってしまっている・・・。各作品の書かれた時代の「リアルな問題意識」が小説に反映されているからなのだろうが、これだけの自問自答・真摯な問いかけがSF小説を1作書くために必要とは・・・我々は恐ろしい時代を生きているものだ。絶対的な物語という存在が信じられなくなり、あいまいな「幽霊」が立ち現れる物語が「神」について語らざるを得ない、という逆説は面白い。
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20110916開始
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特殊戦のジャム論がいろいろ楽しい。零の心神喪失→覚醒→戦線離脱→現場復帰に伴う成長、成長する以前の主人公にそっくりの新しい相方の登場、頼れる上司と和み系の面々(エーコさんとかバルームさんとかピボットさんとか他の特殊戦メンツとか)、あと駄目上司の粛清・クーデター……と王道要素が盛られていて読んでいて幸せでした。しゃべる雪風可愛いよ雪風。戦略コンピューターと戦術コンピューターも可愛いよ。
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手に汗握る一冊とはまさにこの本のことを言うのだ。
雪風が零を個人名で呼び始めるシーンに驚き、死んだはずのバーガディシュ少尉が出てくるシーンに震え、ただ「われはわれ」であると宣言するジャムの圧倒的な存在感に絶句する。 -
声あるものは幸いである。
スタニワフ・レムより付き合いやすいから。
雪風シリーズは現在第3部まで出現している。
衝撃的なラストの「戦闘妖精・雪風」、最先端の「アンブロークン・アロー」はそれぞれ傑作と呼び声高い。
けど、もし3本の中からひとつ選べと言われたら?
俺は2本目、「グッドラック」を選ぶ。一番「会話をしている」と思うからだ。
雪風が、1作目がセカイ系の先駆であるという論旨はよく見かける。まぁ確かに「セカイの危機」を相手に「戦闘ヒロイン」と「ぼく」がなんちゃら〜というプロットは、確かにセカイ系まんまではある。
・・・というのは嘘。もしくは間違いだ。
本作を、もちろん1作目もそうだが、とにかく読めば雪風がセカイ系「ではない」などということは明白だ。別に雪風が零を捨てたことを言っているのではない。そうではなくて。
ジャムは人間とコミュニケーションをとろうとしている。
雪風はヒロインじゃない。
そして零は、無力ではなくなる。
ジャムは確かに得体が知れない。そもそも概念的に得体などというものが(少なくとも今の人類には)理解可能なのかどうかも怪しい。
でも、それはジャムにとっての人類も同じことだというのが本作で明かされる。そしてその時点でジャムは「あきらめない」。
ジャムは真剣に人類の得体を知ろうとしている。そこにあるのは惑星ソラリスのような不条理ではない、もっと必死さに溢れた、自身の存在がかかっているらしい戦いだ。
ジャムは「セカイの危機」でも「危機を演出する舞台設定」なでもない。ジャムはジャムだ。そこに勝手に存在するもの。人類とは別のもの。敵、だ。危機に陥ってるのはセカイじゃなくて人間なのだ。
雪風もそうだ。雪風はヒロインではない。「きみ」ではない。(実は「彼女」という表現もアウツだ。戦闘知性に性別なんか無いじゃん)
雪風はそこに勝手に存在し、人類とは別のもので、自身の残存と敵の殲滅を目的として飛んでいる。
ヒロインなどという人間が与えうる役割なぞ持たない。それはまさに雪風には「関係がない」事象だ。
関係がある事象なら、雪風は積極的に関わる。一度は捨てた「生体ユニット」を、戦術・戦略の変化でひょいと「再装備」するあたりがその象徴だ。無関係なもの/邪魔なものは排除する。有益なものは共生する。
生き残ることに純粋。純粋でなければ即死する領域で育まれた知性。相手のジャムは手強いのだ。
だから1作目で零が放棄されたのは当然の帰結だった。零はなにも見ていなかった。なにともコミュニケーションを取ってはいなかった。
それは、それでは存在していないも同然だ。この「真剣しゃべり場 知性代」で発言と視聴をしないヤツはデッドウェイトだ。すぐに消される。
だけど零は生還した。それは、もう一度このコミュニケーション戦争に参加するチャンスを手に入れたことに他ならない。もちろんジャムはおろか雪風とさえ会話しなかった零は、そのことに気づかなければまた消されただろう。
でも、大丈夫だった。気づいたのだから。そこから先は自分の存在を賭けることになっていく。
つまるところ、ここにいるのは君とぼくだけではないし、ぼくは君とは全く違う存在なのだ。
そしてここ、フェアリィ星は、異存在同士が殴りあうリングとして機能している。
相手の存在を知覚すること。自分の存在を知覚させること。それらが戦闘として処理入出力されるリング。
ゴングは1作目ですでに鳴っていた。けど、選手紹介をみんなで再確認する必要性と、各選手に聞こえやすいようにもう一度ゴングを鳴らす必要性があった。それがこの「グッドラック」なのだ。
相手はソラリスなんかじゃない。「話のわかるヤツ」だ。それが最大の弱点であり、また最も危険な武器でもある。
そしてそれはお互い様なのだ。
余談・・・
ラストがガメラ3と似てると思うのは俺だけ? 俺だけですかそうですか。