- Amazon.co.jp ・本 (165ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163900797
感想・レビュー・書評
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小学五年生の大栗恭子視点…いや、途中で判明するのだが、現在30歳頃の恭子が小学五年生の頃を回想しながら書いている手記という形で物語は進行する。
そもそもどうして恭子はこのような手記を書いているのか。
そのことも終盤の畳み掛けの時にわかってくる。
とりあえず全体を読んだ印象としては、この世界に終始生温かいぬめった空気感と気持ち悪さが漂っている。
とても小学五年生女子の視点とは思えないくらいに、彼女の住む「ふるさと」B県海塚市、そして通っている学校、先生、クラスメイト、近所の人々、神経質で我が子に対して否定的な母親、老若男女問わず監視し合っている空気、描き出されるすべてが不穏で、また主人公の心の拠り所のなさを感じた。
そんな不穏で不安な世界に、鈍い恭子はうまく溶け込めておらず、納得もできてはいない。
文体や文章の雰囲気としては、湊かなえさんの作品を私は読みながら想起しました。湊さんの文章をさらに不穏に、世界観をぐにゃりぐにゃりとした感じ…と。
まあそれは置いといて、本作は様々な題材を取り込んでおり、随分と挑戦的な作品だ。と、そういう意味でも、じんわり冷や汗をかく作品だと感じた。よく書ききられたな、と。
その姿勢に敬意を表して☆5とさせていただいた。
いつも通り完全主観の評価です。
以下長々と感想と一部あらすじを書くが、ネタバレを含むので、気になる方は読了前にこの感想を読むのは控えられたらと。
感想書き切れた自信はないというか、書き切れていませんが…
ただ、ぜひたくさんの人に本書を読んでほしいと思った。
一時は避難区域に指定され、長らくふるさとに帰ることを許されなかった海塚の人々。
その規制が解かれ、どうせどこも同じようなものなのだから、せっかくだから故郷に帰ろうと、集い、地域を起こしてきた海塚市民。
海塚の歌はみな歌えて当然。
ボランティアなどの奉仕活動もして当然。
恭子のクラスの10の標語には「給食を残さず食べよう」「決して弱ねをはかない」「空気を読み取ろう」「自分の感覚を大切にしよう」(ここ矛盾している気がするが)「結び合おう」「りっぱな海塚市民になろう」「みんなは一つ」…などが掲げられている。
うん、普通に同調圧力が過ぎて気持ち悪いしこんなクラスに居たくないな。
さらに恐ろしいのは、これがクラス内だけの方針ではなく、海塚全体の方針であるということ。
海塚の食べ物ほど安全なものはない、などの描写から、原発事故周辺地域を暗示しているのだろう、そしてどこも似たようなものという描写から、そういった地域はほとんど日本全国に蔓延しているのであろうと考えられる。
そして、最後まで読んだ感想としては、おそらく自治は各地域に完全に任されており、国全体としての法律や管理が機能していない、国としては完全に崩壊しているのではとも推測される。
もしくは国全体が海塚のような方針なのか…
そう認識すると、ただの一地域の気持ち悪い話かと思いきや、大規模なディストピアがバッと眼前に迫ってくるようであった。
しかしそのディストピアは、どこか現実味があって…原発が次々再開・増えている今、実際に本作のような事態に陥る可能性もあるし、今のこの国を見ていると、そのような事態に陥った場合、まさに本作のようになる可能性があるのではないかと…
中国やロシアのような情報統制社会を対岸の火事としてはもう見られないのではないかと…
恭子の周りの人間が不穏だ、という話をしたが、恭子の手記であるにも関わらず、当の恭子の感情というか、何を考えているのかわからないところも、気持ち悪さに拍車をかけていた。
その理由は終盤を読んだらなんとなく推察はできるのだが…
と同時に自分の周りの世界の見え方すら、自分の見え方すらも、常に不安定なものなのだと思い知らされる作品だ。
海塚に溶け込めている人間が病的なのか、溶け込めない人間が病的なのか。
これは、現実社会に生きる我々の生活の中にある、あらゆる社会的規範や空気の読み合いを風刺しているのだろうかと思えた。
海塚のようなディストピアほどでなくても、今のこの現実に溶け込めていない人間はすべて病気なのか?
この現実社会に不満を持ち反旗を翻す人間は全て唾棄されるべき病的な人間なのか?
いや、既にこの現代日本はディストピアの沼にある程度嵌り切ってしまっているのではないか?
この作品が世に出た2014年から、どんどん日本はディストピア化に拍車をかけているのではないだろうか。
読みながら(勝手に)そんなメッセージすら織り込まれているように感じた。
タイトル「ボラード病」とはなんなのか。
手記の中で、恭子たち母娘が地域の人々に混じって港でゴミ拾いのボランティアをしている時に出会った、地元の漁師風の男が繋船柱を指していう。
「これはボラードというのだ。これだけは何があろうと倒れない」
船を繋ぎ止めるために、ロープを巻き付けるための柱。それは「老人の人差し指のように先端部が折り曲がり、繋留ロープを絶対に放さないという強い意志に漲っていました」。
海塚市民の裏打ちされたような、異様なまでの「結びつき」を表現しているのだろうか、その結びつきから逃れようとする人間すら離さない、そのような海塚全体の執念と呼べる何かを、離したら崩壊してしまいそうなこの集団の危うさを表現しているとするならば、作者が「病気」だと思っているのは…。
終盤は怒涛の勢いであった。
すべてのバラバラの不穏な描写が繋がっていった。
ちなみに私は終盤以前の描写を冗長だとは思わない。全て本作で訴えたい必要な描写だったと思う。
さて、終盤特に印象に残った部分を引用させていただく。
「しかし人間の意識というのは、実に不思議なものです。周りの人間の言動次第で、見えるものも見えなくなってしまうのです。…目の前にとんでもない物が存在していても、全員が無いと主張すればそれは消えてしまいます。それが人間というものです。」
最後の「だったら抱いてみろよ臆病者。」は格別印象に残った。
周りの人間から抱くことすら忌避される、そんな人間にしか吐けない挑戦的な台詞だ。
最後の一文といい、作品全体といい、作者の目を通して現代の私たちに警鐘を鳴らしている、本書はそんな文学作品に思えてならないのだ。詳細をみるコメント1件をすべて表示-
伊佐坂ちょろさんまさにそんな感じ!自分では言葉に表す事が出来ずにいました。本読む前にこの感想読んでから読めば良かったなぁ。まさにそんな感じ!自分では言葉に表す事が出来ずにいました。本読む前にこの感想読んでから読めば良かったなぁ。2024/02/08
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うっすらわかりかけてはいたものの何が病であるのか、考えながら読みすすめる。海塚は明らかに病。この病は序盤で考えていた病状よりもずっと深いし歪んでいるし、強い。確かにこんな町、どこにもないし、全部がそうとも言える。考えるふりだけするのもまた病。ラスト付近、この著者の短編「不浄道」をふと思い出す。(長らく知人から返ってきておらず、連絡がつかないので私の記憶のみ)「ほらここも」「こっちも」みたいなリズムで、時折私も海塚的なイデオロギーに乗っかるふりぐらいはしようかなあと思ったりする。ごくたまに。でもやっぱり、無理だよって思う。どいつもこいつも、ってこころの中で舌打ちする自分がいる。
主人公恭子があまり頭のできがよくないというのが全体的に風通しを良くしているというか押し付けがましさを排除できている要因なのだろうか。
「馬鹿だと思いました」とかいう率直な言葉にさえ艶を感じるのは吉村萬壱作品ならではだと感じた。 -
今となっては東日本大震災のことを思うけれど、そんな局所的な話ではなく、私達は世界を認識できるのか、認識しているのか、について書かれた、これは普遍的な小説だ。
精神異常者は、恭子なのかもしれないし、母親なのかもしれないし、恭子と母親なのかもしれないし、海塚市民なのかもしれない。恭子のモノローグだから、というのとは別の次元の話として、それを特定することは出来ない。現実世界において、誰の考えが異常であるかを断言することは出来ないのだ。それは、異常と正常の境目は刻々と移り変わるものであるからだ。ある時代において正常な考えであったものが、別の時代においては異常な考えとなる例はたくさんある。
そんな中で、「結び合い」の異常さに注目したい。東日本大震災の直後によく言われていた「絆」という言葉に、アンチの意見を述べれば人非人のように言われただろう。しかしあれから数年経って、いまだに故郷に帰れない人がいるという現実に思いを致す人はどれくらいいるのだろうか。つまり私が言いたいのは、「絆」などという耳触りの良いことを言っても、そんなものは一過性の、自己満足に満ちた、欺瞞でしかない、ということだ。人はいつだって、他人の幸不幸になど無頓着なものなのだ。
ボラード病とは何か。私達を世界に繋ぎ止めるもの。人は自分の存在の正当性を確かめるために、異質な人間を作って弾圧する。そうして、私達は仲間だね、と確認する。常に「私達」の側にいられるように、誰かの異質さを見付けてはそれを指摘し、排除する。そうすることによって、「私達」の側で安心して生きていられる。安心して生きていられるならば、排除された側の人間のことなど考えもしない。ボラード病とはすべての人間のかかっている病だ。
最後の一文には、しびれた。 -
ゾッとしました。ものすごく怖かったです。読んでいる途中は、今年1番の本だとも思いました。トーンだけで世界をつくり上げてしまう吉村さんの才能に愕きました。このトーン、他にはないです。とにかく凄い本です。
ひたひた、じわじわ、色がなくて、雨の冷たさが印象に残ります。不気味に笑ったお面とか同じ顔の軍の隊列とか、そんな感じ。
私が装丁を描くなら、くすんだブルーグレーの雨と赤いランドセルかなぁ。閑散とした誰もいない街というのもいいかも。キュビズム的な描き方とか、いくつかのモチーフをコラージュして捻れ歪ませたりするのもいい。
逃げ場がなく包囲されていく恐怖。意にそぐわない者は排除され、戦時中のような強制される思想の一本化。隠蔽して無かったことにする間違った世界は今の日本であり、SNSなどですぐに炎上し個々の意見が尊重されない現代社会にこの本は警鐘を鳴らしている。政府や阿呆な現代人に怒っている。私はそう感じました。
最後に書かれた飼いウサギのうーちゃんについてのひと言「本当はうーちゃんには前肢がなかった」という告白が、全てを物語っていると思いました。自分の見えているものは本当に皆と同じに見えているのか。目に見えているはずの現実さえも脳によって改竄される可能性もある。 -
5年生の恭子と母親。
恭子の日記のような口調で始まって行く。
災害があった町。避難生活をして戻って来て、母娘で暮らす。
町内の人たちと、学校との繋がり。
読んでいっても何が起きているのかわからない。
でも読み進むにつれて、どんどんひきこまれていって、最後あたりのページから震えが止まらなかった。
こんな作品にずっと出会いたかった。
自分が正常だと確認したい為に、あなたたちはわたしが必要なんですね。
私は恭子に同調する。
最後の言葉が最高だった。 -
ジョージ・オーウェルの「一九八四年」の世界を連想せざるを得なかった。「一九八四年」の日本近未来版、作中ではもちろん特定はしていないが(特定してしまったら大変なことだ)、放射能汚染に起因する福島の帰還困難区域の近未来を舞台にして描いていると想像した。
やはり全体主義は気味が悪い。しかしながら、それに染まってしまえば(作中の表現では、海塚にドウチョウしてしまえば)、楽な部分もあるのかもしれない。自由を享受し続けることは苦痛を伴うものでもあるから。仮に自分が作中の海塚のような世界に放り込まれたら、「ボラード病になれる」だろうか?いや、普通に海塚讃歌を歌っているだろう。自分はそんなに強い人間ではないから。どうにもならないことを気にしても仕方ないし、世の中なるようにしかならないのだ。
読了後、このレビューを書くにあたって少し読み返してみて、この「ディストピア小説」の意図が少し分かった気がした。あまり具体的に書くと作者が炎上しかねないので、含みを持たせた書きぶりになるのだろう。恭子は、海塚の人たちが正常であることを確認できるように残されている「ボラード」であるということか。今となっては、強制収容所に隔離されてしまったのだろうか。何とも哀しい結末である。
ディストピア・・・逆ユートピア.暗黒社会.ユートピア(理想社会)と正反対の社会.ディストピアは全体主義国家などをイメージして用いられることが多い.
ボラード・・・係留柱.船をつないでおくため、波止場や桟橋などに設けた杭. -
久しぶりに小説らしいものを読んだ。
はじめは虐待ものかと思わせて、震災後のイジメのような場面もあり、どこかがおかしい、この違和感は
何なのだろうと読fみ進められていく。
後少しの結末を知るのが恐ろしくなる物語。
よほど綿密に練られた構成なのだろう。 -
「フィクションの世界は虚構なんだから毒にも薬にもならない、役に立たないものだ」と思っている人たちに突きつけてやりたくなる小説。
ヘタなルポやノンフィクション本やデモよりも人の心をえぐってくる、恐ろしい作品でした。
明らかに東日本大震災以降の日本社会を意識して書かれていますが、日々のニュースを見ていて意識の底にひっかかる違和感が、見事に小説として形になっていました。
「結び合い」、なんて気持ち悪い言葉なんでしょう。
震災以降、人々の「繋がろう」という取り組みがフィーチャーされることが多いですが、極端な次元まで行くと、本作の海塚市みたいになるんだろうな。
海塚の人たちも、この気持ち悪い世界に乗っかるしかなかったのでしょう。
「とんでもないものを読んでしまったな」というのが正直な感想です。
でも、より多くの人に、このとんでもなく気持ち悪い小説に出会って欲しい。