構造主義的日本論 こんな日本でよかったね (文春文庫 う 19-5)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167773076

感想・レビュー・書評

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  • さらさらと読んだだけで、まだよくわかりません!

  • あーおもしろかった。

    ○人間は機嫌よく仕事をしている人の隣にいると自分も機嫌よく何かをしたくなるものである。
    ○人生はミスマッチである。…それでも結構幸福に生きることができる。
    ○こだわらない、よく笑う、いじけない
    ○夢を達成できるかは、自分の将来の こうなったらいいな状態 についてどれだけ多くの可能性を列挙できたかにかかっている。

  • 読み始めてから、この本は読んだことがあったということに気がつく。そんなに多くはないけれども、これまでもない訳ではないという類のことだし、前に読んだこと自体を忘れてしまっているわけなので、内容についても覚えていることは少なく、初めて読むのと別に変わらない。

    最初の方に出てくる「言葉の力」というコラムは面白かった。題材は「言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。ジャーナリスト宣言。朝日新聞」という朝日新聞のコマーシャルコピーだ。日本のテレビを見る機会がほとんどないので、今でもやっているのかどうか知らないけれども、僕が日本にいた時には、テレビコマーシャルでもこのコピーが流れていたと思う。
    僕自身は、このコピーに対して、何となく、変な感じ・違和感を持っていたのだけれども、何故、違和感を持つのか分からないでいた。
    その違和感の正体を、内田樹が、小田嶋隆のブログからの引用を紹介しながら、あるいは、内田樹自体の言葉で説明してくれている。

    小田嶋隆は、このコピーは「微妙に恥ずかしい」と評した上で、その理由を下記のように考えていることを紹介している。
    ■朝日新聞自体が、言葉の力を信じていないのではないか。「力」を「チカラ」等としているのは、その表れ。
    ■「感情的で、残酷で、ときに無力」なものを、簡単に信じちゃって良いの?
    ■言葉を信じることよりも、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らを戒めることがジャーナリストの心構えの第一条じゃないの?言葉の「チカラ」を安易に信じるジャーナリストは包丁の切れ味に疑いを持たない板前と同じで、ダメな職人。要するに素人。

    更に内田樹は、"「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める"という自説(というか、ラカンの教え)を引いて、朝日新聞のコピーに違和感をとなえている。
    朝日新聞のコピーは、「言葉は道具である」という大前提に基づいて出来ているが、本当にそんなこと言っちゃって良いの?ということだ。言語以前にすでに感情があり、他社への害意があり、「言葉」はそれを現実に示すための「道具」に過ぎない。そして、言語の価値は、それが「無力」であるか「有力」であるかの、現実変成の結果によって計量される、ということを朝日新聞は言いたいのですね、それは本当でしょうか?というような異議申立だ。
    「私は私が書いている言葉の主人ではない。むしろ言葉が私の主人なの」であり、「言葉の力」とはそれを思い知る経験のことのはずなのに。

    たぶん、僕自身の違和感は、朝日新聞のコピーは、「自分達の言葉で世の中を変成し得るし、それをするのがジャーナリストだ」と言っているように感じて、それに対する違和感だったと思う。
    だから、小田嶋隆や内田樹の違和感とは中身が微妙に違うのだと思うけれども、でも、小田嶋隆や内田樹が言っていることを、無意識に感じていたのかもしれない。

    そういうところが「面白い」と感じた次第。

  • 独自の視点でいまの日本をみつめていらっしゃる。

  • ブログの内容をテーマごとに編集・加筆されたものだけあって、いろんなテーマが散らばっていて読みづらい部分もあった。しかし、言葉が先にあって意味は後からついてくることやなぜ葬礼を行うかなど、最近自分の中でもやもやしている悩みに対してヒントを与えてくれる箇所がいくつかあって良かったです。

  •  私たちが考えることのできないものを、私たちは考えることはできない。それゆえ、私たちが考えることのができないものを、私たちは語ることができない。
     世界は私の世界であるということは、言語〔それだけを私が理解している言語〕の境界が私の世界の境界を指示しているということのうちにあらわれております。形而上学的主体は、世界に含まれているのではありません。それは、世界の境界なのです。
     自分の言葉が自分の世界の境界である・・・

  • なんでこれが本棚にあったのかはわからないけど、読んでみたら面白かった。思考の感覚が似ているんだろうな、内田せんせと。
    ま、こちらは商売として、エッセイではなくて結果やデータをださなアカンのが辛いところや。

  • 時間があるときには、とても面白い読み物。作者の才気煥発振りはいつも同様すご~い。

  • もう一度読み直してみたい。

  • 「こんな日本でよかったね」
    このタイトルは小泉首相が構造改革を旗印に
    日本を変えようとしている際
    それに違和感を覚えてつけたという。
    今となってみれば、
    小泉構造改革がすべて悪だとは言わないが
    ゆり戻しや破たんがあちこちで起きている。
    それよりも何よりも日本の赤字問題は
    またまた棚上げにされている。
    でも、そういった不安感を持ちながらも
    「こんな日本でよかったね」という言葉は
    今の日本に安堵感をもたらす。
    内田先生は構造主義を分かりやすく語る大学の先生。
    さてさて、構造主義とは何かを簡単には語れないが
    (理解できてないので)
    本書からひたすら抜粋。

    「私は知っている」ではなく、「私にはよくわからない」から
    始まる知性の活動、私はそれが構造主義だと理解しています。

    作家は作品のあとにはじめて存在し始めるのである。
    モーリス・ブランショ

    「言いたいこと」は「言葉」のあとに存在し始める。

    リアルなのは言葉だけである。
    言葉の向こうには何もない。
    けれども言葉は「言葉の向こう」があるという
    仮像をつくりだすことができる。

    古代中国社会に濃密に漂い、
    リアルに人を撃ち殺すだけの力をもっていた祝能と
    それを統率するダイナミックな力をもつ文字についての
    物語を読んでいると、私は胸がどきどきしてくるのを感じる。

    子どもには先行世代に
    「対立する態度を取る同性の成人」が
    最低二人は必要だということである。

    なぜ、葬礼を行うのか?
    理由はひとつしかない。
    それは葬礼をしないと死者が
    「死なない」からだ。

    人生はミスマッチ。
    平川克美

    レヴィナス老師が私たちに求めたのは
    目が覚めるたびに「私は誰でしょう?」と
    問いかけるような「知性の次数」の繰り上げである。

    コミュニケーション感度の向上を妨げる要因は、
    「こだわり・プライド・被害妄想」。
    春日武彦

    「強い個体」とは「礼儀正しい個体」。

    世界を一気に救おうと考えは人間の人間性を損なう。
    レヴィナス

    「女性的なもの」の本質は「無償の贈与」。

    できるだけ今の自分と縁の遠い人間の書いた本を読むこと。

    すべての世界史的な大事件や大人物は二度あらわれるものだ。
    ヘーゲル

    「リセット」の誘惑に日本人は抵抗力がない。

    泣くべきときに正しい仕方で泣けること。

    構造主義的なものの見方とは、私たちの日常的な現象のうち
    類的水準にあるものと、民族誌的水準にあるものを
    識別する知的習慣のことである。

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。神戸女学院大学を2011年3月に退官、同大学名誉教授。専門はフランス現代思想、武道論、教育論、映画論など。著書に、『街場の教育論』『増補版 街場の中国論』『街場の文体論』『街場の戦争論』『日本習合論』(以上、ミシマ社)、『私家版・ユダヤ文化論』『日本辺境論』など多数。現在、神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰している。

「2023年 『日本宗教のクセ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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