須賀敦子の旅路 ミラノ・ヴェネツィア・ローマ、そして東京 (文春文庫 お 74-1)

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (496ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784167910419

作品紹介・あらすじ

61歳で初の著作『ミラノ 霧の風景』を刊行し、衝撃のデビューを飾った須賀敦子。その8年後に世を去り、残された作品は数少ないが、その人気は衰えることなく、読者に愛されつづけている。2018年は、須賀の没後20年。その記念すべき年に、生前親交の深かった著者が、ミラノ、ヴェネツィア、ローマと須賀の足跡をたどり執筆したシリーズを加筆改稿し、新たに「東京」篇を書き下ろした。『コルシア書店の仲間たち』刊行直後に行なわれた須賀へのロングインタビューも初所収となる。夫と暮らし、コルシア書店に通ったミラノ。夫を亡くした傷心を慰めてくれたヴェネツィア。晩年、ハドリアヌス帝の跡をたどったローマ。帰国後、『ミラノ 霧の風景』を書くまでの東京における「空白の20年」。須賀敦子の起伏ある人生をたどり、その作品の核心に迫る意欲作。「この本の白眉はなんといっても書き下ろしの「東京」篇ということになる。〈略〉夫を失い、日本に帰国してから作家・須賀敦子が現れるまでに実に20年近い時間が経過しているのだ。この空白の20年にいったい何がどのようにして満ちていったのか。その謎が解き明かされる」(福岡伸一氏「解説」より)

感想・レビュー・書評

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  • 図書館で借りた『須賀敦子のミラノ』−私が思い描くイメージどおりの写真がふんだんに掲載されている−に魅せられ購入を決意するも絶版となっており、代わりに入手したのが本書『須賀敦子の旅路』です。
    この文庫本は、写真こそ数枚と限定されている代わりに、ミラノの他に『須賀敦子のローマ』『須賀敦子のヴェネツィア』の3冊に東京篇を書き加えた、須賀さんの足跡をたどったもので、この東京篇こそが、今まで知らなかった須賀さんの一面を垣間見せてくれました。それは私にとって、期待を裏切るようなものでなく、想像をはるかに超えるものでもありませんでした。本書にはところどころ須賀さんの文章が引用されていますが、気をつけないと、引用文なのか、著者の大竹昭子さんの文章なのかわからないくらい、巧みな文章だと感じました。
    また、福岡伸一氏の解説も著者の意図を的確につかみ、上手に補足説明されていて良かったです。

    ただどうしても『須賀敦子のミラノ』を手元に置いておきたくて、後日古本を入手しました。次に須賀さんのミラノを舞台にしたエッセイをまた再読する際のガイドブックにしたくて。

  • 初めて須賀敦子さんの本を読んだのは6年以上前で、当時すでに故人でした。
    作品数も少ないので、ときどきゆっくり味わっていました。

    しかし今年没後20周年で、敦子さん関連の本が次々出版されている。
    おかげで忙しいです、私。

    この本の著者大竹昭子さん、須賀敦子さん研究の第一人者といっていいでしょう。
    私は彼女の『須賀敦子のミラノ』『須賀敦子のヴェネツィア』『須賀敦子のローマ』を読みました。
    この『須賀敦子の旅路』は、その三冊を評伝として読めるように加筆改稿、あらたに『東京篇』を加え、また出会いのきっかけとなった「ロングインタビュー」を収録しました。

    ですから、須賀敦子ファン必読。
    面白かったし、あらたにいろいろなことを知りました。

    でも、こんなこと書かれちゃっていいのかな…と思うことが、なくもないです。
    沖縄のNさんのこととか、古書店の丸山さんのこととか。
    いえ、私自身は大歓迎なんです。
    ま、いいか。

  • イタリアに行くのに合わせ、購入。
    美しい文章の須賀さんの旅路を、また美しい文で辿る、いい本でした。

  • 現実を生きながら美しいものに至りたい

    そんな須賀敦子の足跡を辿る本。
    なんていうか…私にはパーフェクト。
    素晴らしかった!

    悩みながら歩んでいく過程を一緒に辿っているような気分になりました。

    最後に須賀さんの年表をみて、私のこの先にも まだまだ できる、と思った。

  • 福岡伸一先生の「知恵の学校」
    第15回対談講義(特別講師:作家・大竹昭子さん)

    で紹介。
    福岡伸一先生が解説。

    マップラバーにとっても面白そう。
    ...
    ヨーロッパの地図は、見辛い。
    同じ道なのに、途中で道の名前が変わる。
    旅行者にとっては、非常にわかりづらい。

    ミラノには路面電車に乗ってこの旅の行程を辿るのもおもしろそう。

    ...

  • 須賀敦子の著作をほぼ読み終わったので、生前の須賀と親交のあった大竹昭子によるこちらを読んでみました。

    須賀敦子の足跡をたどった『須賀敦子のミラノ』、『須賀敦子のヴェネツィア』、『須賀敦子のローマ』の3冊に「東京篇」を加えた文庫版。須賀敦子の副読本であり、旅行ガイドであり、伝記であり、評論でもある。

    須賀敦子という人は謎が多い。それというのも、エッセイの形をとりながら夫の死など本当にプライベートな部分についてはごくあっさりとしか書かれておらず、時系列についても回想部分と現在、文学作品がたえず入れ替わるように記述されているので、これが須賀本人の話なのか、文学作品の話なのか、フィクションなのか、わざとわかりにくく書かれている。
    (ヴェネツィアの橋の話から神戸の回想へとするっと場面が移ったりする。)

    そんな須賀敦子の文体の謎と魅力を彼女の足跡をたどりながらゆっくりと解き明かしていく。

    夫ペッピーノの実家である鉄道官舎を訪ね、彼女の文章にあった影の部分、異国で暮らす不安と孤独を読み取り、ヴェネツィアのゲットツアーをめぐる不条理さにページが割かれている意味を探る。須賀の文章では薄められているが彼女の信仰に対する想いが真剣なものだったこともわかってくる。
    (コルシア書店も本屋というより宗教活動の場であったと考えたほうがわかりやすい。)

    特にミラノについては観光ではなく須賀が暮らしていた町だったこともあって、普通に歩いている描写が多いので、地名が出てきてもピンとこなかったので巻頭の詳細地図が地味に理解を深めるのに役に立つ。
    「ヴェネツィアが島である」ということもやっと理解できた。

    須賀が日本に帰国したのが1971年、42歳のときで、『ミラノ 霧の風景』が出版されたのが61歳。文章を書き始めるまでの「空白の20年」に須賀がどんな活動をしていたのか、そしてその空白が語り始めるのに必要な時間だったことも明らかにしていく。

    こうやってみていくとサラッと書かれているようで須賀敦子の文章がかなり知的かつ理性的に構築されていて、それがあの魅力につながっているんだなと思います。

    大竹さんの文章と構成が須賀敦子に影響されすぎているような気もしますが、全体像が見えてきたところで須賀敦子を全集で読み返してみたいなという気持ちになりました。


    以下、引用。
    
    このうち鳥の絵の一枚は須賀が住んでいた五本木のマンションの居間にかかっていたのを私も記憶しており、単行本『ヴェネチアの宿』の表紙にも使われた。
    
    須賀は日本にいたころ、自分たちはどんぐりのように小さな存在だけど、どんぐりなりに言ったり考えたりすることがあるはずだと考え、友人たちと「どんぐりのたわごと会」という集いをしていた。
    
    「日本語はハヒフヘホの音を使うみたいですね」と言ってニヤっと笑った。
    どうしてそんなコメントをしたかというと、オッティエーロさんはトスカーナの出身だからだった。江戸っ子が「ひ」と「し」をまちがえるように、トスカーナ人には「カキクケコ」の発音がむずかしく「ハヒフヘホ」となる。だから「コカコーラ」と言おうとして「ホハホーラ」になるのだが、それがためにふつうなら聞きもらしてしまう日本語のハヒフヘホが聞き取れたのだった。
    
    パゾリーニが撮ってくれたのよ。シルヴァーナさんはさりげなく言った。パゾリーニって、あの映画監督で詩人のパオロ・パゾリーニだろうか。
    
    知ってるかしら。シルヴァーナさんはつづけた。パゾリーニが亡くなったとき、ダヴィデ神父がミサをあげたのよ。おなじフリウリの出身だったから。ホモセクシャルの作家のミサをしたんだから、ダヴィデがどんなにオープンな人だったかわかるでしょ。
    
    だが、書くことにむかったときに須賀が掘り下げようとしたのは、人の孤独であり、「宇宙のなかの小さな一点」のような魂のありようだった。
    その孤独とは、人を絶望させ、悲壮感に追い込むものではなく、「人間のだれもが、究極においては生きなければならない」決意と励ましに満ちた孤独であった。
    
    「すこしずつ自分がその中に組みこまれていくにつれて、私は彼らが抱えこんでいるその『貧しさ』が、単に金銭的な欠乏によってもたらされたものではなく、つぎつぎとこの家族を襲って、残された彼らから生の意欲まで奪ってしまった不幸に由来する、ほとんど破滅的といってよい精神状態ではないかと思うようになった。」
    
    ペッピーノを亡くし、眠れなくて睡眠薬に頼りそうになったとき、そんなものを飲むよりは、喪失の時間を人間らしく誠実に悲しんで生きるべきだといましめたのもガッティだった。
    
    「しかし、私は淋しいような生き方をえらんで来たのだ。だからミラノだって、日本に帰っても、淋しい生活が私を待っていることを忘れないように」
    
    「自由と孤独とは、壁一重のとなりあわせである。孤独に生きることをおぼえたところから自由がはじまるのかも知れない」
    
    ヴェネツィアはイタリアで最初にユダヤ人ゲットができた土地で、町の北端にあるサン・ジローラモ運河の一角に、十六世紀、ユダヤ人居住区ができた。一説によれば、昔、そこに大砲の鋳造所があり、鋳造所がヴェネツィア語で「ゲット」であることからそれが地名になり、ユダヤ人が大量に移住させられるようになると「ゲット」そのものがユダヤ人街を指すようにもなったという。つまり、ゲットという言葉も、ユダヤ人をひとつところに隔離する政策も、ヴェネツィアではじまり、世界各地に広がったのだった。
    
    物を作るには、一からやり直さなければならないことがよくある。だが、やり直しは無駄ではない。少なくともそう信じられなくては、物作りはつづけられない。
    
    もともとは中東の飲み物だったコーヒーが、ヨーロッパに最初に持ち込まれたのは十七世紀前半のヴェネツィアだった。
    
    展覧会を見たあとには、江戸の花魁の話になって、ヴェネツィアと江戸は似ているところがたくさんあることにふたりで驚いたりもしました。どちらも運河の町で、商人がたくさんいて、生活を楽しもうとする享楽的なところがあって、花魁の履いていた高下駄だって、ヴェネツィアの女たちが履いたものとそっくりでしょ。
    
    そばまで来ると、知らない間に目がその姿を探し求め、見つかると、あった、と安心してまた歩きだす。たぶん、繰り返し見ることが大切なのだ。なんど見ても残らないものは、そのまま放っておけばよく、無意識のうちに目が行くものは心に触れるなにかがあるのだから、その正体を徐々に極めていけばいい。
    
    祈りの姿勢は国によってちがうのだから、きっと日本人でなければならない讃美のしかたがあるはずだ、と考える。
    
    三十という年齢は、過ぎてしまえばどうということはないが、そのただ中にあるときは少なからぬ意味をもつ。一線を踏み越えて引くに引けない領域に入っていくような、若さときっぱり決別するような緊張感を覚えるものだ。
    
    「私」はヨーロッパの「個」のとらえ方に、実存を見つめるための糸口があると感じている。だが、マリ・ノエル院長は、フランスの個人主義は「自分にきびしいあまり、他人まで孤立させてしまう」ときびしく批判する。
    「あなたには無駄なことに見えるかも知れないけれど、私たちは、まず個人主義を見きわめるところから歩き出さないと、なにも始めたことにならないんです」
    
    両親は洗礼に反対したが、お盆のおつとめを指揮した祖母だけはまっさきに賛成して、家族一同をびっくりさせた。理由は「仏さんも神さんもおんなじでっしゃろ。どうせ神さんはひとつやから。おなじことですがな」
    
    「信仰とは奇妙なもので、もっていると思うとなくなってしまう、そんなものなのです」
    
    あのときは闇だった、と言えるのは、闇をくぐり抜けたあとのことで、闇のまっただ中にいるときは、なにも見えない苦しさだけがある。
    
    「かつては劣化の危険にさらされていた物体が、別の生命への移行をなしとげてあたらしい〈物体〉に変身したもの、それが廃墟かもしれない」
    
    「文学だけとかひとつのことにかまけているのは恥だという気持があった。ちゃんとしていなければならない。形のないものになってはいけないという思いがあった。それじゃあ形のないものってなにかというと、よくわからないけれど、たとえば中原中也になりたかったけど、なれなかった。ああいうボヘミアン的な生き方はできなかった。それは自分に虚栄心があったからだろうし、枠があるのが好きだということもあるし、サン=テグジュペリに夢中で、行動と文学を一致させてみたい、現在を生きながら、美しいものに至りたいという憧れも非常にあったと思うの。それが文学の世界に自分を狭めてしまいたくないとか、広いままでいたいという気持ちになったのかもしれないわね」
    
    先の編集者が須賀と仕事をしていると知ったとき、私は即座に、「須賀さんってどんな人ですか?」と膝をのりだして訊いたものである。そう問いたくなる雰囲気が文章にあったからだが、彼は一瞬息を呑んでから、「自我の強い人です」と答えた。
    
    当時の須賀の教え子である脚本家の青柳祐美子は、須賀の授業はひとことで言えば、作家養成講座だった、という興味深い発言をしている。
    
    「たとえそれが悲しみを忘れるためであったとしても、ある特定の目標のために創作することの誤りを(ギンズブルグは)自ら指摘している。事実、この作家の最良の文学作品は、彼女自身の言葉を借りていえば、『自分が完全に純粋に自由な状態』にある時期に生まれていることは、注目に値する」
    
    文体の特徴として、つぎのようなことが挙げられている。自伝/回想記のように見えるが、作意が家族という素材やプロットに加えられているのではなく、「文体そのものの中に仕掛けられている」こと。「自己の心理描写にかまけて『自分についての物語』にしないために、独特の文体構成」を編み出していること、家族用の言葉は直接話法でそのまま書き、回想の部分は叙情に陥らないようにできるだけ省略していること。
    
    そういう目で読んでみれば、須賀も同じような配慮をして書いているのがわかるだろう。作品には自伝的な要素が含まれるものの、自分の悩みや苦しみや歓びを語るために回想という形式がとられているのではない。たとえば、『コルシア書店の仲間たち』で描かれるのは「私」ではなく仲間たちのことであり、彼らの人間関係、経験したこと、舞台となった書店の空間や街の情景などが、人物を通して浮かび上がるようになっている。
    
    「箱に入れてとっておきたいような夜ね」

  • 旧著「須賀敦子のローマ」「須賀敦子のヴェネチア」「須賀敦子のミラノ」を没後20年となる2018年に合本,東京編を付け加えた本になった.以前の三部作は写真がたくさん入っていたと記憶するが,今回は文章のみ.
    須賀敦子の本に出てくる場所を訪ね須賀敦子を深読みしようという試み.
    須賀敦子の好きな私でも,著者のこの入れ込みようは,ちょっと苦手.

  • 河出書房新社刊『須賀敦子のミラノ』『須賀敦子のヴェネツィア』『須賀敦子のローマ』を加筆改稿、あらたに「東京篇」、ロングインタビューを収録して一冊に。

  •  実人生に表出できなかったものを、創作活動のなかで引き出し、結晶化させたところに、菅野書くことへの必然があったのだ。その孤独とは、人を絶望させ、悲壮感に追い込むものではなく、「人間のだれもが、究極においては生きなければならない」決意と励ましに満ちた孤独であった。それぞれにおいてその孤独を理解し確立しないかぎり人生は始まらないことを、それを自分が自覚していった速度にあわせてゆっくりと物語ったのだ。(pp.112-113)

     干潟を開拓して陸地にする、ということは理解できても、そこに島を造り上げてこれほど多くの石の建物を建てるということは思いつかない。地盤がゆるすぎるし、それよりなにより島は自然にできるものだ、とどこかで思い込んでいる。海中深いカラント層に、硬い材質の木を無数に打ち込み、その上に、イストリア半島産の石材を積み上げて、島の基礎はつくられた。それがなんと5世紀のことなのだ。(p.152)

     このせまい小さな島の街は、判断の基準がそれまで訪れたことのあるどんな都市とも激しく違っているので、正直いって、なにがどのように美しいのかを自分に説明できるまでに、ながい時間がかかったように思う。(p.154)

     頭で理解するのではなく、対象の前に立って感じたものを手がかりに自分とのつながりを探ろうとする。事前にガイドブックを呼んだりしなかったのも、知識が入り込んで間隔が曇るのを恐れたのだろう。知識は他人が開拓したものだが、感覚は唯一無二のこの体から出たものであり、それをもとに地図が描けたとき、はじめて知識が血となり肉となり、対象とひとつになる高揚感が与えられるのだ。(p.155)

     聖母像は傷ついた心を抱きとめるような寛容さを示しながら、地上の不幸や困難のはるか彼方に立ってこちらを見つめていた。そのあまりに強い視線に、「私」は魂が引きはがされて、向こうにもっていかれそうな危うさをおぼえる。そうなってはいけない。魂の私服だけを追い求めてはいけない。もっと具体的なものを相手に、現実にまみれて生きなければならない。
     そう直感した「私」は、外気を吸いにいったん聖堂の外に出る。そこには毎年巡ってくる、ごくふつうの夏があった。太陽に灼かれて首をうなだれているヒマワリ、草のかげですだいているコオロギ、風に揺れている黄色いキンギョソウ…いまが夏の季節であることを手触りのある生きものたちが告げていた。(p.220)

     カフェは単にコーヒーを供するだけではない付加価値が与えられてはじめて成り立つ商売である。ヴェネツィアのようなコスモポリタンの街には、古くから世界中の人が行き交い、情報や人脈のネットワークができ、商売の相談がおこなわれた。そういう用途に応じるものとして、カフェが早い時期から発達したのである。(p.226)

     壁の概念がまったくくつがえされていた。壁は外界をさえぎるためでなく、内部を「造る」ために積まれていて、その緊張感が巨大なドームを支えている。
     だが、そこにあるのは張力だけではない。はりつめた空気はドームの頂点で解かれ、小さな穴から一気に天空に上昇する。「緊張と解放を同時に味わわせてくれる」空間なのだった。(p.276)

     よく日本にいる外国人宣教師たちが、日本人の信仰は浅い、浅い、と言っているのを聞いて、なにを言っているんだろう、と思っていたけど、こちらに来てからその意味がよくわかりましたね。生活の中に生きている、日常性のある信仰なんです。須賀さんもそういう信仰を求めていましたし、コルシア書店にくる人たちと話したり、文学とかかわったりしたのもそれでしょう。生活の中で信仰を深めていこうとしたのだと思う。(p.294)

    「角ばった大きな頭に両手をそっとかぶせると、木のあたたかみといっしょに、深み、のようなものがからだ全体に伝わる気がした。(中略)床においても、道に置き去りにしても大丈夫なような、量感ということの凝集みたいな」(ファッツィーニのアトリエ)これを読んだとき、須賀自身の姿がこれに重なった。(p.310)

     須賀と一対一で語りあうとき、時の密度は高まり、たゆたいながらも確かな中心をもった時空に誘われ、須賀弁ともいうべき独特の描写や言い回しがそれに愉しさを添えた。「今日は◯◯さんのことが頭から離れなくて、◯◯という模様の浴衣を着ているみたいだった」などと、須賀でなければ思いつかない突飛な比喩に爆笑させられたことも一度や二度ではなかったし、泊まりがけで金沢に行った夜に、古民家の宿の座敷に並べて敷かれた布団の上で、「ひるまにばらばらになった自分を集めているの」と言いながらイタリアの親戚から送られてきたクロスワードパズルを解いていたことも忘れられない。(pp.431-432)

     本を読んで、というのではなくて、私たちは、子供のころから、じつにいろいろな方法で、本のそとでおぼえた物語を自分のなかに貯めている。先年死んだ5つちがいの弟が小さい時は、寝入るまで私もよこに寝ころんで、いろいろな話をしてやった記憶がある。弟が3歳の時、こちらは8歳だから、ずいぶんたよりない語り手なのだけれど、自分では欠航、権威あるもののように思っていて、いいかげんなおとぎ話をつぎつぎにでっちあげては、話た。(p.450)

  • ‪没後20年イタリア文学の翻訳からエッセイ、日本文学のイタリア語翻訳を手掛けた須賀敦子。イタリア在住から帰国後までの経緯を著作とともに辿る。旅行記のようであり作品論・作家論として深く読める。‬

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著者プロフィール

1950年東京生まれ。小説、エッセイ、ノンフィクション、批評など、ジャンルを横断して執筆。短編小説集としては、本書は『図鑑少年』『随時見学可』『間取りと妄想』に続く4冊目。人間の内面や自我は固定されたものではなく、外部世界との関係によって様々に変化しうることを乾いた筆致で描き出し、幅広いファンを生んでいる。
写真関係の著書に『彼らが写真を手にした切実さを』『ニューヨーク1980』『出来事と写真』(畠山直哉との共著)『この写真がすごい』など。他にも『須賀敦子の旅路』『個人美術館の旅』『東京凸凹散歩』など著書多数。
部類の散歩好き。自ら写真も撮る。朗読イベント「カタリココ」を主宰、それを元に書籍レーベル「カタリココ文庫」をスタートし、年三冊のペースで刊行している。

「2022年 『いつもだれかが見ている』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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