理由のない場所

  • 河出書房新社
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  • Amazon.co.jp ・本 (216ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784309207964

感想・レビュー・書評

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  • 息子が自死し、旅立ったのちの母と息子のいわゆる脳内会話。
    自分の頭がおかしくなっていて、全ては自分の腹話術みたいな妄想だと分かっていてもなおそれを求めざるをえないという、強烈な自己の必要に導かれて書かれたもの。
    「どこかではない場所」は恐ろしく凪いでいておだやかで、会話から感傷は締め出されている。息子は子供らしい残酷さで母親を口撃するけれど、それは恨みとか悲しみではない。からっとした反抗期の生意気さだ。
    でも時折、外界に吹き荒れる嵐、この空間がひしゃげてしまいそうな強い感情の重みが感じられて心がぎりぎりする。

    読んでいて気付いたのは、この母親が息子の自死を尊重し、決して否定したり問い詰めたりしないことだ。その行動に対する責めは常に彼女自身に向けられる(それが褒められたことかどうかはともかく)。
    最初の方で息子に「あやまったりしないで。自分が手放したもののことで」って言うんだけど、そこはちょっと生々しい感情が出ている気がする。たぶん、自分の手で死を選ぶことが、息子がつかみ取った解放であって、彼を幸せにしたということが彼女にとってどうしても必要なのだ。そうでなくては何もかもおかしくなってしまう、そういうバランスの危うさ。はたして息子は、一貫して飄々として、自由な身で生き生きと夢を見て、母親と語る。
    私の親族は多分普通より自殺者が多い。状況は一人一人違えど、自分自身すらどうにもできなくなって、彼らの最後の最後に残った尊厳を守る手段がこれだったのだと、その度いつも思った。一年前に自殺した祖父のことを最近よく考えていてこの本を手に取ったのだが、そういった「必要」の部分が共鳴して苦しくなった(たぶん浅はかにも、それをこそ求めていたんだろうけど)。
    しかし、自分の息子の自死について「理解を示す」姿勢というのは尋常なことではない。そう思っていて、あとがきを読んだところ作者自身が自殺未遂を繰り返していたという記述があり、ああそうかと腑に落ちたところがあった。


    「では、私たちが試みを続けたとしたらどうだろう、と私は思った。奈落を、自然に生きられる場所に変えられるとしたら?苦しみを髪や目の色のように受け入れるとしたら?陰鬱な時代を生きた親が、子どもにこう確信させることができるとしたら?私たちに必要なのはどこかへ導いてくれる光ではなく、どこでもないところにいる決意なのだと。たとえそれがずっと永遠であっても。」

    私が最近考えているのはそういう事だったから、ここを読んでどきっとした。息子は「残念賞」って言うけれど、私はお母さんに賛成したいのだ。
    その辺り、「自分自身を――道理と不条理、合理的思考と非合理的感情を――解剖するために書かれた」という、あとがきで触れられているエッセイがさらに発展したことを書いていそうですごく気になるんだけど、邦訳まだ出てないんだな…むむむ…。

  • とても辛い。

    魅力的なニコライ。
    優しくて賢くてユーモアに富んでて、母親へ子供とは思えない鋭い指摘を生意気にしてくる。音楽とお菓子作りを愛し、友人や大人たちからも愛される。
    おそらく本当にそんな子だったんだろう。

    大好きなイーユン・リーの新作だったが、とても辛い内容で読むのに1年以上かかってしまった。

    二人のやり取りは生きている事の辛さや、辛いながらもどうやったら生き抜いていけるのかの切実な議論が続く。

    訳者あとがきを読んで、イーユン・リーの置かれていた環境がそんなにも辛いものだったと初めて知った。

    読み終わってから、若くして亡くなった友人や先輩を亡くした直後の気持ちが蘇ってきて泣きじゃくってしまった。
    その親御さんの気持ちが手にとるように分かる作品です。

    なんでイーユン・リーの書くものが好きなのか。
    彼女の書くものには切実な祈りと覚悟がある。
    そして本当の意味での愛国心があると思う。生まれ育った環境への愛着、文学や文化への愛情。そんな彼女が母国語を捨てなければならなかった過程に心が痛む。
    今後の作品も篠森さんに訳して頂きたいものです。

  • 『十六歳はやめてほしいなあ、と彼は言った』―『お母さんに見つかるな』

    自殺した息子と残された母親の会話。それは当然残された母親の頭の中にだけ立ち上がる世界での出来事。その構図が既に、会話自体が想像上のものであること物語っているし、あくまでそのような設定で書かれた創作であるというのが小説を読む前提の筈。そう了解しつつも余りの切実さに心が動かされる。その切実さがどこまで作家の個人的な思いと繋がっているのかという下世話な関心は、十六歳という年齢についての二人の会話と『そしてヴィンセント・キーン・リー(二〇〇一~二〇一七)の思い出に』という献辞から否応なしに抱かざるを得ないこと。だが、それを、少なくとも読み終えるまでは、調べることを自らに禁ずる。

    その『理由のない場所』では、深層学習によって鍛えられたアルゴリズムのように、既に語られた言葉が語られた以上の意味を生み出しながら再構築される。だからといって何かが解明される訳ではない。しかし、科学を志した作家自身の指向は主人公である母親に言葉の定義を吟味させ、再構築された言葉の中から息子の真意を解くべき問題として定義するように求める。けれども言葉にはニュアンスがあり(例えば「問題=Problem」は解答することを求められる出題とも捉えられるし、自身が犯してしまった解決困難な過ちとも捉えられる)、そのことを母親は理解していないと死んだ息子は指摘する。英単語のニュアンスを理解する息子は形容詞を愛し、英語を母語としない母親は少なくとも実態を伴い定義可能な(と自身は感じている)名詞に執着する。

    中国で生まれ、生物学の博士課程に学ぶため米国に留学し、その途中で創作活動に専攻を切り替え、発表した作品によって作家としての評価を得たイーユン・リーは、作家自身の人生に起きた出来事に擬えたくなるような経験を重ねる主人公を描く印象がある。もちろんほとんど全ての作家と同様にリーもそれをやんわりと否定するに決まっている。しかしリーの小説の魅力は作家自身が経験してきたことに裏打ちされた切実さであるように多くの読者が感じることまでは否定できないだろう。例えばそれは「千年の祈り」でもそうだったし「独りでいるより優しくて」でもそうだった。そして、この『理由のない場所』ではこれまで以上にその切実さが迫ってくる。

    『答えは言葉みたいにあたりを飛びかっていないな、と私は言った。疑問は飛びかってるよね? 彼が言った。ほんとにね』―『飛びかっていない答え』

    だからといって、物語に大きな筋書きがある訳ではないし、残された母親の抱える苦悩に対する答えが示される訳でもない。ただ、一つひとつ章が進むごとに少しずつ時が経過してゆくのを見い出すだけ。しかしそれ以上の何が書かれるべきなのか。むしろ起承転結が見えていたり苦悩を克服するような展開が語られていたならば、想像上の息子から『三流の作家になってきたね』と言われてしまうような作品となってしまうだろう。これは答えのない探索の物語。何故という問いへの判り易い理由は、たとえ答えがあったにせよ、既に失われてしまった物語、『Where Reasons End』。もちろん答えは風の中に吹かれて漂っている筈もない。

    『つまりリーは、「うまく言葉にできない物事」を語るためにこの小説を書いているのであって、現実を受け入れることに努めようとしているわけではない。たとえ語り得ないことだとしても、語らずにはいられないから書いている』―『訳者あとがき』

    その通りだな、と思う。

  • イーユン・リー最新長編。著者のキャリアにおいて今後超重要になるであろう、どえらい作品だった。説明すればするほど野暮になるタイプ作品なので、感想を書くことは蛇足でしかないと分かりながらも、どうしても語りたくなる。トピック/テーマと語る手法が有機的に結びついている点が圧倒的だった。その手法とは自殺で亡くなった息子と取り残された母とのダイアローグをセリフの括弧なしに小説として描いているところ。ゆえに2人の住む世界は生と死で異なるものの境界は曖昧。最初は前衛的に感じるかもしれないけど、読み終わった後にはこの語りが必然のように感じた。普段の親子の会話なんだろうなと思える、たわいもない話題だとしても行きつく先は哲学的とでも言ってもいいような内容に収斂していく。そこで放たれるパンチラインの数々がめちゃくちゃ噛み応えあるしオモシロかった。
     母親の職業は作家で英語の単語の定義に敏感だ。それを誘発するABC(American Born Chinese)の息子。移民と移民2世の対話だからこそ生まれる英語に対するリアクション。これは原著で読んだ方がニュアンスがさらに伝わりやすいのかもしれない。息子がひたすら母親の形容詞について批評を加えまくり副詞にこだわりを見せるところが見所だと思う。言葉について議論できる親子関係はかっこいいなと思いつつ、これだけ理解し合っていたとしても、血が繋がっていたとしても、本当に思っていることは分からない。それが突き付けられるので残酷だなと思う。(完璧を追い求めたゆえの結論の自死ということを含めて)僕は9章の「永遠に」で号泣してしまった。亡くなってしまっていることの議論になりがちなので、過去/現在/未来という時制に関する議論を延々としている点が特に好きだった。それに重ね合わさる西海岸と東海岸の対比。時折挟まれる東海岸の季節の移り変わりの描写が美しい上に時の経過を示しているのも良い。
     本作は息子と話しているわけではなく、そういう前提で母親が1人で息子を思いながら書いていて、それが作中で示唆されておりメタ構造となっている。あとがきには訳者による本書に対する解説およびイーユン・リーの近況も掲載されていた。まさかイーユン・リー自身も自殺未遂を行っていたなんて全く知らなかった。前作の「独りでいるより優しくて」はかなり重たい内容だったので納得する部分もあるけど、そういった姿を見ていた息子が自殺で亡くなってしまうのは死んでも死にきれない悲しみがあるだろうなと思う。冒頭に「口論」という詩が引用されていて最初に読んだときは全然掴めなかったのに読み終わってもう一度読んでみると、すっと自分の中に入ってきた。こんな感覚になる小説とあと何冊出会えるのか。

  • 千年の祈りの著者イーユンリーの作品。
    自殺した長男と語り手である著者との会話という一風変わったスタイルの本。
    死んでもなお死人に意識があるというと余華の「死者たちの7日間」が思い出される。そういえば「儒教とは何か」という本に、中国では世の中は楽しいところという考えで死んでも魂がその辺にいるということを読んだことがあったが、中国文化っぽい感じがする。
     実際に死者が話をするとは思われないので、語り手である著者(実際に息子を自殺で亡くしている)が、もしこんなことを思ったら亡くなった息子はこういうだろうなという妄想を書き連ねたといったところではないだろうか。そうして亡くなった息子に対する思慕を昇華した作品といえるのではないだろうか。
     ひとつ言えるのは息子の母国語は英語であり、著者にとって英語は外国語であるというところが軸になっている。著者は作家なので言葉選びのプロであるものの、ネイティブスピーカーである息子という杖を失ったという喪失感がこの本の通奏低音をなしているようだ。
     話の筋がはっきりせず、読むのに苦労したことを書いておく。

  • 自死した息子との架空の対話。言葉を話題にしたりして、知的な会話とも言えるのだけど、余り馴染みのない感じなので、ちょっと入りにくかった。
    後書きを読んで、実際に著者に起こったことを元にして書かれている事、さらに、著者が二度自殺未遂していることも知りショックを受けた。
    最初は中国にいた頃。二度目は自死した長男が小学生くらいの頃だと思われる。
    二度目はウツ病の薬を飲み忘れた事が直接の原因だという話だった。
    知人に子供に愛情があるなら死んではいけないと言われ、愛情と自殺未遂は関係がないと思ったという。
    しかし、酷な話だが、やはり関係はあるし、長男の自死とも無関係ではないと思う。
    母親が自殺しようとしていたという事実。
    きっと自分は捨てられたと思った事だろう。
    このような恐ろしい思いをもう一度するくらいなら、先にいなくなった方がいいと思ったのではないか。
    この世は生きるに値しないというメッセージを受け取ってしまったのではないだろうか、、、。

    人間は突き詰めれば、しなければいけない事は意外とないかもしれない。
    でも、一つだけあるとしたら、寿命まで生き切ることだと思う。たとえどのような状態であっても。

    著者の作品はいつも深い余韻を残す。
    これも例外ではない。なぜか分からないが、一つ残らず読みたいと思う。 

    後記
    その後著者の置かれている立場についてよく考えてみた。恐らくかの国からの監視は避けられないのではないか。そう思いついた時、とてもとても怖くなった。
    どうか生き延びてほしい。

  • この世に不在の息子との対話。息子が彼女にとってどのような存在だったのかが、さまようような対話から浮かんでくる。
    悲しみはただそこに在るだけで、それを受け入れたり、乗り越えたりするつもりのない姿。彼の輪郭を残すための対話。

  • ★4.0
    自死を選んだ息子と作家の母親、その構図は著者の実体験と同じ。そして、どこでもない場所で会話を繰り返す親子の姿が時に微笑ましいものの、その度に「こういった会話が為されることは二度とない」という現実を思い知らされ、ぽっかりと心に穴が空いたような気持ちになる。何よりも、以前は当たり前に親子で交わされていただろう、辛辣なまでの互いへの言葉が印象に残る。と同時に、全ては母親の妄想の中だけの出来事なのに、今も息子を導こうとする優しさが切ない限り。ただ、深い悲しみばかりではなく、全てを受け入れる強さも感じる。

  • なんだかすごいものを読んでしまった。

    純文学は苦手であまり手に取らないようにしていたので、サヴァブッククラブでこれを選んでくれてありがたい。
    (そうでなければ、おそらく一生読むことはなかっただろうから)

    おそろしく複雑で、人の心を殺してしまうような内容を、こんなふうに小説にできるのか、と。
    知的で、偏屈で、いつものようなペースでは読めない。1章ずつゆっくり読み進めるべき作品。

    はっとさせられる言葉がたくさんあった。

    しかしこの二人はいつまでここで話をしていられたのか。
    巻末の彼女自身のエピソードを知ってまた驚愕してしまう。

    とにかく、多くは語れないけれど、ものすごいものを読んでしまったことだけは確かだ。

  • たった16歳で自死した息子とその母の、永い会話。その死の詳細については語られることはない。だだ、彼が”居ない”という事実を受け止めるために、母は延々と心の中の彼と会話を続ける。会話の中では、彼の死について嘆くことも何かを責めることもしない。そのどこまでも淡々とした様子に、母の喪失感の埋めようもない深さを感じさせて胸が痛い。読んでも読んでも、救いは感じられない、最後まで。
    年齢の割にかなり早熟であったと思われる彼との会話は、言葉や表現についての突っ込んだ議論が多くて、私にはほとんど理解できない。そしてどこまでが母の言葉で、どこが息子のセリフなのか判然としない部分も多い。とうぜんであろう、これらの永い会話は、どこまで行っても母が知っている範囲の彼が「こう考えるだろう」と母が思うせりふでしかないから。一見不毛とも見えるこの会話を続けることが自分を保つ唯一の方法だったのだろう。

    この会話は、母国と母語を捨てて第二言語である英語で小説を書くことを生業としている母と、アメリカ生まれアメリカ育ちの息子との、言葉(英語)についての議論が多い。丹念に辞書を引く母と、身についた言語感覚で対峙する息子。訳者も大変な苦労をしたのでは、と思う。書かれた言語でしか伝わりづらいニュアンスがあるだろうから。

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著者プロフィール

1972年北京生まれ。北京大学卒業後渡米、アイオワ大学に学ぶ。2005年『千年の祈り』でフランク・オコナー国際短編賞、PEN/ヘミングウェイ賞などを受賞。プリンストン大学で創作を教えている。

「2022年 『もう行かなくては』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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