小春日和: インディアン・サマー (河出文庫 か 9-1 文藝COLLECTION)
- 河出書房新社 (2010年8月3日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (215ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309405711
作品紹介・あらすじ
桃子は大学に入りたての十九歳。小説家のおばさんのマンションに同居中。口うるさいおふくろや、同性の愛人と暮らすキザな父親にもめげず、親友の花子とあたしの長閑な〈少女小説〉は、幸福な結末を迎えるか?
感想・レビュー・書評
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私の趣味ではない、とは思ったけれど、これはこれで読むに値する本だ。
作風が好きな人はきっといるだろう。結構クスッと笑える部分がよかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
恥ずかしながら、聞いたことがある程度の金井美恵子。もちろん、小春日和について何の知識もなく、何となく本屋で手にして、何となく読み始めた。読んですぐにバブルの頃の大学生の話、ということは理解した。しかも目白に住んでいるのか。時代は違えど、私にもわずかながら分かる地域。なになに、なかなか面白い魅力的な登場人物たちが次から次へと出てくるぞ。バブルだからか、今読んでも何やら華やかな、今となっては懐かしい感じの華やかさ。そして、そんな華やかさと不釣り合いなほどの、知的な会話で繰り広げられ、唐突におばさんのエッセイか何かが入ってきたりして、思ってたよりも自由で愉快な小説。テイストは違うけど、るきさんと似た雰囲気を感じ、楽しい気分で読みました。
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何度読んでも楽しくて、嬉しくなってしまう。桃花コンビと一緒に遊び回ったり、おばさんとおしゃべりをしたり、意味もなく笑って、〈淡いコハク色の泡立つシャンパンのグラスを、ろうそくの炎にかざして眺めながら、こうやって、シャンパンを飲みながらなんとなく、ぼんやり一生がおくれたらなあ〉などと考えみたり、〈グウグウ、グウグウ、十六時間も〉眠れてしまう、〈自己充足的にうとうと〉するばかりの日々を送ってみたりと、『小春日和 インディアン・サマー』を読むことは、本当に楽しいことなのだ。けれど当然、それはただ楽しいだけではなくて、〈あんたの恥はあたしの恥的家族構造〉の厄介さ、子どもに対する他者性をまったく獲得していない母親に苛立ちうんざりとする感覚や、父親とのずれと言うか絶望的な気の合わなさのようなものにまつわる記憶を共感とともに呼び覚まされてげんなりとしたり、何もかもが億劫で鬱々と〈世界と自分との間に一枚薄い皮膜が張りめぐらされているような〉〈物や人間の存在感が希薄になるというか、外界との関係が一種ブカブカしたものになって〉いる感覚を生き直して憂鬱に沈み込んだり、或いは〈五階の南向きの窓辺で寝そべって〉窓いっぱいにひろがる〈鰯雲の浮んだ晴れあがった秋空〉に〈なんとも気持良くうとうとして、頭がからっぽ〉になって〈別に、何もいい事なんかないのに、自然と口もとに笑いがこみあげて来て、あーあ、と大きく伸びをして、床の上でからだをゴロゴロと回転させたりする〉怠惰な充足を思い出して笑ったり、桃花が自転車で走った〈遅咲きのツル薔薇とクチナシとオシロイ花の匂いが人気のない通りに充満〉する〈気持の良く湿った夜〉と二人の笑いを体験すること、映画の趣味(エリック・ロメールの試写状や二人が見に行く『旅愁』や花子が『ミツバチのささやき』よりも『ラ・パロマ』の方が好きだと言って黒沢清のインタヴューを持ち出す辺りとか映画『ロリータ』に対する印象〈キューブリックの感じじゃないんだよね〉、などなど)細々とした物事の好みや価値判断で、桃子だけでなく花子までもが金井美恵子曰く〈私の血を幾分かは受けついでいる〉ことを実感することで、更には〈おばさん〉が原稿を伊東屋で買っていることや、フラ・アンジェリコの絵の絵はがきを送ってくること、〈イキソソー〉しているときの原因であるとかの細部、間に挿入されているそのエッセイと短篇はもちろん、読むことで、これまでの金井美恵子作品の読書体験の多くが蘇って来て、思い出すことの快楽、記憶の歓びと言うべきようなもので満たされる、と言ったすべてを含め、『小春日和 インディアンサマー』を読むことは、大変官能的な体験でもあるのだ。歓びや気持の良さや笑いなどと言った快だけでなく、不快さ、嫌悪や気怠さや疲れやうっとうしさや憂鬱や不安をも含み、大変に楽しく、大変に官能的な体験であるのだ。
金井美恵子、と言うか、桃子の〈おばさん〉は、ロラン・バルトの〈モード雑誌の引用の言葉〉から密やかな〈バルトの好みや声や息づかい〉を聞き取る。〈バルトは、まるで布地に触りながら、それを歓ばし気で繊細な、しかしバルト的な大胆さで裁断し縫いあわせているかのように、見えてしまうのだ。〉…なぜバルトの『明るい部屋』が好きなのかと言えば、〈それがどこかで読んだ本のような気がするからで、それをどこで読んだかというと、かつて私自身の書いた本のなかでだった〉と明かし、自らの「窓」とバルトの文章を並べて引用してみせもする、この「テクストと布地(テクスチュアー)」が最も自己批評的な文章、確かに作品の一部でありながら、この作品(だけではないけれど)の自己批評を最も兼ねた文章であるような気がしていて、かつ、『小春日和 インディアン・サマー』の、選ばれて積み重ねあわされて行く細部の手触りや感触や実感の官能(憂鬱や既視感や不安や物悲しさを含む)と言うべき部分の多くを引き受けるかのような(その官能の在り処と言うか、それらがどういった類のものであるのかを示すような?)文章だと思う。 -
著者のとっかかりとして、読み易い一冊。
物語の筋としては大した起伏はないんだけど、背後にある圧倒的な知識や教養をうっすら(うっすらがポイント)感じられる。 -
大学に入りたての主人公・桃子の、半分愚痴まじりのような気だるい口調の一人語りにグイグイと引き込まれた。
ちょっとクセがある登場人物ばかりだけど、言ってしまえばどうってことのない、特に大きな事件が起こるでもない日常が綴られる。
でも、この日常がずっと続くわけではない。
そんな予感をうっすらとまといながら、若い桃子と花子がモラトリアムを満喫している様子を見ていると、まさしく小春日和の日に昼寝をしているような気持ちになる。
ただ、ところどころに挿入されるおばさんが書いた小説やエッセイが、長閑な日常の中の不思議なアクセントになっている。
桃子を含めたおばさんの周りの日常が、おばさんのテキストには反映されている。
というか、そもそも桃子達の日常も作者・金井美恵子が書いたテキストである。
そのことを思い出して、今自分が読んでいるのは一体何なんだ?と一瞬クラっとするような感覚に陥る。それが楽しい。
唐突に終わってしまったような印象があるラストだが、30歳になった桃子と花子を描いた続編があるとのこと!絶対読もう。 -
こんな感じの作風なんだ。トヨザキ社長の熱烈推薦作家ということもあり、気になってずっと読みたかった作品。『ああ、好きそう』ってところまでは何となく分かるんだけど、じゃあなぜそう思うのか、っていうことの答えが出せない。物語は面白いけど、これより興味深い内容は他にもあると思うし(その時点で違う?)… 一文あたりが基本的に長かったり、唐突に作中作が挿入されたり、そういう部分も魅力として計上されるんだろうか。とか書きながら”計上”とか言ってる時点で考え方が違うんだよ、って自分でツッコんでみたりして。要するに、良品であることは分かるけど、絶対無二である理由が分からないのです。残念!
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『カストロの尻』前哨戦として購入。
底本が1988年刊行。私、何歳よ。
大学進学と共に、小説家のおばさんの家で同居することになった桃子。
お互いに気持ち良く生活出来ているとは言えないものの、桃子の大学生活を聴くことで、おばさんの小説やエッセイのテーマに変化が現れる。
この小説やエッセイがそのまま挿入されているのも、この作品の面白さで。
桃子や花子といった少女たちと。
おばさんや母が過ぎてきた少女時代と、彼女たちの描く少女像は、それぞれ微妙にズレがあったりする。
桃子がメンチカツを作っていると、弟が欲しいと言い、桃子は自分で作れと突き放す。
ところが、母は弟には作れないといい、一緒に作ってやるよう(それどころか桃子が作り上げた分を先に弟に渡そうと)命じる。
それを桃子は憤慨し、弟が降参する。
この関係性。じわっと面白さがくる。
過渡期と言えるのか分からないけれど、それぞれが見ている時代の枠組みと、そこに拘泥するまいと気取る登場人物達が、また大きな枠に入れられているような。
多分、順番は違うと思うのだけど、手に入る本が限られているので読めるものから読んでいこうと思う。 -
三十年前に書かれた少女小説。登場人物が魅力的なのかなー?なんだかよくわからない不思議な魅力がある。続編連載中なのかな?まとまって読むのが楽しみ。
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面白かった!
クセのある女たちが出てくるのだけど、どこか憎めず、心地よい生活を送っている。
パパが同性愛だったりと、今になって読み返せば新しい物語。