- Amazon.co.jp ・本 (235ページ)
- / ISBN・EAN: 9784309410791
感想・レビュー・書評
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20代の若者を描いた二つの中編。
読んでいて、20代の頃のものごとに対する感じ方が甦りました。
『きみの鳥はうたえる』約160ページ
僕、同居する友人の静雄、バイト先の書店で出会った佐知子。21歳の彼らの三角関係が中心。
個人的には、静雄の家庭に関する終盤の展開は余分にも思えました。
村上春樹の『風の歌を聴け』を想起しました。
『草の響き』約60ページ
印刷所で働く青年は自律神経失調症と診断され、精神科医の勧めで毎晩のジョギングを習慣とするようになる。
プールで知り合った高校教師の研二、青年と並走する暴走族のノッポ。
恋愛も暴力も扱わない、静かなトーンの作品。
自律神経失調症や大学学食でのアルバイトなど、筆者自身の経験が多く織り込まれた自伝的要素がある作品のようです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
映画を見たことがあって、原作があることは知らなかった。友だちとカフェにいる間に貸してもらったのでぱらぱらと読んだら引きこまれた。
作家自身の人生のダークサイドが、静雄にあらわれているとおもう。それにしてもたまにはっとする言葉使いがある。こういう風にものをとらえられたら、と思うような新鮮な切り口。
今卒論でこむずかしい評論とか読んでて本読むのいやになってたけど、ああ、小説って、物語って、生きることなんだなぁと思った。死の気配が濃厚で、逃れられないものであればあるほど、主人公と静雄と佐知子の生の動きが、もっといきいきとみずみずしくかんじられる。
逆に主人公が死に直接たずさわらないところが、もっと死というものの深淵のふかさをあらわしている気がする。主人公はわりとこの世の地に足がついた感覚があって、人に怒られたり、セックスをしたり、殴られて蹴られて怪我をして、体を感じることが多い。しかし静雄はもっと得体の知れない、ギャンブルとか、血の繋がってない兄貴のこととか、母親の死とか、ばかりと関わっている。 -
映画が良かったので、原作があるというので購入
初めて佐藤泰志という小説家を知った。
表題作は、時代背景が80年代始め?と古いのだけれど、
20代の刹那的考えと、未来への不安とで揺れ動く不安定さ、僕と静雄それぞれのうだつのあがらなさ、等の若者が漂わせてる雰囲気の書き方が良い。
怠惰感や、閉塞感、それらを隠すかのような表面上はサラっと見せよう感。が今読んでも古臭くない。
むしろ佐藤泰志は早すぎたのかもしれない。
ひと夏の物語で、夏の夜のように濃い日々が描かれてるけど、文章が暑苦しくないので、サラリと読める。
映画よりも、最後は重苦しい展開。
もう一つの短編は、作者の実体験からなのかな?ってぐらいしか、記憶に残せず.... -
佐藤泰志の小説の「暗さ」や「貧しさ」が、読者を遠ざけるようなところがあると思うけれど、彼が描き続けた世界には明るさは似合わないのかもしれない。ひとが生きるということを、小説として描く。作家が「生きている人」として描く登場人物の「ぼく」や「「静雄」は、どうにもやりくりのつかない「今」を、こちら側の世界から投げ出された人として生きるほかはないという様子だ。
佐藤泰志という作家の絶望的な出発点がここにあったのではないだろうか。それでも、彼は、その世界を書くことでこっち側の世界とつながろうとしていた。それだけは確かなことだったと思う。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/201904210001/ -
「きみの鳥はうたえる」
映画との比較もたのしみながら読んだ。
21歳というどうでもいいようでいて実に繊細な年齢を、よく描いている。
全体として「不在」が物語の転換の鍵を握る。
「僕」がバイトをサボる→佐知子と関係もつ、
「僕」が海水浴をやすむ→佐知子と静雄がくっつく、
母の代わりに叔母の手紙→母の病気と死、など。
「僕」ははじめて佐知子とまともに話したときからセックスの感触を想像したり、殴ったり殴られたり、そういう身体の触れ合いが大切で、それ以外には無関心。
他者との接触を通じて自分を知るので、名前はいらないし、空気のような存在でいい(と信じている)。
しかし佐知子と静雄が「海」に出かけているときに、ふたり組に襲われて「魚」になった気分に陥るのだ。
この不器用さが、いい。
「草の響き」
はじめて「彼」に少年たちがついてくるシーンがめちゃくちゃいい。文学的なヤンキー。 -
映画を先に。
3人の世界。
いつまでも、誰にも、おかされず。
居心地のいい場所はしだいに冷えていく。
美味しいものは美味しいうちに。
今のこのぬくもりを忘れないで。
遠くにいても誰かを思います。
自分のことではない誰かを。
それもひとつあたたまる術。 -
2作とも、
主人公の心情と、
その説明が最小限でありながら、
主人公の行動の描写と、
とりまく人物たちの独特な魅力の対比によって、
浮かび上がる生命への問い。
名前がないことによって明確になる、
空気のように意味の無いようになることを目指しながら、
限りない実感を求める物語たちに、
愛着を拭いきれないのである。
無いことを知り、あることを悟る。
あることを捨て、無いことを理解することによって、
その先の、あることを見出す。 -
多くを語らない主人公が、そのまま作者の繊細な誠実さをうつしているように思った。僕と静雄と佐知子の夏。その終幕には鳥肌が立った。言葉を失うとはこのことか。
佐藤泰志が、詩人の方々の間で名前があがる理由がなんとなくわかったような。ぐるぐる語らない語り。露悪的にならないヒントがここにあると思う。
とりあえず他の作品も読むのと、依田冬派さんの詩「きみの鳥もうたえる」をもう一度読みたい。 -
再読。本当に大好きな作品。
ひと夏の幸福な時間を描いているはずなのに、最初からずっと暴力的な予感がある。
「僕は率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうな気がした」と言うように、「僕」は意識的に静雄や佐知子に自分の中を通り抜けさせているように思う。この話は「僕」から見た静雄や佐知子の物語なんじゃないかと思うくらい。
「僕」はバイト先の誰とも関わろうとせず、バーの飲み仲間ともつるまず、自分にも全然興味を持っていないのに、静雄にだけは心を開いている。
オールナイトの映画に連れ出されるシーンや、カンダタのくだりに見られるように、「僕」は生活の中で静雄に引っ張られたり影響を受けているところがかなりある。静雄がどんなに情けなくても、「僕」はずっと静雄に心を寄せ続けている。
そこに佐知子が現れて、2人が近づいていくごとに、「僕」の気持ちも、「僕」から見える静雄も変わっていく。
静雄が佐知子に「もう一度お休みを言ってくれないか」と頼んだときから、「僕」は佐知子を通して新しく静雄を知り続けているんじゃないかな。
静雄が持つ独特の愛嬌やナイーブさはとても魅力的だけど、静雄が主人公だと独り善がりの苦しい物語になっていたと思う。「僕」の目を通して初めて
静雄が憎めないキャラクターとして浮かび上がってくるのではないかなと思う。
そう考えると、「僕」の周りとの距離のとり方はすごく切ない。まるで「僕」自身に実体はなくて、静雄や佐知子やバイト先の人達といった周りの人たちとの関係によってゆらゆらと形作られた陽炎だと思っているみたい。
「空気のような男」になる必要なんてない、あなたの人生の幸福はあなただけのものにしていいのに。最後、悲劇に巻き込まれるのは静雄だけど、本当に悲しみの底にいるのは静雄も佐知子も失った「僕」なんじゃないだろうか。
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若者たちのひと夏の話でしたね、この瞬間が永遠に続けば、と思っても、人は変わるし、同じ夏も二度とはこない。若さゆえの倦怠と、根拠のない万能感、優しさと非情さと、気まぐれと。成人していても老成しきれない微妙な年頃の若者の描写が巧みです。佐藤さんの本は海炭市叙景を読みましたが、そこはかとなく漂う寂寥が、今作にもあるなと思いました。
読了後、本の内容と自身の記憶と思い返して苦しくなりました。映画も観たいです。