- Amazon.co.jp ・本 (212ページ)
- / ISBN・EAN: 9784314011778
作品紹介・あらすじ
読み継がれて60年――
世界的ベストセラーに30年ぶりに訳文に大幅に手を入れた、改訳・新装版!
【現在の版(1991年刊行「新訳版」)からの変更点】
■時代に合わない表現・用語などを変更
旧:異性愛 → 新:恋愛 旧:兄弟愛 → 新:友愛
旧:月賦 → 新:カード払い 旧:冷感症 → 新:不感症
旧:前世紀、今世紀 → 新:一九世紀、二〇世紀
■さらに読みやすくわかりやすい訳にブラッシュアップ
〈旧〉------------------------------
愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、きっと失望するにちがいない。そうした期待とはうらはらに、この本が言わんとするのは、愛というものは、その人の成熟の度合いに関わりなく誰もが簡単に浸れるような感情ではない、ということである。
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〈新〉------------------------------
愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、がっかりするだろう。この本は、そうした期待を裏切って、こう主張する――愛は「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない。
〈旧〉------------------------------
生まれてはじめて、合一感、共有意識、一体感といったものを知る。
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〈新〉------------------------------
生まれてはじめて、他者との結びつき、分け合うこと、一体感といったものを知る。
【著者】 エーリッヒ・フロム (Erich Fromm 1900~1980年)
精神分析に社会的視点をもたらし、いわゆる「新フロイト派」の代表的存在とされた。真に人間的な生活を可能にする社会的条件とは何かを終生にわたって追求したヒューマニストとしても知られる。著書に『自由からの逃走』『破壊』『悪について』『ワイマールからヒトラーへ』『反抗と自由』ほか多数。
【訳者】 鈴木晶 (すずき・しょう)
法政大学名誉教授。著書に、『フロイトからユングへ』『フロムに学ぶ「愛する」ための心理学』ほか多数。
感想・レビュー・書評
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エーリッヒ・フロムの"THE ART OF LOVING"の新訳。
原著は1956年出版だが、愛についての考察は、今読んでも説得力げあり、心理学を学んでいない自分にもわかりやすい。(2020年の新訳のおかげで、より読みやすい。)
"人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない。"
親子の愛、恋愛、自己愛など様々な形の愛があるが、少子化を含め、社会や環境の変化によって、それらは(フロムがこれを書いた当時よりも)歪んなものになりやすくなっているのではないかと感じた。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
どうしても上質な言葉に触れたいときにぜひ。
普遍的で深遠なテーマを挑む美しい名作だ。 -
0 まえがき
愛は、「その人がどれくらい成熟しているかとは無関係に、誰もが簡単に浸れる感情」ではない。
この本は読者にこう訴える。――人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない。
愛は技術なのだ。
1 孤独の解消と同一性
孤立の経験から不安が生まれる。
現代の西洋社会でも、孤立感を克服するもっとも一般的な方法は、集団に同調することだ。
成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である。愛は、人間の中にある能動的な力であり、人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力である。愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない。
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏み込む」ものである。愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。
与えるという行為のもっとも重要な部分は、持っている物質を与えるのではなく、自分の中に息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているものすべてを与えるのだ。
人は自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。
愛に限って言えば、「愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない」のである。
与えるという意味で人を愛せるかどうかは、その人の人格がどれくらい発達しているかによる。愛するためには、人格が生産的な段階に達していなければならない。この段階にいなければ、自分を与えるのが怖く、したがって愛する勇気もない。
愛の根底のひとつには孤独の解消があるが、そこにはもう一つのすぐれて人間的な欲求、すなわち「人間の秘密を知りたい」という欲求がある。愛の行為、すなわち自分を与え、相手の内部へと入っていく行為において、私は相手と自分の両方を知ろうとする。異性に惹かれる動機は、主として、性のもう一方の極と合一したいという欲求なのだ。
2 親子の愛
母親の愛は無条件である。子どもがしなければならないことは、生きていること、つまりありのままの自分でいることだけである。そして母親は子どもを自然と愛する。一方、父親の愛は条件付きである。「私がおまえを愛するのは、おまえが私の期待に応え、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」というのが、父親の愛の原則である。
3 愛の対象
愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の人々には無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。
ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。
ふたりの人間それぞれが自分の存在の中心において自分自身を経験するとき、はじめて愛が生まれる。この「中心における経験」のなかにしか、人間の現実はない。人間の生はそこにしかない。したがって愛の基盤もそこにしかない。そうした経験にもとづく愛は、絶え間ない挑戦である。これは安らぎの場ではなく、活動であり、成長であり、共同作業である。
自分自身と一体化することによって、相手と一体化する。愛があることを証明するものはただひとつ、ふたりの結びつきの強さ、それぞれの生命力と強さである。
4 愛の崩壊
西洋社会の社会的構造は、愛の発達を促進しない。西洋社会を客観的に見れば、愛が比較的まれにしか見られず、さまざまな偽りの愛に取って代わられている。
現代資本主義はどんな人間を必要としているか。それは、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義、良心にも服従せず、それでいて命令には進んで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分を進んではめこむような人間である。
その結果、現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。現代人の最大の目標は、自分の技能や知力を、そして自分自身を、できるだけ高い値段で売ることである。誰もができるだけ他の人々と密着していようと努めるが、それにも関わらず誰もが孤独なのだ。
現代人の愛には上記のような現代社会の特徴が反映されている。すべてが金に換算され、市場で公平に交換される。しかし、公平の原理の中に愛は含まれていない。愛が、きわめて個人的で些細な現象ではなく、社会的な現象になるためには、現在の社会構造を根本から変えなければならないだろう。
5 愛の技術の修練
・規律
→外から押し付けられた規則か何かのように規律の修錬を積むのではなく、規律が自分の意志の表現となり、ついにはそれをやめると物足りなく感じられるようになること。
・集中
→何もせずともそわそわせず、ひとりきりでいられるようになること。そのとき自分がやっていることに全身で没頭すること。自身の変化に気づき、その変化を安易に合理化しないこと。
・忍耐
・技術の習得に最大限の関心を抱く
愛を達成するためには、まずナルシシズムを克服しなければならない。ナルシシズム傾向の強い人は、自分の内に存在するものだけを現実として経験する。この極にあるのが客観力だ。客観的に考える能力が理性であり、理性の基盤となるのが謙虚さである。愛の技術を身に着けたければ、あらゆる場面で客観的であるよう心がけなければならない。
同時に、「信じる」ことへの習練が必要だ。なにを信じるか。それは、その人の人格の核心部分や愛が、信頼に値し、揺るがない芯を持っているということである。自分を信じている者だけが、他人に対して誠実になれる。
さらに、信念をもつには勇気がいる。勇気とは、あえて危険をおかす能力であり、苦痛や失望をも受け入れる覚悟である。愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを掛ける勇気。こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に全身を委ねることである。
人を愛するには能動的な態度が必要なのだ。 -
心を開いて真正面から人と向き合う勇気をもらいました。
これまで人と話すときは、嫌われないだろうか、という思いがほとんど無意識ですが念頭にあって、なんとなくいつも透明の盾のようなものを持って話していました。
愛することはもとから備わったものではなく、鍛錬が必要な能動的な行為とのこと。同じ行動でも、「人にこう思われたくないからこうしよう」というのは真の能動性ではなく、「自分が心からこうしたい」と思ってすることが真の能動性なのだと理解しました。
自分のことをどう思うのだろう?嫌われるのではないか?という透明の盾は一旦傍に置いておいて、相手に注意を向け心を開き真正面からコミュニケーションをとることが愛することの第一歩なのだと思います。
心を開いても何も奪われない。
傷つくかもしれないけれど、私の価値は変わらない。
その強さを持つことは難しいですが、鍛練していけば、時に変なことを言う全ての人間たちを受け入れ、愛おしく思える日が来るのかもしれません。
難しくて内容すぐ忘れちゃったからまた読みたいな -
現代社会の分析がするどいなぁと思った。
書かれたのはかなり前だけれど、今の現代人にあてはまるところが多いと思う。
人はどうすれば愛されるのかには一生懸命だけど、愛することについては考えていない、とか。
孤独を埋めようとして結婚しても結局利己的な2人でいるだけで、満たされることはないとか。
特定の誰かを愛するということは、その人を通じてほかの人、社会全体を愛することだというのは面白い。結局、自分とある特定の人だけがよければそれでいい、なんていう考えでは幸せにはなれない。
そして、自分をきちんと大事にできなければ、自分一人でいて内面が満たされた生活を、自律した生活を送ることができなければ、本当の意味で人を愛することはできないとのこと。
人との関係もそうだけど、自分の生活を見直したくなる本だった。 -
自分がまだ成熟していないことを痛感させられる。
愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない。愛するためには、人格が生産的な段階に達していなければならない。学ばなければ得ることができない。自分を客観的に見て知り、磨かなければならない。 -
the art of loving
人生の全く違う場面で、全く違う人から同じ本をお勧めされたとき、きっと素晴らしい本なんだろうなと思ってしまうし、遅かれ早かれ手に取ることになる。この本もその時が来たか、という感じだった。
「愛は技術」と日本語で書くとなんだかイマイチなハウツー本みたいになってしまうが、要は動物の本能、たとえば性欲のように労せずとも備わっているものではなく、人間の持てる全て、知恵や、日々の意識や努力の積み重ねによって全く到達点の変わるものである、ということのようだ。
「愛」という言葉の意味するものは曖昧なればこそ、みんな各々の「愛の持論」があり得るし、そういう食傷になりそうな本は巷に溢れていそうだ。と漠然と思っていたが、愛という一つの切り口で、古今東西、親子、恋人、友人、隣人、仕事、神…時空間上を総ざらいしていく手並に深く納得してしまった。精神分析、社会心理学、哲学に通じ、何より本人の人生経験に人並以上の深い愛の素養があること。稀有な前提条件が揃っているフロムだからこそ、70年近く経っても読み継がれる本になりえたのだろう。
この本を読む体験は、走馬灯のように自分の人生に次々と光が当てられていく思いだった…両親とのこと、妻やかつての恋人、息子、友人、そして自分が今日までに力を注いできた、または注がなかったあらゆる物事たち…それらは自分なりにある程度は整理したつもりではいたが、ひとつひとつが新しい形で思い出された。「愛」という一点で、自分が何を達成し、何を達成してこなかったのか。本当に大切なこと、確かなことはなんだったのか。
何かに感動したとき、普段は光の届かぬ海の底の一点に光が当たったような錯覚を覚えるが、この本はある意味、海底を総ざらいで照らすようだった。また十年後か二十年後か、折に触れて読みたい。そのとき、より深く、心地よく読めるように、日々を過ごしたいと思う。 -
去年、『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』を読んだ時、中で言及されていて気になっていた本。
ちょうどその年に新訳が出ていて、しかも装丁は鈴木成一デザイン室が手掛けておりめちゃ美しい!となれば、読まないわけにはいきません〜。
冒頭の、「生きることが技術であるのと同じく、愛は技術である」という一節が、この本を象徴していると思います。
そうですよね、誰かと一緒に生きていくにしても、1人で生きていくにしても、日常を機嫌よく送っていくことってある種の技術な気がする。
(あ、一定の経済力や生活環境が担保されているのは前提の上で、ですよ。)
そうした中で、心に残ったのが、終盤に出てくる次の言葉。
「安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもてない。防御システムをつくりあげ、そのなかに閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことで安全をはかろうとする人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、 そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。
この勇気は、虚勢を張ることで有名だったムッソリーニが「危険をおかして生きよ」というスローガンで訴えたような勇気とはまったくちがう。」
今年、2021年は夏にオリンピックが予定されていて、それは「安全安心な大会」になるそうだけど。
この状況で開催に突き進むことは、果たして信念を持った勇気なのか、虚勢を張った勇気なのか、はたまたそのどちらでもなく運転手のいない機関車が走り続けているのか、思わず考え込んでしまった1冊でした。 -
愛と世の中について怒りが止まらない著者の嘆きがなかなかおもしろい。ところどころ、ハッとするような真理をついてくる。長く読まれ続ける名著はやはり違う。
以下、本書より抜粋。
「瞑想の練習をするだけでなく、何をするにつけても精神を集中させるよう心がけなければいけない。音楽を聴くときも、本を読むときも、人とおしゃべりするときも、景色を眺めるときも、である。そのとき自分がやっていることだけが重要なのであり、それに全身で没頭しなければいけない。精神を集中していれば、自分が何をしているかはあまり問題ではない。大事なことも、大事でないことも、あなたの関心を一手に引き受けるために、これまでとはまったくちがって見えてくる。」 -
本物の優しい人になりたい、心から誰かを愛せる人になりたいと思って読み始めた。
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愛するということは、「自分の生命力を表現すること」である。
つまり自分の内面から湧き上がるような喜びやワクワク、キラキラを感じ取り、それを自分の外に表現する。これが「愛する」ということである。ちなみにこの行為は、自分にとって喜ばしいものである。
自分が喜びながらしている行為が自然と誰かの何かになっていて、その誰かの中に愛が芽生える。愛し合うとはこのことをいうのだろう。
愛するためには、自分の内面から湧き上がる思いや感情に耳を澄ませ、その思いをしっかり受容し認め肯定する必要がある。
ありのままの自分をそのまま肯定できると、他人のそれも肯定できる。なぜなら自分も他人も同じくこの世に生まれた人間だからだ。
自分に向き合うことは、自分も他人は合一だという概念を持つための、根本となるステップに違いない。それがひいては他人を全面的に受容できる力となるのだ。
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何にしても自分が心から願わなければ、なりたい姿には近づけない。
今回私に湧き起こった「優しい人になりたい、人を愛せるようになりたい」という感情は、心の底からのものである。
自分の内面の声を受け入れ、自分自身を喜びやワクワクや癒しで囲んであげることは、私にとって難題だが、理想の人物に近づくためにこの難題に向き合おうと思う。