- Amazon.co.jp ・本 (536ページ)
- / ISBN・EAN: 9784334751845
感想・レビュー・書評
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私たち人類は「豊かになれば幸せになれる」と考え、多くの努力をして現在の文明社会を築いてきたわけだけど、そしてその結果として確かに「豊かに」はなったはず(と言うよりは「少なくとも日本人は極貧からは脱却できた」はず)なのに、相変わらずラスコーリニコフと同じような「追い詰められた心理」から犯罪に走る人間が後を絶たないのは何故なんでしょうか??
ラスコーリニコフを追い詰めた予審判事ポルフィーリーが
「あのばあさんを殺しただけですんでよかった。 べつの理屈でも考えついていたら、一億倍も醜悪なことをやらかしていたかもしれないんです!」
と語っているけれど、この「一億倍も醜悪なこと」というのはいったい何でしょうか?? 私たち一般人(普通の人)にしてみれば「あのばあさんを殺した(≒ 殺人)」というだけでも十二分に醜悪なことだと思えるけれど、その一億倍も醜悪なことって・・・・。 そしてその「一億倍も醜悪なこと」を今の私たちが犯していないかどうかは「どうやって」、「誰が」判断できるのでしょうか??? 例えばそれが「文化的な生活を営むためのやむを得ない自然改良(破壊?)行為」のことではない、「原子力には手を出さない」ということではない、「遺伝子操作には手を出さない」ということではないという保証はどこにあるのでしょうか??
上に挙げた例はどれもこれもその道を選ぶにあたっては「何等かの正論」があるわけで、その「何等かの正論」とラスコーリニコフの「極論」の間にある差は「1人勝手な理屈なのか」「それなりの議論を経ての結論なのか」ということになるわけで、「それなりの議論を経た」というところにせめてもの「保障」があるわけだけど、その議論がどのように選ばれたメンバーにより、どんな手続きで行われたのかは不明なことも多いわけで・・・・・・。
(全文はブログにて) -
面白くて一気に読みきりました。
終盤ではラスコーリニコフがどうやって再生するのかどきどきしながら読みすすんだんだけど、
「彼女の信じることが、いまこのおれの信じることじゃないなんてことがありうるのか?彼女の感じること、彼女の意思、それだけでも。。。」
これだけなのかあ。。。ソーニャは何故、彼を愛することができるのか。。。
すっきり得心がいかない。
もう少ししたら一度読むつもり。 -
「あなたは、なんてことをなさったの、なんてことを、ご自分にたいして!」
(中略)
「いいえ、あなたより不幸な人は、いまこの世にひとりもいない!」
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ふたりを蘇らせたのは、愛だった。おたがいの心のなかに、相手の心に命を与える、つきることのない泉がわき出ていた。
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最終巻!とうとう来ました!
うわーーやっぱ最終巻がいっちばん!読み応えあり!濃密!
ラスコーリニコフ……!こやつが本当の意味での罪を自覚することはできるのかな、と思って読み進めてはいましたが、…深い。
ラスト、魂のすごく奥深い部分が揺さぶられました。
やっぱり、ソーニャさんがいちばんすてき。神々しひ。 -
悪いことをして、教師に呼び出される。
つきあっている彼女は暫くすると「私のどこが好きなの?」と聞いてくる。
答えよりも大事な途中式
自己PRは前置きで重視されるのは志望動機
グルメレポーターのコメント、は少し話が逸れるか。
どれにつけても必要とされるのは理由だ。
「理由なんてない」
という言葉を美形に手を取られじっと見つめられつつ言われればよろめくが、小説でそんな文句持ち出す奴は文才の無さをごまかしているだけだ。
ましてや、文学史上5本いや、10本の指に入るであろう作家であるドストエフスキーがそんな失態を犯すわけがない。
物語は主人公のラスコーニコフがひとりの老婆を殺すことに端を発する。
そのなぜ、である。
この主人公なのだが、金が底をつき退学した元学生で今では毎日の食事にすら事欠く程のひどい極貧生活を送っている。そして殺害した老婆はえらい強欲な金貸しで、彼も老婆にお金を借りていた。
これだけで犯罪の理由はほぼわかったように思える。
だが、彼は犯罪直後に金もたいして取らない。財布も隠したままで放置。記憶の限りそれを使っている様なそぶりもない。
大体この理由では単純すぎる上にパンチが甘い。
そこでパンチを探してみると出てくるのが主人公の思想。作中の説明では、ナポレオン主義と表現される。
「1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?」
これはサンデルの問いだが、こういった問いにぶつかったときに選民の考えに立ち、流すべき血の存在を当然に認めるということ。彼は自分にもそれを行使する権利があると考えていたのだ。
『非凡人は己と人類の未来のために全てが許される。』
彼はそれを信じて、己の価値の証明のためにその選択を取った。
なるほど。
ナポレオン主義者かぶれが自己の確立のために犯した罪。とかたづけられる。
まったくなんという自惚れ家の犯罪記録か。どことなくもう落ちも見えて退屈そう、と憶測もたつが、違うのだ。
このラスコーニコフという男、非常に面白い。
冷徹で合理主義と理想主義の合間にいる存在だが、キャラクターとして厚みがある。非常にヒューマニズム溢れる側面を持っているのだ。
なけなしの金を自分同様に苦境に立たされている人間にあげてしまったり、困っている人を命の危険を冒してまでも助けたり、となかなかな善人ぶり。
確かに、主人公は犯罪者の悪人。それをハリウッド的なキャラ設定で描くなんて退屈だ。
たとえば幼少期に虐待にあっていたとか、ひどい生活苦に立たされていたとか、悪人と言えども背景が見えれば読み手には情が沸く。その手の深みは物語の十八番だ。
本作のラスコーニコフもそれにきれいに倣っているのだが、その深みはちとおもしろい。
彼のそうした善の部分はほぼ無意識の内に彼を動かしているのだ。当人すらなぜそんな行動に出たのか混乱しているぐらいだ。
私の個人的な意見だが善意の最上級は無意識下に取られたそれである。勿論意識あっての行動とて賞賛に値するが、無意識に取られるその行動こそ、その人の根本的人格が呼び起こすものであって、思考下の打算を経由しない。
ラスコーニコフはそう言った無意識の善を持ち合わせている。
無意識の善と思考を経由した彼の思想が判断した悪。
面白い取り合わせだ。
犯罪後のラスコーニコフの気がふれたかの様な精神と体調の不安と苦悩。この物語のおもしろさはそういった彼の不安と苦悩の逡巡もしくは推移であるのだが、その内容は単純に犯した罪ではなく、犯罪の背景とそれへと導いた例の思想における己がシラミかそうでないかの苦悩に費やされる。
そこに固執するなんて、やっぱり悪い男なのやもしれない。意識下では、ね。
たしかに、ナポレオン主義では彼の行動は悪とされない。当人も実験的にこの犯罪を犯したと位置づけているのだから仕方がない。しかしだ。ナポレオン主義における行為は、後の他者による歴史判断においてしか成立が出来ないはずのものだ。おまけに歴史判断といったが、ラスコーニコフの行為はこの先も肯定されることはまずないだろう。
彼は己の真価を問うために人を犠牲にした。そして皮肉にも彼は己にその資格がないと言うことに気がつく。
彼はシラミではないものではなかったのだ。いや、シラミという表現を引用し続けると人格を疑われそうなので非凡人と凡人としよう。
彼は非凡人ではなかった。
そして結果が明瞭になると彼が自分に突きつける選択は三つだった。
「死ぬか・牢屋に入るか・発狂するか」
逃亡と言う選択肢がないのは何とも潔いよいが、極端では?
白と黒のどちらかを選べと問われる。
「どちらも混ぜてグレーにしてしまおう。」
現代人ならばそんな発想が起こる。
私も凡人と非凡人の区別は理解できる。然しその合間にやはりもう一つのくくりとしてその両方を見つめる人が居ると思う。しかしラスコーニコフにそれは出来ないだろう。前述した三つを道とする様な潔い部分のある男なのだから。
己の善にすがって、枯れてゆく。もしくは己の悪を信じて、それを実行する。
どうして選択をせねばならなかったのか。
ぎりぎりの中にあって彼には失うもなどもう何もなかった。失うものすらないほどの場所にいたのだ。
確かに理由は、先ほど書いたものでほぼあっているとは思うが、しかし彼のそのぎりぎりの現実がその選択を迫らせたのだ。
先に言ったように生活苦とだけ表現すると範囲が狭い、生活も精神も肉体も本当にぎりぎりまでに追い詰められたとき、善意は意識下になく、思想は彼に唯一残された持ち物と判断され行使されたのだ。
善の負けか。
善、ラズミーヒンみたいな善?
ラスコーニコフは否定的だったがしかし、そうあるにも世の中、資質が必要だ。太陽がすべての人間に宿ると思ったら大間違いなのだ。
賢くグレーになっときゃよかったのに、なんて思うがそのくくりも結局私が己を落ち着かせるための急ごしらえの避難所であり、他者が認めるモノではけしてない。ならばどうあればよかった。
どうだか、でもよく言われる事だがこういった籠城は自ら始める事がほとんどなのだ。
エピローグではどんな転び方をするかと思っていた。罪の自覚と再生という経路は予測できたが、そこにいたるまでのラスコーニコフの心の変遷はすばらしい。いやあっぱれ。
そしてソーニャ。彼女の敬虔であり清貧な人柄は非常に美しい。こういったキャラクターで、現代風に言えばイヤミがない人間は珍しいと思う。そしてそんな彼女はラスコーニコフと同じ位置に置かれている。作中において彼女は唯一の同胞なのだ。彼女が告白を促す。そして寄り添うのだ。
久しぶりに、素直によい話だとしみじみとしてしまった。
おもしろい、おまけにすごいのだ。本当に良くできている小説だ。
この小説は情景描写が極端に少ない。動作の描写も少なく、物語は会話によってほとんどが進められる。普段ならばそれで読むのが遅くなるのだが、会話の内容が異様に濃い。十分におなかいっぱいになってしまうレベルなのだ。いわば秀逸な戯曲みたいなモノだ。
しかしまたもう一方では、老婆を殺害するあたりなんて、それまでの物語の運びとは別もののように描写がうまい。鬼気迫るモノとぐっと読み手を惹きつける力がある。
ほかの場面も、どのキャラクターも掘り下げれば掘り下げるほどにおもろい部分がうじゃうじゃいる。特にスヴィドーリガイロフとかネタの宝庫。
これを書くに当たって気に入った部分をもう一度ざっと読み返して見たんだけど、やはりエピローグはかなり秀逸だった。二回目なのに改まって感動してしまったぐらいだ。最後はぴしゃりと収まるのだ。
本当にドスト先生にはお手上げだ。
まさかこんなにも面白いとはおもわなんだ、というのは前回から引き続いての感想。
とはいえ、1〜2巻は怒濤の勢いで読み切れたが3巻で少し滞った。
山場が少なくなった。そうかもしれない。しかしカテリーナの死にざまは秀逸だったけれどもね。
娯楽小説としても教養小説としてもすばらしい作品だと言える。
光文社の新訳文庫は賛否両論のようだけど、これから入った私にはそこまでのとっかかりは感じなかった。
「ドリアン・グレイの肖像」の時はひどく後悔したが、亀山さんの訳は現代色をそこまで濃く出していないし、面倒なロマンチシズムを持ち出す様なこともなかったし適度だったように思う。
はて、でも深く読みとくドストファンにとっては思うところもいろいろあるのやも知れないな。
何をどう書けばいいのかがはっきりせず、迷走ばかりした感想文だったな。結局半月ぐらいかかってしまった。
再読はまたしなければいけない小説だろう。
しかし「罪と罰」をクリアーしたので、こうなるとカラマーゾフもいけるかもしれないと考えてしまう。
1巻が山場過ぎるんだって。
いけるかな、はてさて。 -
もうなんと表現したらよいのかわからない。そんな気持ちです。
主人公や彼を取り巻く人々の狂気、葛藤、怯え、憎しみ、そして愛。
ものすごいパワーです。
もっと若い頃に読みたかった。 -
上巻に同じ。
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文学作品の中で最も敬愛する作品の一つ。
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デスノートはこれをもとにしてるんじゃないのかなああ
すっごい面白かった。主人公がイケメンだと想像が絵みたいにわいていいよねー -
岩波文庫版は2回読んでいるが、亀山訳の光文社古典新訳文庫で読み直した「罪と罰」。
読みだすと全3巻一気に読んでしまう、ドストエフスキーの面白さは何度読んでも格別。
若い頃に読んだ時には、「罪」を受け入れられないのは、頭でっかちになってしまったゆえの不幸なのかと感じていたけれど、今読むと誠実過ぎるゆえなのだなと感じたり。