「甘え」の構造 [増補普及版]

著者 :
  • 弘文堂
3.47
  • (45)
  • (84)
  • (107)
  • (29)
  • (8)
本棚登録 : 1807
感想 : 100
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (318ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784335651298

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 2010/12/08

  • 著者の意見がちぐはぐで、根拠がない。
    しかし、日本人の特徴を的確に表している。

  • 精神科医による日本人論を説いた本。
    日本には潜在的に「甘え」が個人、社会にも存在しているという。
    「甘え」とは他者に依存するということなので「自由」とは程遠い概念であるという。
    中盤あたりからの、
    甘えたいのに甘えられない→こだわるようになる→達成されずに気がすまない→悔しい→悔む(うつ状態)
    という分析はとても興味深いと思った。

  • ずっと手元に置きたいと思っていましたが、ようやく買えました。
    個人的には第四章の「同性愛的感情」のくだりに「BL(ボーイズラブ)」と相通じるものを感じているのですが…。

  • 土居健郎が「甘えの構造」の中で明らかにした、「同性愛的感情」は、同性同士の日本的な関係性について考える上で参考になる。
    土居によれば、同性愛的感情とは、同性間の感情的連なりが異性間のそれに比べて優先する場合を指し、一般に友情と呼ばれるものに相当するという。そして、この感情は友人同士の間だけでなく、師弟の間、先輩後輩の間、同性の親子の間でも、起こりえるものだという。著者は日本社会におけるこういった感情のあり方を適切に写しだしたものとして、漱石の「こころ」をあげている。

    著者によれば、この小説に登場する「私」という人物が「先生」に対して抱く感情は、男女関係でのそれに非常に類似しているのだという。確かに「私」は「先生」と呼ばれる人物に強く惹かれ、まるで恋をしたかのように「先生」の元に通うようになる。小説中の細かい描写を見ても「私」が「先生」に対して特別な感情を抱いているのは容易に見て取れる。また、先生がKに対して抱く感情も同性愛的なものであるといえる。先生にとって、禁欲的で上昇志向を強く持ったKは理想的な人物であり、先生はそんなKに強く惹かれるようになる。Kに対するほのかな憧れ、自分にはないものを持つKにたいする尊敬の念、そういったものは、先生の中でどんどん大きくなり、先生の持つKの理想像は、実際のKと乖離するほどに大きくなっていく。先生が見ているのはK自信ではなく、彼のお気に入りの理想像なのである。だからこそ、先生はKが恋の告白をしたときに大きなショックを受ける。先生にとってKは禁欲的で女になどまるで興味のない勉強家でなければならなかったからだ。土居はこのように日本的な同性愛的感情のあり方を、異性間における恋愛感情に似たものとして説明している。

    そして、土居はこういった同性愛的感情の本質は「甘え」であり、日本社会に独特のものだと述べる。日本に限らず、同性愛的感情は親しい人間関係においてごく普通にあるものであり、それは日本社会に限ったものではない。相手を理想化し、その理想像に強く惹かれるという感情は親しい人間関係においてはごく普通のことであり、その感情に関して言えば、それが同性に向かおうと異性に向かおうと、その本質は何ら変わらぬものではないだろうか。ただそういった感情を同性に対してあからさまに表現することが、文化によっては、規範から外れる異常とされているのだろう。

    土居の言うように、同性的感情に対して日本の文化は寛容であるように思われる。例えば、男二人で飲みに行ったり、同性同士が絶えず行動を共にしたり、異性との関係よりも同性との関係を重視したりと行った行動が日本では普通に行われていたが、同性愛に対して神経質になりがちなアメリカではそういった行動を行うとすぐに同性愛だと疑われてしまう為、それほど盛んではないという。むしろ、異性同士の付き合いの方が様々な場面で重視されているようだ。
    同性愛的感情は、恐らく日本人の精神にとっても重要な作用を持っている。アメリカ人は日本人が風邪をひくとすぐに医者に行くように、落ち込んだり、ショックな出来事があったりするとすぐにセラピストのところに行くという。健康保険制度のないアメリカではカウンセリングの料金も馬鹿にならないだろうに、アメリカ人はカウンセリングを受けたがる。「甘え」という文化の無いアメリカでは、日常的な人間関係の中で自分の悩みやストレスを発散できないのだ。それに比べ、「甘え」という習慣を持つ日本人は同性同士で酒を飲み、愚痴を言い合ったり、悩み事を相談しあったりして、精神科に行かなくとも、ストレスを発散することができる。日本では、同性同士の親密な関係が、精神にとっても重要な様式なのだろう。
    問題は、最近になり、日本でも同性愛的な感情に対して過敏になってきたのではないかといことだ。恋愛資本主義の支配力なのかしらないが、最近同性同士の友情関係が異性同士による恋愛関係に比べてどう見ても緩い紐帯になってる気がする。

    異性愛規範を過剰なまでに我々の身体に押しつける管理のまなざしは、我々の人間関係が異常なものを含んでいないか常にチェックさせるような習慣を形成する。そして、現在、日本では一般的だった同性愛的感情が異常なものとして見なされるようになりつつあるのかもしれない。

    フーコーは古代から長い間社会関係の重要な様式として存在していたアミティエの消滅が、近代社会の敵対的な人間関係を規定していると考えていたようだが、日本においても、人間関係の重要な様式であった同性愛的感情に対する寛容な文化が失われつつあるのなら、これは同性同士の親密な関係が失われ、人間関係がぎこちなくなることを意味するのではないだろうか。

  • とりあえず読んでみただけで終わってしまった…
    甘えという言葉は日本にしかないらしい
    色々とややこしかった私の読解力が足りない

  •  9・11以降の世界は父親を求めているのか?それとも母親への依存へと進むのか?本書を読んでいて気になった。著者はソ連の崩壊を受けてもなお父親的なものの重要性を説いているが、その考えはいまも変わらないのか?父親の不在が日常化している自分の世代には母性や海といったイメージの言葉に魅力を感じる人間が多いように思えるが、それは何故か?良い意味で疑問が深まった。
     また「甘え」とは非言語的なものだと言い、「子犬も甘える」と言うとき、甘えとベイトソンの言う前言語的なコミュニケーションにおけるパターン化が被って聞こえて来る。甘えと集団への帰属、甘えの関係の崩壊と精神病や分裂病との関係への言及。
     甘えとは暗黙知のように集団間の合理的な行動を形成するために大きな役割を果たす要素となるように思える。しかし、甘えには自由からの逃走のような非合理な行動への契機となる側面もあることは非常におもしろかった。著者はその二つの差異を父親的なるものの存在に求めようとしていると感じる。しかし、少なくとも日本においては、そんな父親を自分や後の世代に期待することは不可能に思える。ならば父親代わりとなるなにかを探す必要がある。
     ドゥルーズは「マゾッホとサド」においてマゾッホを母の否認と父の廃棄、サドを母の否定と父の膨張と比べるが甘えの構造における母と父の関係はマゾッホとサドとの関係になにか共通性を感じさせるものがある。父親の欠如が文化の退廃の原因だというが、性差を超越した状況での危険な文化の領域を、人類はそもそも持っていた。
     西洋にはマゾッホがいて、日本には江戸期のやおい文化は有名である。父親不在の甘えや従属、非生殖的状況にも文化はあり、その輝きは今も眩いものがあるように思える。
     父親と言う明確な目標がない時代の文化、そういう観点が未だに何十年も問われ続ける現代の不思議を十分に実感出来る内容だと思う。

  • 日本の村や農耕社会、鎖国を通じてはぐまれた人間関係を「甘え」という言葉を通して解説しています。日本人を心を客観視して、心理学的に面白い本でした。

  • 本書は昭和46年に初版が刊行されたというから、38年前の本である。その後も重版を重ねながら、現代まで読み告がれている事実は、本書で論じている内容が時を経ても普遍的なものであることを物語っているであろう。社会心理学の名著であり、また、比較文化論、日本人論の名著でもある。<br /><br />そもそも、甘えとの定義は、書中のいたるところで表現を変えながらも出てくるが、概して、他人との一体でありたいという欲求ということであろう。幼児は、母親と密着し一体感を感じることで甘えるように、それは大人になっても、社会の中で色々な形で現れる。<br /><br />甘えは日本人特有に見られる感情であるという。その理由は、日本人は依存的な人間関係が社会規範の中に取り入れられていることにようるものだという。そして、欧米社会ではそれが締め出されているために、甘えというものがあまり見られないということだ。甘えに相当する言葉は、英語ではないらしい。著者も、欧米において甘えの感情は存在することは認めている。しかし、言葉として存在しないということは概念としても存在しないということであり、それが日本人と欧米人の行動や考え方の違いに大きな影響をおよぼしているのである。<br /><br /><br />現代人が感じる疎外感<br />こうした感情は、母親に置き去りにされるこどもが生命的不安を感じるのと同様に、社会の変化のスピードの速さに対して覚える不安であり、甘えである。既に38年前にも感じられていたということが驚きである。ましてや、21世紀の現在では、グローバル化が進み、インターネットを通じてより多くの人とのかかわりをもつことができる世の中であるが、実態としては、そのスピードの速さにより、疎外感はこれまで以上に感じられている感情であろう。

  • 元来甘えることが満足されるか否かは相手次第であり、甘える相手に対し受身的依存的姿勢をとることに関係があると思われる。甘える相手は自分の意のままにならないから、それだけ甘える者は傷つき易く干渉されやすいのである。

全100件中 71 - 80件を表示

土居健郎の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ルース・ベネディ...
ヴィクトール・E...
フランツ・カフカ
ドストエフスキー
村上 春樹
村上 春樹
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×