スウィート・ヒアアフター (幻冬舎文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (165ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784344420755

作品紹介・あらすじ

大きな自動車事故に遭い、腹に棒が刺さりながらも死の淵から生還した小夜子-恋人を事故で喪い、体には力が入らず、魂も抜けてしまった。私が代わりに死ねたらよかったのに、という生き残りの重みを抱えながら暮らしている…。惨劇にあっても消えない"命の輝き"と"日常の力"を描き、私たちの不安で苦しい心を静かに満たす、再生の物語。

感想・レビュー・書評

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  • あなたは、『幽霊』を見たことがあるでしょうか?

    あっ!ウィンドウを閉じるのはちょっと待ってくださいね。あやしい話をしようというわけではありません(笑)。まあ、いきなり『幽霊』を見たことが…と言われても怪しむあなたの気持ちはよくわかります。はい、私も『幽霊』など見たことありませんし、”ツチノコ”も”UFO”も見たことがありません。これで、あなたと条件は同じですよね?(笑)

    しかし、この世には古の時代から『幽霊』という存在が数多の書物に記されてもきたのも事実です。私は紫式部さんの「源氏物語」を読みました。今から1,200年も前の平安の世の物語ですが、そこには六条御息所という方の生霊が登場します。そんな物語を読むと1,200年の時を経ても、ぞくっとさせられる瞬間があります。『幽霊』という存在は現代の世でも小説、映画、そしてお化け屋敷(笑)にその存在を見ることができます。それぞれの場では、作者がその『幽霊』をどう扱おうとされているのか、その考え方次第で恐怖の存在になったり、不思議な存在になったり、そして涙を誘う存在になったりもします。『幽霊』にも多種多様な役割を演じる大変さがあるようです。

    さて、ここに『窓辺にもたれて肩までのふわふわっとくせがある髪の毛をゆらして、にこにこしている』という『幽霊』が登場する物語があります。まさかの交通事故によって、『頭にケガしたせいか、私には事故後いつでもたえず変なものが見え』るようになったという一人の女性が主人公となるこの作品。そんな女性が『彼はいないけれど私は彼の仕事をしている、その充実感』の中に生きていく様を見るこの作品。そしてそれは、そんな女性が『人が死ぬってどういうことだろう』と思うその先に、大きな喪失感の中から前に進んでいこうとする人の再生を見る物語です。

    『自分のお腹にぐさっと鉄の棒がささってるのを見たとき、ああ、こりゃどう考えてもだめだ、自分は死ぬんだと思った』のは、主人公の石山小夜子。『そのときまだ私は二十八歳で人生はまだまだほとんど永遠に続くような気分でいたのに、圧倒的なその光景は「死はいつもそこにある」』ことを突きつけました。『東京と京都に離れて遠距離恋愛をしていた恋人の洋一の運転している車に乗って、彼の住まい兼アトリエがあった上賀茂に帰宅する途中』だったというその事故。『居眠り運転』の『対向車をよけそこなって』川縁へと転がった車の中で、お腹にささった棒を目にした小夜子は、その棒が『彼が作品を創るために車に積んでいた鉄の棒』であることに気づきます。『洋一大丈夫かな、ふたりとも死ぬのかな、やっぱり車に鉄の棒を積むのはよくないよ』と思ったその時。『こうなっちゃったらしかたない。私はもう死んでもいいから、どうか洋一がぶじでありますように』と『反射的に静かにそして大いそぎで祈った』小夜子。そして、『よくある話だけれど、私はそのあとなんだか全部がつやつやした白いものに包まれた果てしなく美しい世界にしばらくいた』という小夜子は、『バイクの後ろに乗れ』と、『ハーレーの後ろを指差し』ながら、『死んだおじいちゃんが迎えにきた』のを見ます。『大好きだったおじいちゃんにまた会えるなんて』と思う小夜子に、『俗世でもっと修行してきなさい』と言うおじいちゃん。そんな『おじいちゃんが死んだ』『小学六年生だった』頃のことを思い出しながら、『おじいちゃんの背中にもたれているうちに』意識がなくなった小夜子は、『この世ではっと目を覚まし』ました。『あれ?おじいちゃんは?』と意識が戻って話す小夜子に両親は『ぞっと』します。それから『じょじょに私はよみがえっていった』という小夜子は、『三十になる頃にはふつうの生活ができるようになってい』ました。『洋一は即死だった』ことを知った小夜子は、『彼のご両親に頼まれて彼の遺した作品や彼の書いた本の管理を始め』ます。そんな中、『頭にケガしたせいか』『事故後いつでもたえず変なものが見』えるようになったことに気づいた小夜子。『幽霊を信じていなかったし』『興味があるわけでもなかった』という小夜子に見える妖しい存在たち。そんな存在を当たり前の日常に見る小夜子が、そんな経験の先にこの世に生き続けていく意味を見出していく物語が始まりました。

    たくさんの人の姿がうっすらと描かれた表紙がどこか妖しい雰囲気を醸し出すこの作品。そんな表紙には、カタカナで「スウィート・ヒアアフター」と書名が書かれています。英語スペルは、”Sweet Hereafter”=”死後の世界”となるでしょうか。どこか独特な雰囲気感に包まれたそんな作品を二つの側面から見ていきたいと思います。

    まず一つには、作品の舞台として『京都』が取り上げられているところです。かつてこの国の都が置かれた地でもある『京都』は、独特な雰囲気感を持つ地でもあります。そんな地を作品舞台とする作品は数多あり、私が読んできたものでも、七月隆文さん「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」、瀧羽麻子さん「左京区七夕通り東入ル」、そして綿矢りささん「手のひらの京」など名作、傑作揃いです。この作品でもメジャーなところ、通なところと『京都』の街並みが描かれていきます。そんな中から二つ抜き出してみます。まずは、通なところ。

    『大田の小径を上れば、高いところからのすがすがしい景色が木々の間にゆったりと見えた。街は陽を受けて金色にきらめいて、雲の影が次々に流れていった』。

    上賀茂神社近くの『大田の小径』、そんな『小径』が裏山に当たるという場所に洋一のアトリエがあったという設定で物語は書かれています。自然という側面で『京都』を見る描写です。そして次は、『大文字山に登』る場面です。

    『送り火のときに火がつけられる床に座って、京都を一望…水をごくごく飲んで、私たちはじっと街を眺めた。あれが同志社の緑、あっちの山には法という字の火床、指差しながら金色の光にまみれる街が夕闇に沈んでいく直前の時間を味わう。風で汗が冷やされていった』。

    『京都』の象徴の一つとも言える『大文字』の送り火、そんな火床へと上がって『京都』を一望するという印象的な場面は、瀧羽麻子さんの作品でも強いインパクトを作品に醸し出していましたが、この作品でもその感覚は同様です。

    物語に独特な雰囲気感を出すための『京都』という舞台。しかし、この作品ではそんな『京都』を取り上げる意味が別にあります。それが、この作品のもう一つの側面にも繋がっていく部分です。それこそが、

    『京都はところどころ夢の世界が混じっているみたいなところだった。彼岸に近い場所がいくつもひそんでいた』。

    そんな言葉が意味するところにこの作品のもう一つの側面が見えてきます。“お腹に棒がささった状態から生還した小夜子は、幽霊が見えるようになってしまった…喪った恋人。元通りにならない頭と体。戻ってこない自分の魂。それでも、小夜子は生き続ける。涙あふれる書き下ろし小説”と内容紹介にうたわれるこの作品。上記した通り、まさしく死の淵から生還した主人公の小夜子が、『頭にケガしたせいか、私には事故後いつでもたえず変なものが見えていた』というまさかのファンタジー世界が描かれていきます。『幻覚なのか、私の頭がおかしいのか、わからなかった』という中に『変なもの』を見ていく小夜子。そんな存在を吉本さんはこんな風に描いていきます。

    『今夜も私には見えていた。カウンターのいちばん向こうに座っている髪の毛の長い女がリズムをとって鼻歌を歌っているのが。でもそれがこの世の人ではないっていうことが』。

    少しひんやりしたものも感じさせる表現ですが、さらに一行こんな表現が続きます。

    『じっと見ていると女もじっと私を見つめた』。

    思わず息を呑む表現ですが、不思議と怖いという印象は受けません。その後も『変なもの』を目撃し、まるで憑かれたようにそんな存在に近寄ってもいく小夜子の物語。そんな物語には、不思議なあたたかさを感じさせる雰囲気感が一貫して漂うのを感じます。それは、冒頭の『なんだか全部がつやつやした白いものに包まれた果てしなく美しい世界』でのおじいちゃんとの再会の描写の印象が大きいのだと思います。そして、全編に散りばめられた吉本さんらしい美しい表現の数々があるからだとも思います。そんな表現の数々は、小夜子が再生していく過程を描いてもいきます。そもそも『自分のお腹にぐさっと鉄の棒がささってるのを見たとき、ああ、こりゃどう考えてもだめだ、自分は死ぬんだと思った』という衝撃的なまでの冒頭の一文から始まるこの作品。主人公・小夜子は、そんな衝撃的な現実を前にして『私はもう死んでもいいから、どうか洋一がぶじでありますように』と『反射的に静かにそして大いそぎで祈』りました。しかし、その先に待っていたのは、『洋一は即死だった』という現実と、その現実を噛み締めながらこの世を生きていくことになった小夜子の運命です。そんな彼のことを思い、『運命は彼を、彼は運命を、双方が素直に受けとめあっていたのだろうか』と考える小夜子は、一方で『彼のいない今の空間の中に少しずつ自分がなじんでいくのがわかる。彼のいない人生にみんながうまくなじめないけれど、いないという今にはなじんでいる』と少しずつ洋一のいない人生を歩み出していきます。『人が死ぬってどういうことだろう。空を見ながらまた同じことをぼんやりと考える。もう会えなくなる。急にいなくなる、触れなくなる、体がなくなる…どれもしっくりとは来ない。自分はまだ生きているから』と、死ぬということに、生きるということに思いを馳せていく小夜子。物語は、そんな小夜子が、上記した不思議な体験の中に『私はこの世界にこんなに影響を与えている…こんなちっぽけな私がどういう気持ちでいるか、そんなことが世界を確かに動かすことなのだ』と、現実の世界を確かに生きていく小夜子の姿も描きながら、大きな喪失から魂が少しずつ、ほんの少しずつそれでも確かに救われていく、人が再生していく様が繊細に、丁寧に描いていきます。

    そんな喪失から再生への物語に、作者の吉本さんは〈あとがき〉にこんなことを記されています。

    “とてもとてもわかりにくいとは思いますが、この小説は今回の大震災をあらゆる場所で経験した人、生きている人死んだ人、全てに向けて書いたものです”。

    2011年9月の日付が記されたその〈あとがき〉には衝撃を受けました。この作品が、2011年3月11日の”東日本大震災”を意識して書かれたというその事実。この作品全体から漂うなんとも茫洋とした雰囲気感、作品を包み込むなんとも言えないあたたかさ、そしてそこに描かれる恋人の死を乗り越えていこうとする主人公・小夜子の再生の物語。〈あとがき〉を読んでこの作品に込められた吉本さんの想いが伝わってきました。

    バスの転落事故によって子供たちを失った親たちのその後の人生を描き、1998年にカンヌ国際映画祭グランプリを獲得した「Sweet Hereafter」と同名タイトルを冠するこの作品。そこには、そんな映画作品同様に、対向車との事故により転落した車の中で亡くなった恋人と、大きな傷を負いながらも生き残った主人公の小夜子のそれからの人生が描かれていました。吉本さんらしい美しい言葉の数々が全編に散りばめられたこの作品。まさかのファンタジー世界の描写が独特な雰囲気感を醸し出すこの作品。

    “この小説はやはり命についての覚悟を描いたものだと思う”とおっしゃる吉本さんのあたたかい眼差しを感じる物語の中に、人の優しさに包まれる瞬間を感じる作品でした。

    • shukawabestさん
      さてさてさん
      いつも濃密なレビューで楽しませていただきありがとうございます。今年も引き続きよろしくお願いします。レビュー前の緻密な調査にはい...
      さてさてさん
      いつも濃密なレビューで楽しませていただきありがとうございます。今年も引き続きよろしくお願いします。レビュー前の緻密な調査にはいつも驚かされます。
      今年もさてさてさんのレビューを楽しもうと思っていますし、自分でもいい本に巡り合い、一冊でも世に埋もれている本を紹介できたらと思っています。
      今年も数冊は追いかけて行くと思いますので、また、よろしくお願いします。
      2023/01/02
    • さてさてさん
      shukawabestさん、ありがとうございます。
      こちらこそいつもお世話になっております。(すみません、お正月なのにお仕事みたいな口調で...
      shukawabestさん、ありがとうございます。
      こちらこそいつもお世話になっております。(すみません、お正月なのにお仕事みたいな口調ですね(笑))
      良い本って限りがあるのかと心配していた時期がありましたが趣向の微妙な変化などもあり、次から次へと良い作品が存在することがわかって嬉しい日々です。shukawabestさんには、昨年、幾つかコメントやりとりさせていただいてありがたく存じます。
      こちらこそ、埋もれた素晴らしい本の発掘目指して進んでまいりましょう。
      どうぞよろしくお願いいたします。
      2023/01/02
  • 交通事故で、小夜子は恋人を失い、生死の境をさまよう。生還したものの、それまでとは違う感触のなかで生きていく。

  • 人が死ぬってどういうことだろう。
    残されたものは、どうやって生きて行けばいいのだろう。
    失うものがあまりにも大きすぎて、ただぼんやりと、でも確実にゆっくりと歩んでいく小夜子。
    失っても消えない光のようなものを教えてくれる。
    ばななさんの言葉が、悲しみを優しく包み隠してくれる。


  • 今日は日が暖かくて、窓を開けて布団に潜ると気持ちよくて、起きてるのか寝てるのかわからない意識をふわふわとさせるのにちょうど良い一日だった。
    この作品もそういうちょうど良い気持ちよさがあった。
    水彩絵の具が淡く滲んでいくような雰囲気。
    希望とか絶望とかそんな極端なものはなく、何となく、がそこにあった。
    今日という日にぴったりで、今日という日のような作品だった。
    読めて良かった。

  • 読み終えてあとがきを見てわかったのだけど、これは3.11の震災のことを思って書かれた小説なのだそうです。
    よく「死と隣り合わせ」と言うけれど、そうじゃない状態で生きている人なんてこの世の中にはひとりもいないと思う。
    事故にあって1時間後に死ぬかもしれない、急病で明日死ぬかもしれない、だけどそのときはそんなことを少しも考えずに生きている。
    みんな同じ条件で生きていて、特別な人間がいるわけではないと思う。

    この小説は、冒頭で大切な人をなくした主人公が、自分も死の淵から生還したあと、半分生きていて半分死んでいるような人間に生まれ変わって、少しずつ自分を取り戻して再生していく物語。
    でも、それを経験した前の状態には絶対に戻れない。
    失ったもの、新しく得たもの、自分を見つめなおした結果。新しい自分として歩いていく決意。

    大事な人を失って、そこから再生していく過程やスピードって人それぞれ違うけれど、自分のことを思い返すと自分のことが愛おしくなる。
    もがいて苦しんで、だけど自分はきちんと生きるんだって思いを強くしたりして。
    そういうのって過ぎ去ったあとに輝いて見えるものなのかもしれない。そのときは苦しい気持ちのほうが圧倒的に強いから。

    物語の中に、「もしも自分が恋人や伴侶よりも先に死んで、その相手が自分とは別の人と結婚して子どもをつくって…っていうのが空の上から全部見えてしまったら?」みたいな話が出てくるんだけど、自分だったらどう思うのか想像してみた。
    たぶん嫉妬するし何で自分じゃないの?って悲しくなるしむかつくとも思うけど(笑)、ずっと鬱々と死んだ自分のことを思って泣かれるのはもっと辛いし、たまに思い出してもらえるくらいがいちばん綺麗なのかもしれない。
    想像でしかないけど。
    死んだあと何も見えないのなら、ただただ幸せになってねと思えるんだろうから、やはり人間はエゴイストなんだろうな。(私がそうなだけか?笑)

    沖縄のユタ、青森のイタコ。
    幽霊を信じるか?信じないか?
    それも人それぞれだろうし、証明する方法もないけれど、そういう世界の中で生きている人にとっては、真実なのだろうと思う。

  • 主人公はとにかく前向きというか、悲しいはずなんだけど全然可哀想な感じではなくとにかく行動できる人でした。
    読みやすかったです。

  • よしもとばななは甘くて明るい。上質な砂糖菓子みたいに、甘いんだけど、くどくない。
    既読作品でも感じましたが、今作は特にそんなばななカラーを強く感じました。
    薄明るいピンク色の世界に、キラキラ輝く金色の粒子が舞ってるような世界でした…。

    のっけから不穏なセンテンスで物語は始まって、これは…重いやつや……と覚悟を持って読み進めたら、なんのなんの。失ったある人との記憶や温もりを糧に、軽やかに日々を過ごす主人公の姿が、ただただ眩しい。

    大切な人を失った人間は、失うことの悲しみを知る人間は、その分優しく、強くなれる。
    そうでありたい。
    そうであってほしい。

    そんな祈りのようなメッセージを優しく伝えてくれる物語でした。
    大人のためのお伽話かもしれないな。

  • いやーやられた。薄い本だったから軽く読むつもりでしたが参りました。
    文を追うたびに自分の感情が抑えられなくなる本です。
    別れたあの日から生と死の堺目がハッキリしてる事を思い知らされるのに
    なぜだか時を重ねるごとに亡き人がすごく身近に感じたりしませんか。
    ああ、もう会えないと悲しんだり、ふいに思い出せば心穏やかになったり・・・。
    そうやってあの世とこの世を交信させながら素晴らしき日常を送る訳なのですね。
    なんかね、世界中の知ってる人も知らない人も、いや、もうそんな枠じゃなくている人もいない人も笑っていて欲しい。そう強く思う本です。
    バッグにいつも入れときたい本が増えちゃったなあ―(^_^;)

  • 2022-41

  • 요시모토 바나나의 작품에서 느껴지는 편안함이 있다.
    잔혹하고 슬픈 상황 속에서도 감정의 격해짐 속에서도 모든 것들 속에 차분함이 스며 들어 있다.
    그러면서 작가는 위로한다. 그런일도 있었구나라며 공감하고 가만히 둔다.
    이번 작품 또한 그렇다.
    남자친구와 여행을 가는 차안에서 교통사고가 나게되어 남자친구는 그 자리에서 죽고 혼자만 살아남게 된다.
    남자친구 없이 혼자만 살아 남게되었다는 좌절감과 슬픔, 분노가 다양한 사람들을 만나가면서 사라져간다. 녹지 않을 것 같은 한겨울의 눈이 차츰 녹아 들고 서서히 봄이 오듯 아물지 않을 것 같은 상처에 새살이 돋는다.

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著者プロフィール

1964年07月24日東京都生まれ。A型。日本大学芸術学部文藝学科卒業。1987年11月小説「キッチン」で第6回海燕新人文学賞受賞。1988年01月『キッチン』で第16回泉鏡花文学賞受賞。1988年08月『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で第39回芸術選奨文部大臣新人賞受賞。1989年03月『TUGUMI』で第2回山本周五郎賞受賞。1993年06月イタリアのスカンノ賞受賞。1995年11月『アムリタ』で第5回紫式部賞受賞。1996年03月イタリアのフェンディッシメ文学賞「Under 35」受賞。1999年11月イタリアのマスケラダルジェント賞文学部門受賞。2000年09月『不倫と南米』で第10回ドゥマゴ文学賞受賞。『キッチン』をはじめ、諸作品は海外30数カ国で翻訳、出版されている。

「2013年 『女子の遺伝子』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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