- Amazon.co.jp ・本 (213ページ)
- / ISBN・EAN: 9784344981560
感想・レビュー・書評
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『岩崎弥太郎と三菱四代』河合敦著
三菱。商事、地所、銀行。
多くの事業が今も発展を続ける。
兄弥太郎そして弟弥之助。
晩年癌なるも国/事業の発展に意思を傾けた生き様。
渋沢栄一とともに一読の価値ありです。
『廉直と操守』
弥太郎の言葉をノートに記載しました。
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三菱について全然知らなかったので、
結構おもしろかった。
ただ、そのすごさをネタに、
現代の政治や教育の批判が所々に差し込まれてて、
それも内容自体は賛同できるんだけど、
この本にとってはすごく余計だった。 -
歴史研究家 河合敦氏が2010年に発表した三菱財閥4代の物語です。この年の大河ドラマが「龍馬伝」で、岩崎弥太郎を香川照之が熱演していました。初代の弥太郎も凄いのですが、丸の内を作った二代目・弥之助、昭和の不況を乗り切った三代目・久弥と四代目・小弥太と才能才覚のある跡継ぎに恵まれたことが、現在の三菱グループの礎を築いたことが分かります。
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現在でも存続する巨大企業グループ、三菱。その発端は幕末の志士で、坂本竜馬の右腕として活躍した岩崎弥太郎が海運会社を起こしたことだった。弥太郎は持ち前の豪快さと強気で新政府への協力と対立を繰り返し、時代の混乱期に商業界でのし上がる。
そんな弥太郎のあとを継いだのは実弟の岩崎弥之助。彼は兄とは対照的に慎重で温厚。その性格のおかげで、三菱は入れ替わりが多い明治政府の権力者たちが誰であろうと協力関係を結ぶことができ、政府のバックアップで海運業以外にも重工業や不動産業などの業種に進出する。
さらに3代目久弥、4代目小弥太は戦後の不況、好況時にそれぞれ適したリーダーだった。
三菱グループの発展は時代にマッチした4人の岩崎が地位に固執することなく次々とトップのバトンを渡すことができたからだ。 -
事業の原点を見た!
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岩崎弥太郎が三菱を創設するまでの経緯のほか、それを継いだ岩崎家3代が三菱を発展させていった経緯も学べるお得な本。明治時代の経営者が、利益よりも国家の発展を重視したことも描かれていて、日本の資本主義黎明期の様子も伝わってくる。
弥太郎は、1834年に藩士の身分を失った武士の家に生まれた。20歳のときに両親に反対されながらも江戸に遊学するが、1年も経たないうちに父親が暴行された知らせを受けて帰郷する。25歳で長崎の役職を得て様々な人脈を培うが、遊郭に通って公金を使い込んだため、5カ月で退職した。帰国後、荒地を開拓して新田をつくったり、綿栽培を行ったりして3年間で岩崎家を再建している。32歳の時、経営者としての能力を買われて長崎の貨殖局出張所(土佐商会)への勤務を命じられた。
弥太郎は長崎で坂本龍馬と出会う。龍馬は、脱藩して勝海舟の弟子となり、幕府の神戸海軍繰練所で経験を積んだ後、その同志とともに長崎で海運業や貿易代行業を行う亀山社中を創設していた。薩長同盟を仲介した龍馬を通じて両藩との親交を結びたい土佐藩は、経営難に陥っていた亀山社中を海援隊と改称して土佐商会の下においたため、弥太郎と龍馬は頻繁に交わるようになった。
慶応4年、開港した大阪に移るために土佐商会は閉鎖され、弥太郎も明治2年に大阪商会に配属した。明治3年に政府が藩の商業活動を禁止したため、大阪商会は九十九商会と名を変え、この頃から業務を貿易や商取引から海運業に移っていった。明治4年の廃藩置県後、弥太郎は一時新政府への出仕を目論んだが失敗し、職を失った士族たちを救う組合会社的なものとなった商会のトップに復帰すると、明治6年に三菱商会に改称した。
弥太郎は福沢諭吉の著書から影響を受けて、国家のために列強諸国に制圧されている海運事業の回復を目指し、慶応義塾の卒業生も大量に採用した。一方、政府は外国の汽船会社に対抗するため、三井、鴻池、島田、小野といった豪商にはかって、明治5年に日本国郵便蒸気船会社を創設させた。三菱商会は徹底的なサービス戦略で急成長し、明治7年の台湾出兵の際に政府からの兵と食糧の輸送の依頼を受けて、政府所有船も貸与された結果、日本郵便を抜き去った。明治8年、政府は、政府の保護のもとに民間会社を育成する海運政策を決議し、保護の対象を台湾出兵で実績をあげた三菱商会とした。明治10年の西南戦争では、会社の船をすべて稼働させて政府軍の兵糧輸送を担い、その恩賞として汽船を下賜され、三菱は全国の汽船の総トン数の70%以上を占めるまでになった。
明治11年に大久保利通が暗殺された後、大隈重信らの民権派と伊藤博文らの保守派が対立した。明治14年にクーデターによって薩長閥が実権を握ると、弥太郎が大隈を資金援助していたと思いこまれたため、三菱に与えられていた政府の保護が改定された。明治15年に立憲改進党が創設されると、その資金源とみられた三菱に対抗するため、政府は資金を援助して三井系や関西財界から資本を募って共同運輸会社を発足させた。弥太郎は共同運輸との死闘のさなかに、胃癌のため明治18年に死去した。
三菱を継いだ弥太郎の弟、弥之助は、政府の和解勧告を受けて共同運輸と合併させ、海運業からの完全撤退を決断した。合併して誕生した日本郵船は当初、社長をはじめ、役員や幹部の大半を共同運輸側が占めたが、三菱側の株主は岩崎家で独占していたため、年が経つと三菱から移った人材が主流を占めるようになっていった。明治19年、弥之助は三菱社を設立し、銅山開発、炭鉱、造船などの多角経営を進めた。明治20年に政府から長崎造船所を買い取ると、社員を英国に派遣して技術を学ばせ、日本一の技術力を持つようになった。また、陸軍関係の兵舎や練兵場を移動して空き地となった丸の内を買い取り、いくつものオフィスビルを建ててビジネスセンターを作り上げた。明治26年に商法が改正されて三菱合資会社としたのを機に、弥之助は弥太郎の長男、久弥に経営を譲って引退したが、明治29年には第4代日銀総裁に就任して、銀本位制から金本位制への転換を実現するなど、政界で活躍した。晩年には、社会的責任の観点から、静嘉堂文庫の設立や、日本女子大学や早稲田大学、東京慈恵会に資金援助している。
久弥は機械工業に造詣が深かったため、重工業分野を重視して造船と工業に資本を投下した。また、各部門に独立採算制を導入して経営の合理化を進めた。大正5年、久弥は経営が好調の時期に辞任して、後継には弥之助の嫡男、小弥太が選ばれた。小弥太は、巨大組織に成長した三菱を国利民福のための組織とするため、各事業を株式会社として独立させ、漸次株式を公開していった。 -
三菱と言えば、丸ビルをはじめとする丸の内のオフィス街が浮かんでくる。そんな三菱だが、三井や住友と言った旧財閥と違って、江戸末期化明治維新にかけての混とんとした時期に一気に今の三菱グループの基礎を築いたのだから驚きだ。
創業者の岩崎弥太郎、弟の弥之助、弥太郎の息子久弥、いとこ(弥之助の長男)の小弥太の4台を取り上げている。弥太郎は、土佐藩の地下浪人の家に生まれた。地下浪人とは、土佐藩士の地位を失った武士を指す。そんな最下層から一大財閥を築きあげた弥太郎。いろいろな危ない橋を渡ったり、せっかく手に入れて成長させていた海運業を手放すということもあった。
それでも、弥之助の時に、様々な事業を展開していった。その中にはあの小岩井農場もある。そればかりでなく、今やオフィス街のみならずショッピングやグルメの街としても注目を集めている丸の内。元は、明治政府から買ってくれてと頼まれたものだった。買い上げたお値段が128万円。当時の東京市の予算の3倍に相当するとある。そんな土地を買った弥之助は、ある人にこんな土地をどうするのかと問われて、「なに、竹でも植えて虎でも飼うさ」とうそぶいたそうだ。大物はほらの吹き方が違う。虎どころか人が集まる一大ビジネス街になったのだから、この姿を見て弥之助はどう思うのかな。
3代目の久弥は、めざしが好物で質素な生活をしていたとある。質素と言えば、弥之助に頼まれた高級料亭の女主人が母から聞いた話が載っている。小弥太と俊弥(弥之助の長男)が奈良に行った時に割烹店に連れていた時のこと。二の膳が出る時、目を丸くして端に手を付けかなったので、理由を聞くとこんなごちそうを食べていいのと言ったとある。最近、中国で話題になった無職の少年同士が高級スポーツカーを乗り回して事故を起こしたのが話題になっていた。この本を読んで少しは見習ったらとふと思った。贅沢を覚えると後が大変だからなあ。
筆者が三菱4代を取り上げた理由として「(略)近い将来、昭和恐慌と同様の状況が、現代の日本にも現れてくる可能性が高い。そうしたとき、果たしてあなたは生き残っていく自信があるだろうか」と問いかけている。たくましく生きた岩崎4代から得るものが大きいなあ。 -
1,弥太郎
土佐藩-三菱商会 企業
2,弥之助
16歳下の弟 体質は弱い 後藤象二郎の娘と結婚 共同運輸(政府)との合併を決める⇒日本郵船 好物がメザシ
3,久弥
弥太郎の長男 寡黙な3代目 アメリカ留学 真面目一辺倒
52歳で、社長を小弥太に譲る。
4.小弥太
弥之助の長男 英国留学 東京大学卒業
理想的社会主義者 124KGの巨漢
社員に対する訓示が、1回だけ。
子供は出来ず 夫婦仲が良かった。
5,系列会社
キリンビール
明治屋
東京海上火災
ニコン
旭硝子