- Amazon.co.jp ・本 (276ページ)
- / ISBN・EAN: 9784434280689
作品紹介・あらすじ
内戦中のスーダンで撮影した「ハゲワシと少女」でピュリッツァー賞を受賞、
その直後に自殺したカメラマン。ルワンダ大虐殺を生き延びた老人の孤独。
アパルトヘイトの終わりを告げる暴動。紛争の資金源となるダイヤモンド取引の闇商人……。
新聞社の特派員として取材をつづける中で、著者は先入観をくずされ、
アフリカに生きる人々、賢者たちに魅せられていく。
アフリカ―遠い地平の人々が語る11の物語。
第三回開高健ノンフィクション賞受賞作品
感想・レビュー・書評
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2016年の春から約半年間、ユーラシア大陸とヨーロッパ大陸を陸路で横断するといういわゆる貧乏旅行を行った。その旅行で私はそれまでの23年間の中で作られていったその土地や人に対する偏見を少しずつ崩していった。それは、人の営みに正解などなく、大きい枠組みで縛ることができないという結論とともに、私のその後にものの見方を大きく変えていくこととなる。
しかし、帰国し、人々にそういったことを話そうとしても、どうしても口を噤んでいしまう、世の中の多くの人は、当事者ではない人間が発信したものを見聞し、大きく区別された結論に属し、正解を導き出そうとする。そういった、どちらかに結論づけようとする空気の中で、良い言葉を探しているうちに、次の話題に移り変わってしまう。
『絵はがきにされた少年』の著者、藤原章生は南アフリカに駐在中・アフリカでの取材を通して、アフリカに対する概念を大きく変えられたのではないかと思う。だからこそ、『絵はがきにされた少年』というタイトルを付けつつも、同編の内容には悲観さの一切が取り払われ、読者は良い気持ちでアフリカへの偏見を裏切られる。それでも、日本人が当然のように享受しているものが、アフリカの人々にとっては難しく、成長過程で当然のように差別意識が生まれ、変化の歴史の中で悲惨な出来事が起き、持つものと持たざるものの中で略奪が繰り返される。最初の4編『奇妙な国へようこそ』は、そういった私達の想像する『悲劇の土地』アフリカをより鮮明に、そして複雑に描き出してくれている。23歳のときにインドを旅し、 「 こんな光景をもし子供のころ見ていたら、自分はもう少しましな人間になっていたのではないだろうか」(『どうして僕たち歩いてる』より)と感じた著者は、なるべく現地の生活と触れさせようと、息子とともに黒人居住区を出入りする。しかし子供は肌の黒くない自分たちがなぜ彼らと同じように歩かなければいけないのかと疑問を投げかける。息子の口から出る差別的な言葉に、読者は差別が生まれる背景がそう単純なものではないということを思い知る。第一部『奇妙な国へようこそ』ではそうった単純ではない問題を投げかけては、正解のない問を残して閉じていく物語の中で、解決策を導き出せない重苦しい空気が流れていく。しかし、4編の終わりで南アフリカ作家 J・M・クッチェーの作品の命題を「個人の身にたまたま起こったことを、社会の問題にすりかえた瞬間、個人の自由やその可能性は薄まってしまう。」(『なにかを所有するリスク』より)と評したことによって、我々がアフリカを語る上で本当に焦点をあてなければいけないものは何なのか、問題の根源がどういったところにあるのか、暗に示唆しながら第一部が閉じる。
第二部『語られない言葉』では新聞に載らないような人々、その個人個人に焦点を当てては、第一部の悲観を和らげてくれる。「やっかいなのは、はっきりと言い切れないことに意味づけを求める人が結構いることだ。」(『絵はがきにされた少年』より)と著者が新聞の「見出しどころ」を求める人々に苦言を呈すように、物事をわかりやすく、目を奪われるようにすればするほど、個人の物語は置き去りにされてしまう。第二部で語られる物語の数々は、大きな事象にとらわれては個人を見失う私達の視野の浅さを、個人に焦点を当てることで伝えてくれているようである。「いちど貧しささから抜け出したものたちは、もうかつての貧しかった時代には戻れない」(『語らない人、語られない歴史』より)と著者が語るように、貧しいと言われるような土地や時代で過ごした経験がある人間には『足るを知る』生活の中での心地よさが、そしてそれ以上を知ってしまったときに失われる大切にしていた価値観を思い出させるかもしれない。西洋的価値観に支配されてしまった日本から見れば搾取され貧困に喘ぐように見えるアフリカも、個人の、現地の価値観から見れば目の前にあるモノに感謝し生きる、そういった幸せな生活にも見えてくる。『語られない言葉』で綴られる個人の物語では、我々のアフリカ感、そしてそれを判断するために持っている価値観自体に対して疑問を投げかけてくる、問題はアフリカ自体ではなく、それを問題とし、疑おうともしない我々なのではないだろうか。
第三部『砂のように、風のように』で著者は、アフリカに対する接し方に対して、少しのヒントを残してくれる。アフリカの歴史に擦り傷一つ残せなかったチェ・ゲバラ、援助に依存し労働の未来を憂う南部アフリカの農民、これらはアフリカに地に足を付けずに干渉しようとする人々が、必ずしもその地を良い方向に導いていないことを示唆している。「裕福な者が貧しい者を救う。これは人が生きてく上での一つの前提なのかもしれない。」(『「お前は自分のことしか考えていない」』より)としながらも「助けるかもしれないし助けないかもしれない、ただ、常に人を助けるという漠然とした考えはない。」(同編より)と考えを持つに至った著者のアフリカとの距離感は、我々が「援助」をするときに考えなくてはならないことの一つなのではないだろうか。
経済的に貧しい国を歩くと、通り過ぎる人々から「援助」を求められることが多々ある。旅を進めるにつれて、私達はそういった要望に対して、自分のスタンスを決めなければならなくなってくる、そのたびにいちいち思考を巡らせていたのでは、いつまでたっても進まないからなのだ。旅人の中にはすべての人に分け与える人もいれば、意地でも渡さない人間がいる。しかしそうやって自分のスタンスを決めて旅を進めてくると、いずれのスタンスを取っていても、心が硬直してくるのではないかと思う。目の前に起きてることを助けたいという衝動に対して、一体自分はどうすれば良いのかと考えることをやめてしまう。しかし、著者は理屈や思想ではなくこの「衝動」こそが原動力になるべきだと考える、そしてその一方で、現地の人間一人を援助する、その行為が「どれほど大変なことか」と現地を見ず、相手を知らずに貧困解消を叫ぶ人々に苦言を呈す。
現実を知らぬ人々は、分かりやすい誰かの言葉を借りては、それを形容しようとする、しかし、そこに実際にあるのは十人十色、それぞれの人生である。『ならば何が正しいのか』。人々が求める問に、現実を知るものは口を閉ざしてしまう、なぜならそこに、わかりやすい明快な答えなど存在しないからだ。しかし、答えのない問の中で、無言こそが正解なのかもしれない。わかりやすい言葉で形容するのではなく、我々は終わることのない思考の中で、少しでも改善することしかできないのではないだろうか。
まるで対極からの対比でしか自分を証明できないかのように、二極化した2つの選択肢の中、片方が片方を罵っては自分の正当性を主張する世の中である。しかし、実はそこには万人に対する答えなど存在せず、多くの人は二極間のどこかしらでそれぞれの物語を歩んでいる。明確でわかりやすい言葉に属して他方を受け入れない人が増えている中、本書が装丁新たに出版されたことは人々に一つのものの見方のヒントを与えるいい機会なのではないだろうか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【貸出状況・配架場所はこちらから確認できます】
https://lib-opac.bunri-u.ac.jp/opac/volume/756576 -
初版からすでに25年経つらしい。けれど、本書に書いてあることを、私は全くと言っていいほど知らなかった。
自分がいかにアフリカのことを知らないか、知らずに勝手なイメージを押し付けていたか、そして、誰かが誰かを助けることがどれほど難しいことなのか。そんなことを考えさせてくれた。
ただ、胸に迫るものがあるかと言うと……アフリカとそこに住む人々への愛着やハッとさせられる指摘、考えさせられる内容には富むのだけれど。
海外の紛争地域や貧困の中にある人々を描いたルポとしては『もの食う人々』(辺見庸)、『アフガニスタンの診療所から』(中村哲)をこれまでに読んできた。アフリカだけに的を絞ったものは初めて読んだ。それらと比較して感じるのは、視点が「引き」であるということ。筆者が新聞記者であることと関係しているのかもしれない。辺見氏は「食う」者として取材対象と同化したところから筆を起こしている。中村氏には現地の医療者としての生活感情や生活を共にする人々への愛がある。それらからすれば、本書における著者の書き振りは「遠い」という印象が拭えない。いつでもその場所から抜け出せる立場から書かれた「観察記」「報告書」だと感じてしまった。