大学生の論文執筆法 (ちくま新書 600)

著者 :
  • 筑摩書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (254ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784480063106

感想・レビュー・書評

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  • 石原千晶ならではの鋭い文章で面白い。大学生の文章がいかに駄目なものかを語りながら、バサバサと痛快に斬っていく。

    しかし、論文執筆法と題名に入っているのに、この"方法"は載ってないと言っていいほど少ししか取り扱われていない。

    具体的な書き方よりも他人の文章を読んで二項対立の考え方を身につけろ。論文を書くのはそれからだと言われているように感じる。

  • 文系の大学生として必ず一度読みましょう。
    去年提出した自分のレポートを奪い返して光速で土下座したくなります。

    確かに大学一年の時って、授業でレポートの書き方、教わらないよね。なのにレポートで評価するって言うのは、ちょっと理不尽な気がするね。

    レポートの書き方なんて右も左もわからないって方には非常におすすめします。

  • 宮崎アニメ研究というジャンルにとって、宮崎アニメは一次資料、宮崎アニメについて論じてるものは二次資料。
    ~と言われても仕方がない、という言い回しはNG。
    便利になったけど、何か大切なものを失った、というのもNG。
    論文もレポートも商品だから、どういう風に書けば格好いいか、常に構成を頭に置いて書かなければならない。
    文学部に文学などありはしない。文学があるのは文学部の外部である。だから自分には文学がある。
    文化系の研究者の世界では鉄のトライアングルは、東大、朝日新聞、岩波書店らしい。

  • 「レポートは左止めのほうがよい」と筆者は述べているが、これは講師によって異なるので各人指示を仰ぐほうが良い。

  • 第一部は他の本で十分代用可能な内容。
    第二部の二項対立の作り方についてはなかなかためになったと思う。
    執筆法というより発想法と言うべきか。

  • 論文執筆のホンネとタテマエ」

     論文の書き方を教えるのは難しい。「大人」の批評家や研究者だって、自分がどうやって論文や批評を書いているのかわからないことがあるだろう。というか、そもそも「よくわからないけど書けてしまった」という部分のない文章というのは、あまりおもしろくないのである。
     それから、これは少なくとも筆者の場合にはときにあるのだが、論じているうちに「いったい何のためにこんなことを書いているのだろう?」という気分になってくることがある。調子の悪いときである。文章が議論のための議論になっていて、抽象概念がやたらと多く、数学の演算のようにとりあえず概念のツジツマは合っているのだけれど、何というのか、話に迫真性がない。書いていても自分でおもしろがっていないのがありあり。そういうときは、ボツにするしかない。

    『論文執筆法』と題された本でも、そこまでは面倒見きれないだろう。ただ、本書には論文を書くことの根本的な難しさのようなものに肉薄したと思わせる箇所がいくつかある。学生に対する雑談まじりの軽快な授業というニュアンスをこえて、こちらもちょっと考えてみたくなる。これは石原千秋という人の、おそらく意図的なのだろう、ややガードの緩い文章の書き方とも関係していると思う。筆者はその辺に興味を持った。

    『大学生の論文執筆法』は構成としては大きく二部にわかれている。第一部は「秘伝 人生論的論文執筆法」と題され、「大学で勉強するとはどういうことか」というトーンで、「レポートにはタイトルをつけなさい」「右上をとじなさい」といった初歩的なことを含めて具体的な指示がある。第二部の題は「線を引くこと」。佐伯啓思、上野千鶴子、前田愛といった論者の文章を引き合いに出し、ときにいかにも石原的な〝突っつき〟をいれながら、評論文の議論の組み立ての妙を説明している。「線を引く」というのは、ここでは二項対立の操作というような意味と考えればいい。

     こうしてみると、後半の方がはるかに知的で、本格的で、実践的と思えるかもしれない。しかし、本書の読み所はむしろ前半、とくに出だしから四分の一あたりに集中していると筆者は思う。たとえば「レポートの作法」というセクションの冒頭部には次のような一節がある。

    僕は意地悪だから、大学一年生に何も言わずにとにかく五枚のレポートを書かせてみる。たいていものすごいことが起きる。要するに、自分のレポートが読まれるという単純な事実にまったく気づいていないらしいのだ。つまり、教師も自分と同じ人間だということに気づいていないらしいのだ。学生にとって教師は透明人間なのか?たぶんそうなのだろう。そこで、教師は「人間宣言」を行わなければならなくなる。そう、教師もまた好みを持った「一読者」であることを学生に理解させるのだ。(25)
     この「人間宣言」の部分はよく考えてみるとなかなか奥が深い。教師が「一読者」であることの確認には、たしかに「レポートはちゃんと読める形で出してね」というメッセージがこめられているが、同時に、そもそも論ずるとはどういうことか?というなかなか微妙な問いにもつながってくる。論ずるとは、いったい誰に向けて、どういう〝つもり〟で行われるものだろう。

     論文にしてもレポートにしても、この〝つもり〟の問題に答えるのがとても難しいのだ。いみじくもこのセクションには「レポートの作法」というタイトルがつけられているが、「作法」というからにはそこには〝ホンネ〟と〝タテマエ〟がからんでくる。もちろん〝タテマエ〟がウソに過ぎないとか、虚構だとかそういう単純な話ではない。一般の「作法」と同じように、レポートにしても論文にしても、ある一定の〝タテマエ〟を演出として組みこむことではじめて命が吹きこまれる。しかし、〝タテマエ〟はやはり〝タテマエ〟にすぎない。どこかの時点で「これは所詮タテマエですから」と捨てられないまでも諦められねばならないものである。

     具体的に言うと、たとえば「夏目漱石の『道草』をねちねち読む」という授業があったとしよう。学期末レポートとして先生の出した課題は「とにかく『道草』について何でもいいから論ぜよ」だとする。そこである学生が「『道草』と胃病」というテーマをとりあげようと考える。『道草』の中で胃と関係しそうな部分を読みこみ、食べ物のイメージとか、主人公の胃の調子とかについて何か言おうとする。いろいろ考えているうちに、「そういえば道草というのは〝食う〟ものだな」というような、あまり役に立ちそうにない思いつきにも至るかもしれない。

     学部レベルのレポートとしてはなかなか野心的である。かなりの難題だ。ついに学生は『道草』だけで「夏目漱石と胃病」を論じるのは無理だ!とあきらめそうになる。しかし――そしてここからがおもしろいところなのだが――この学生はどうしても「胃病」のことが頭から離れなくなってしまう。どうしても胃について何か言いたくなってしまった。テクストには証拠がないし、自分が何を言いたいかだってよくわからないのに、でもそのよくわからない「何か」を言いたいのである。とにかく漱石の胃じゃなきゃならないのだ!(と彼は心の中で叫ぶ)

     もちろん〝タテマエ〟から言えば、これは×である。「よくわかりませんが、自分は何だか漱石の胃に興味を持ってしまったので、何を言うことになるかは皆目わかりませんが、あとは野となれ山となれ、とりあえず出たとこ勝負の運まかせで書きます」と始めたら、人間石原千秋は顔を真っ赤にして怒ることだろう。筆者だって、血圧は低いから顔は真っ赤にはならないかもしれないが、思わず吹き出してしまうかもしれない。

     しかし、論文というのは実際にはそのようにして着想されたりするものなのだ。「よくわからないけど、ここを掘ると何かが出てくるような気がする」と犬のように地面を掘ってみる。とにかく掘るのである。そうするとほんとに何かが出てくることがあるのだ。不思議なものである。まるで自分で埋めておいたのじゃないかというような、ちょうど好都合のものが、地面/字面の中からニョキッと出てくる。それで後からもっともらしく「漱石という人の作品を考えるにあたっては、執筆リズムと体調とを関係づけることが重要である。とりわけ食べることは漱石にとって非常に……」とか何とか、〝タテマエ〟を組み立てていくわけである。

     逆に言えば、〝タテマエ〟や作法のことしか頭にない論文というのはロクなものではない。もちろん〝タテマエ〟も作法もない論文というのは、それ以上にロクなものではない。石原の言うように、教師というひとりの〝人間〟を相手にすることから出発するのは必須だ。しかし、そのうえで、そのひとりの教師のご機嫌をとったりおもしろがらせたりすることを遙かに超えて、書き手の妙なエネルギーをドバッと出してしまうレポートなり論文なりが、いいものなのである。

     こんなことを考えさせてくれる土壌がこの本にはある。そこで大事なのはおそらく石原自身のメッセージが、歯切れ良く潔くあるだけに、容易に反論可能なものとして提示されているということである。たとえば、論というものはとにかく具体的な提案がなければならないと石原は強調する。俎上にあげられるのは、佐和隆光によるつぎのような一節である。

     

    日本型システムが復権することは、まずありえない。アメリカ型システムが最適であり続ける保証もまたない。二十一世紀の最初の十年に起こる『変化』を先取りし、それへの迅速な「適応」を積み重ねることにより、革新的なシステムを構築することが、次の政権に託された課題なのである。

    これに対し石原は言う。
    「絶対になかったとは言い切れまい」とかなんとか。当たり前じゃん、そんなこと。ここにあるのは「事実」ではなく、単なるレトリックである。そんなレトリックが論文の根拠になるはずがないではないか。(64)
    さらに。

    肝心なのは、その「革新的なシステム」の具体的な中身である。しかし、この文章はその肝心な点に関して一言の言及もなされていない。何のためにこの文章は書かれたのだろうか。ただ、「こちらはこういう利点があるがこういう欠点もあって」という具合に、現状をまとめただけではないだろうか。これが「秀才さんの作文」の典型だ。(65;「しかし、この文章は」は「しかし、この文章には」?)
    佐和に対する石原の批判は必ずしも息の根をとめるような容赦のないものではない。反論は可能だ。そもそも「レトリック」というのはそんなに悪いものか。「AはBである」という明晰な論理のかわりに、「レトリック」を使って「AはBでもCでもあるが、BでもCでもない」というような回り道をすることだってある。そうすることでやっと伝わることがあるのだ。文学作品というのはまさにそういうことの行われる場だろう。ただ、そうした「正しい議論」に拠っていてはなかなか言えないこともある。ここで石原がやろうとしているのは、論説文特有の紋切り型の、その臭みに矛先を向けることなのだ。論文の〝タテマエ〟の部分を曝いてしまいたいのである。

     さらに石原は、高校生の段階で妙に文体らしきものを身につけてしまった学生が大学に入るとかえって伸びない、という話を続ける。ふむふむと筆者も思った。たしかにそういうことはある。評論家でも高校生でも同じである。論文の〝タテマエ〟を習得してそこに安住するようになると、文章のほんとうの痛みのようなものが捕まえられなくなる。なるほど、こんなふうに〝タテマエ〟のインチキさを白日の下にさらすのは、昔から石原の得意とするワザだった。

     本書の後半も決してつまらないわけではない。石原のこだわるテクスト分析がきちんと行われているし、大学生にとっては文章との接し方を学ぶ良い機会ともなるだろう。ただ、本としてみると、前半の勢いに較べこちらは何となく作業のように見えてしまうところがあった。また、読者の中には「石原センセイの恋愛ギャグはオヤジ臭い」とか「もてない男を演ずるのはわざとらしい」といった意見もあるかもしれない。しかし、そうしたぬるいギャグをあえて繰り出すことで教室の学生を油断させ、こちらの術中にはめるというのは、昔から名物センセイの採用してきた高等戦術である。そういう意味では教室も、ホンネとタテマエの錯綜する、なかなか複雑な空間なのである。

  • 教養的な内容だった。
    大学生の論文の書き方、執筆法の本としての内容はあまり印象に残らず
    著者の考え方や雑談めいたものが印象に残った。

  • "文章は切実な時に切実な相手と交わすのが一番鍛えられる"らしい

  • 大学生向けの論文執筆法。
    しっかり書かなくてはいけない人に。

  • [ 内容 ]
    大学生にとって、論文を書くとはどういうことか。
    誰のために書くのか。
    何のために書くのか。
    大学での授業の受け方や大学院レベルでの研究報告書の作法、社会に出てからの書き方まで、論文執筆の秘伝を公開する。
    かつて流行った決め言葉の歴史や、カルチュラル・スタディーズが隆盛となったここ最近の学問の流れをも視野に入れた、実用書でもあり、読み物でもある新しい論文入門。

    [ 目次 ]
    第1部 秘伝 人生論的論文執筆法
    第2部 線を引くこと―たった一つの方法(なぜ線を引くのか、あるいは線の仕事;自己と他者;国境と政治;「われわれ」と「彼ら」)

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著者プロフィール

1955年生。早稲田大学教授。著書に『漱石入門』(河出文庫)、『『こころ』で読みなおす漱石文学』(朝日文庫)、『夏目漱石『こころ』をどう読むか』(責任編集、河出書房新社)など。

「2016年 『漱石における〈文学の力〉とは』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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