聖書と歎異抄

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  • Amazon.co.jp ・本 (242ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784487809806

作品紹介・あらすじ

死と隣り合わせという極限状態の中で出会った、五木寛之の「歎異抄」(親鸞)。
年間100人もの路上生活者を大阪・西成区釜ヶ崎で弔う、本田哲郎の「聖書」。
この二著はふたりに、そして私たちに何を語ろうとしたのか? 
五木寛之が「自分が死ぬまでに何としても会いたかった」という本田哲郎との「いのちの対話」である。

感想・レビュー・書評

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  • 五木寛之と本田神父とは年齢の差があるためか、全体に五木ペースではあるが、教えの共通点はわかりやすく引き出されている。
    「洋の東西を問わずあっちの池でもこっちの池でも、ぽこっぽこっ、と水の中から泡が湧いてくるように、あるいは蓮の花が咲いてゆくように、同じような人と思想が生まれてくるのかもしれない」(本田神父)

    [more]<blockquote>P51 (南無阿弥陀仏は)お願いの念仏じゃないんだよと、ありがたいという報恩感謝の念仏なんだと。あなたは救われる、私も救われる、誰もが救われる、うれしいじゃないですか、はいうれしいです、じゃうれしいという言葉を南無阿弥陀仏と言いましょうと。

    P54 「もうひびが入っている石垣を上手に漆喰で上塗りして平和だ平和だと言っているのと同じだよ」とイエスは言っている。だから逆に漆喰をはがしてこことここもう壊れてるよとそれを明らかにするところから始まらないと、いい加減な平和になってしまうから長続きしない、だから分裂をもたらすために来たと、そこまで言ってしまうんですよね。

    P65 親鸞の言葉の中に「ひとりいて喜んでいるときは二人いて喜んでいると思え、二人いて喜んでいるときは三人いて喜んでいると思え、そのひとりは親鸞である。」とある。寄り添ってくれる存在の心強さがあれば孤独も怖くないのかもしれません。

    P74 臨終を待たずに往生する、その点は聖書に語られる「復活」と同じです。【中略】蘇生と復活は全然違う。死者の生き返りを信じるのではなくエゲイレイン=立ち上がりを信じるのです。「復活」とは生きているうち今すでに神の命、復活の命を生きることです。

    P138 キリスト教という宗教の「加害性」 愛するというのは一方的な努力の問題じゃなくて、それこそ出会いの問題だし、愛せる人がいて愛せないその他大勢がいる。それが普通でいいはずなのに「互いに愛し合いなさい」という言い方、これこそが誠実に生きようとする多くの人を苦しめがいをまき散らしてきたと思います。
    キリシタン時代「愛」なんていう言葉は使っていない。「アガペー」が出てくるたびに「たいせつ」「おたいせつ」という言葉で表現してました。【中略】敵をも愛しなさいと言われるとそんなの誰ができるかってお手上げになるんだけど、敵であっても敵対する人でも大切にしろよ、敵に塩を送れよ、ならば。【中略】わたしは聖書から「愛」という訳語を全部消したいくらいです。「愛」という「痛み」を持つことによる「つらさ」の視点が全くありません。

    P143 「慈」だけではダメだというのが「悲」カルナーと言う。これは「はらわたに深く響くもの。悲というのは湿ってじとじとじて封建的というので人気がないのですけれども、実は悲の中に愛と痛みと両方がある。</blockquote>

  • う〜〜〜〜〜NN
    冒頭からの対談の部分に関しては
    ほとんど理解できない...
    五木寛之氏は『歎異抄』をはじめきっと仏教というものを理解しているということだし、対談相手の本田哲郎氏はキリスト教のスペシャリスト
    この二人の対談を理解するには少なくとも、それぞれの宗教を少しは知っていないと...とてもじゃないけどついて行けない...
    それでも
    対談の中で『歎異抄』一部の解釈...が引用されていて
    その解釈を読むだけでも
    『歎異抄』のことが少しわかったというか分かりかけた...というか...少し嬉しい...
    五木寛之氏の「私訳」として歎異抄全文が現代文で載っており、その部分が一番嬉しかった。
    本田哲郎氏も末尾に書いているけれど「キリスト教」ととても似ている...部分がる...みたいなことを書いていて
    わからないながらも、私も少しそんな風に感じた...

    この対談で思ったことは
    宗教はそれぞれ宗教家、あるいは末端?の信者...それぞれの解釈があるというかその解釈の仕方で異なるものになるのかもしれない...とか思ってしまって...
    仏教だって色々宗派があるし...ますます分からなくなる(宗教というものが)...というか...
    その気持ちは今は横において
    『歎異抄』に集中しようと思ってみたり...

    本田哲郎氏の本も読んでみたい...

    むむむ...難しいです...(笑い

  • 【紙の本】金城学院大学図書館の検索はこちら↓
    https://opc.kinjo-u.ac.jp/

  • 大阪釜ヶ崎で活動をされているカトリックの司祭(聖書の翻訳者でもあります) 本田哲郎さんと、親鸞について語り合う、作家 五木寛之さん。語り合ううちに、本田さんは、釜ヶ崎で暮らすことを通じて、救い主キリストは、石切工(テクトーン)のヨゼフの子供として育てられた人間で、普通のユダヤ教徒が就けるような仕事には就けず、社会の底辺に暮らしていた無学な人間なんだ、教養としてもかなり拙い人間なんだ、という当たり前の気づきを貰いました、と語っております。キリスト教は、ローマという権力と結びつくことで、上から目線の宗教に変化していった、という事にも、気づきました、と話しておられます。これに対して、五木さんは、熱く親鸞への想いを語っております。やや難しいところもありますが、★三つであります。

  • 自分には阿弥陀さんが共に居てくれてるんだろうか?

  • 不幸自慢をする前にこの本を読もう。弱音を吐く前にこの本を読もう。

  • 五木寛之の出自がこのようなものだとは知らなかった。

  • 以前からその活動と思想に気になるものを感じていた本田哲郎司祭と、「他力」などの仏教系著作も多い五木寛之氏の対談ということで、個人的に期待して読んだ。
    字も大きく読みやすい。キリスト教と浄土真宗、それぞれの立場から繰り広げられる対話には、面白いほど共通点がピックアップされ、もう浄土真宗はキリスト教にあげてしまえ、と思うほどである。
    一つ物足りないのは、五木氏の発言が相対的に多いように思われること。もう少し本田氏の発言もお聞きしたかった。

    親鸞信奉者として有名な五木氏であるが、意外と宮沢賢治や日蓮に対しても正当に評価しているような記述もあった。的外れな賢治解釈や、日蓮を過小評価する傾向のある宗教学者たちは見習ってほしい。

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著者プロフィール

1932年、福岡県生まれ。作家。生後まもなく朝鮮半島に渡り幼少期を送る。戦後、北朝鮮平壌より引き揚げる。52年に上京し、早稲田大学文学部ロシア文学科入学。57年中退後、編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門筑豊篇』ほかで吉川英治文学賞、2010年『親鸞』で毎日出版文化賞特別賞受賞。ほかの代表作に『風の王国』『大河の一滴』『蓮如』『百寺巡礼』『生きるヒント』『折れない言葉』などがある。2022年より日本藝術院会員。

「2023年 『新・地図のない旅 Ⅱ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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