- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784532260972
作品紹介・あらすじ
他人のまねをして何がおもしろい?-未知なるものにあこがれ、自分の足で歩いて確かめ、自分の目で見て観察し、自分の頭で考える。オリジナリティを大事にして、堂々と生きようやないか!閉塞感・不安感に満ちた現代日本人に向け、「知の巨人」が最後に語った熱きメッセージ。
感想・レビュー・書評
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糸井重里さんの文に梅棹さんが「1960年代にすでに情報産業 という
概念を作った人」としてあったので。
梅棹さんとはどんな人か 何をした人かという取っ掛かりの本としては
いいと思います。 私はこれから「文明の生態史観」に行きます。
岡本太郎の「太陽の塔」だけを見に東京から大阪万博公園に行った
時に民博だけは気になったのだけどスルーしてしまった。。
次回は民博を見るだけに大阪に行こうかな。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
面白かったです。
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「知の巨人」である梅棹忠夫先生の対談内容を編集している。「自分で見たことしか信じない。」、「情報は分類せずに配置せよ」、「思いつきこそ独創である」、「困難は克服されるためにある」、「いいリーダーはフォロワーシップを経験し理解することやな」など、メッセージが記されている。梅棹先生の「人間としてかなりの自信がある」と言い切る部分に、私は特に魅力を感じた。
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知の巨人、梅棹忠夫、大いに語る。 追悼であります、梅棹ワールドの入門書としては最適ではないでしょうか。
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梅棹忠夫の人生の「あとがき」。
もしかしたら氏のどこかの著作に書かれているのかもしれないけれど、
「中国を信用したらアカン」
「インテリ道=近代の武士道(=漢字・形式主義・・・)」
「放送とのかかわり方」
あたりが「梅棹忠夫の考え方、生き方」として個人的に新しい情報だった。
次は桑原武夫、中尾佐助を読んでみたい。 -
丸善 本店
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梅棹(うめさお)忠夫・小山修三著『梅棹忠夫語る』(日経プレミアシリーズ/893円)読了。
今年の夏に90歳で大往生した「知の巨人」梅棹が、その最晩年に自らの来し方を振り返って語った談話集。
語り下ろしの自伝(ただしダイジェスト版)としても読めるし、風変わりな「梅棹忠夫入門」としても読める。
カバーの惹句や聞き手の小山修三による「あとがき」には「若い世代へのメッセージ」うんぬんという言葉があるが、そういう感じはあまりしない。
梅棹の著作というと、私は『知的生産の技術』と『文明の生態史観』しか読んだことがない。なのに「影響を受けた」などと言ったら怒られそうだが、それでも、私は『知的生産の技術』にかなり影響されたという自覚がある。
私にかぎったことではなく、現在の「知的生産の技術」に梅棹が与えた潜在的影響は甚大・広範なものであるはずだ。たとえば、山根一眞の『スーパー書斎の仕事術』も、野口悠紀雄の『「超」整理法』も、梅棹という先駆者がいなかったら生まれ得なかったはずだ。
梅棹は、1986年に突然失明するという悲劇に見舞われた人である。そのためであろう、彼はパソコンやインターネットの世界にほとんど触れることなく世を去った。本書にも、「ITは信用しない。自分がやっていないから」という項目がある。
これは、非常に惜しいことだ。梅棹がITの世界を知ったなら、先駆者ならではの慧眼で、その本質を見事に論じたに違いないのだ。
ただし本書は、「知的生産の技術」の先駆者としての梅棹よりも、型破りな学者としての梅棹のほうが前面に出ている本だ。関西弁の小気味よいリズムに乗って、日本のアカデミズムの「ここが変だよ」という点をズバズバとついていくところが痛快である。たとえば――。
《どこかでだれかが書いていたんだけど、「梅棹忠夫の言ってることは、単なる思いつきにすぎない」って。それはわたしに言わせたら「思いつきこそ独創や。思いつきがないものは、要するに本の引用、ひとのまねということやないか」ということ。それを思いつきにすぎないとは、何事か。
(中略)
学問とは、ひとの本を読んで引用することだと思っている人が多い。
それで、これは昔の京大の教授だけど、講義のなかで、わたしを直接名指しで、「あいつらは足で学問しよる。学問は頭でするもんや」って言った人がいた。頭でするもんやということは、ひとの本を読めということやな。「あいつらは誰も引用していない。こんなのはだめだ」と。そういう言い方を講義のときにしたという話を聞いたことがある。》
その他、「博士号は足の裏についた飯粒や。取らな気持ち悪いし、取っても食えん」などというユーモアに満ちた名言も多く、楽しい。インタビューというより対談に近いスタイルなので、あっという間に読める。それでいて、深みもある本だ。 -
2010/10/16
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感動した。すごい人です
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「知の探検家」の最後の言葉であり、歴史である。
自らを「アジテーター」と言う氏からの現代のわれわれへの応援が聞こえてくる。
映像を拝見したことはないが、関西弁(京都弁?)の語り口によって、より一層親しみが湧く。
「知的生産の技術」しか存じ上げなかったが、それは単なる(ほんのわずかな)一面に過ぎないということがわかって、よかったと思う。
昨年2010年に90歳で亡くなったということは、祖父とほぼ同年代であったのかと思うと、とても驚かされる。
[more]
(目次))
第1章 君、それ自分で確かめたか?
第2章 文章は誰が読んでもわかるように書く―記録と記憶の技術(1)
第3章 メモ/スケッチと写真を使い分ける―記録と記憶の技術(2)
第4章 情報は分類せずに配列せよ―記録と記憶の技術(3)
第5章 空想こそ学問の原点
第6章 学問とは最高の道楽である
第7章 知識人のマナー
第8章 できない人間ほど権威をかざす
第9章 生きることは挫折の連続である
エピローグ つねに未知なるものにあこがれてきた -
梅棹忠夫氏最後のインタビュー。
とても力強い内容。知的生産の技術のフォロー的な側面もあるし、梅棹忠夫氏の歴史を(簡単ではあるが)たどれる一冊。
やはり並外れている人は、並外れているんだなというトートロジー的感想を持った。 -
自伝でもないけれど、一番近いかな。友人に薦められて読んだ一冊。梅棹忠夫さんを知らない無知な私ですが、テンポよく読めました。知の巨人はとにかく、達観している印象。
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近代インテリを武士道と結びつけるなど、やはり、一代の人物であろう。インドと中国の比較など、ところどころ興味深い語りがある。梅棹の思想は著書よりもこのような談話こそが、という思い。
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小山修三先生による故梅棹忠夫氏へのインタビューをまとめた本。梅棹氏がまだお元気だったころの対談本は何冊か読んだことがあるが、この本を読むと亡くなられる直前まで歯切れの物言いでかくしゃくとされていた様子が目に浮かぶ。梅棹氏の思想にふれるという点では物足りなさはあるが、人となりに触れたい人には好適。
梅棹氏の著作を全く知らない人は、小山先生があとがきで記しているように、「文明の生態史観」「情報の文明学」「知的生産の技術」の3冊と国立民族博物館の見学をお薦めしたい。 -
時間つぶしによった書店で、ぶらぶらながめていて見つけた。やはりとりつかれている。帯にはこうある。「死の直前まで語り通した、自らの生きざまと哲学」。「文章は誰が読んでもわかるように書く。複文はイカン。」「情報は分類せずに配列せよ。検索が大事。」「梅棹の言うことは単なる思いつきやと言われる。だったら思いついてみろと反論する。思いつきとはひらめきであり、オリジナルの発想をひらめくことこそ独創である。」「博士号は足の裏についた飯粒や。取らな気持ち悪いし、取っても食えん。」「小山・・・『武士道』という本なんかどう思うんですか? 梅棹・・・読んでへん」一言ですますところがかっこいい。「日本の先生は権威主義、権威を守ろうとして居直る。」1976年の話、「コンピュータは、そろばんと鉛筆や。供給してみい、そうしたら需要がでてくる。」梅棹先生に現在のITについて語ってほしかったのだけれど、「ITは信用しない。自分で見たもの意外は信用できない。」「梅棹忠夫の人生は挫折の連続」「困難は克服されるためにあるんや。」「みなさん、あきらめたらあかんのですよ。」
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自分の好きな事に対して活動し、ぶれない自分をつくりたい
知的生産の技術の作者としてあまりにも有名な、梅棹忠夫氏。
そんな梅棹さんの最後の語りを収録した本。
自由闊達。
偉ぶるな、権威的になるな。
自分の足で、目で確かめたものが真実。
そんな梅棹さんの言葉に勇気づけられました。
好きなものごとに対して、
現場に行って、歩いて、見る。
そうやって見識を深めていく。
自分の好きな事に対して活動し、軸が出来ていけば、
その信じるものに対して、批判されてもぶれない自分が
出来ていくのかな、
というように捉え、自分の活動にうまく転化させていきたいと
思った一冊です。
自分に自信がないから、人は卑屈になるのかな、ということを
最近考えているので、
自分の好きな事に対して力を注ぎ、いつか
「人間としての自信」を持てる自分になれたら幸せだなと感じました。 -
梅棹忠夫に興味があるなら、読むべき一冊。
示唆深い言葉が多々出てき、考え方に一端を垣間見せてもらえました。 -
90才まで自分の目、耳、足を使い頭を使って考える。他人のまね、同調をしない考え方に、私の「理想のひと」にするゆえんがあります。By たけちゃん
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内容はいいが、いちいち大きな文字が入っていて読みづらい。
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「情報産業」という言葉を創造した学者の本。「京大式カード」が流行らせたのもこの人ですね。行き詰まった時は原点に帰るのが◎。
読んでいると「書を閉じよ、野に出でよ」に感じられるのは偏見かな?
座談なので話は飛びまくってますが、印象深いフレーズを引用。前後を補っている箇所ありますので悪しからず。
「(情報は)分類するな、配列せよ」
「知的生産というのを評価できていない〜〜「日本政府は唯物論政府や」
「みんなは、学問といえば、ひとが書いたものを読むことだと思っている。」
「フォロワーシップとは、盲従でない。自分の意志や判断はもつけれども、隊長にはしたがう。」 -
小山修三による梅棹忠夫の聞き書き。と書くとミもフタもないが、フィールドワーカー、民俗学者梅棹忠夫の最後の声だと思って読むと非常に感慨深いものがある。なにしろフィールドワークを根っこにいろいろな仕事のある方で、その集大成、最終的なエッセンスがきゅきゅっと読めるのがこの本、だと云える。
「供給すれば需要が出来る」「自分の足と目で確かめる」「まずはやってみる」というイケイケドンドンなおっちゃんが、学生時代の挫折やら、敗戦によるモンゴルからの脱出やら、突然の失明やらで挫折を覚えてくとこうもバランスのとれた好人物が出来るのか、といった具合で、えーと、結局は読んでると元気になるよ、という風に捉えていただければいいかと思う。
困難を克服すると人は強くなるし、克服できた自分に自信を持たんとやってけんで、と書いてあったのである。
こういう体のイケイケドンドンなら歓迎である。 -
友人が「これは面白かった!」と太鼓判を押して紹介してくれた本。
本書は知の巨人・梅棹忠夫へのインタビュー本で、そのテーマ・内容は多岐にわたります。特筆すべきは、梅棹氏が関西弁で語るそのまんまで収録されていて、梅棹のざっくばらんな人柄がリアルに伝わってくることでしょう。時に本質を直言しすぎて身も蓋もない部分もありますが、それが笑いに昇華されて嫌みを感じないのは、関西弁と関西的なノリゆえでしょう。愛嬌という奴でしょうか、和辻哲郎の『風土』について、「和辻っていう人は、ほんまに大スカタン」(117頁)という下りには思わず爆笑してしまいました。
梅棹氏は、権威主義や教条主義的な態度というものに否定的でした。エラそうぶってるものも大嫌いで、それらを「近代武士道」の文脈から批判しています。
梅棹氏のスタイルは、自分の足で調べに行き、見たもの・感じたものから学問を構築するというもの。自分の目で見たものがのこすべきものであり、自分がやったことに価値があり、それを残すことこそが学者冥利に尽きると言います。
そんな梅棹氏にとって不満なのが、学問を他人の本を読んで理解することだと思っている連中。梅棹氏について、京大の中で「あいつらは足で学問ができると思っとる。学問は頭でするものである」と言われたそうですが、それに対して梅棹氏は「では、頭でやるというのは、どういうことか。ひとの本を読むということなのか。ひとの本読んで、ひとの本のことを書いてどうするというのか」と手厳しい反論を加えています。
この梅棹氏の、自分の感覚や着想を大事にする発想には、とても共感を覚えます。
以前紹介したちきりん『自分のアタマで考えよう』(http://booklog.jp/users/tomiyadaisuke/archives/1/4478017034)でも「知っていることと考えることは全く別物」という指摘がありました。この「知っていると考えるの違い」というモデルは、実はそこかしこで見られることでもあります。
例えば将棋。将棋の場合は、考えない棋士というのはまずありえません(そんな人はプロとして勝ち残れない)が、「知っている/考える」的な傾向がほの見える話があります。渡辺明『頭脳勝負』(http://booklog.jp/users/tomiyadaisuke/archives/1/4480063927)から引用します。
《 棋士は、関東所属と関西所属とにわかれます。関西では、関東ほど研究会が盛んではないと聞きます。これには昔からの伝統があるのかもしれませんが、人数の違いという理由も考えられます。関東所属が一一二人に対して関西所属は四四人。タイトル戦はもちろんのこと、本戦や決勝リーグになれば関係ないのですが、予選では遠征費の節約のために関東同士、関西同士で対局が組まれることがほとんど。よって、関西で歯同じ人と対局する確率が高いのです。頻繁に公式戦で当たる人と同じ研究会に所属するのは、味が悪いでしょう。「今度、公式戦で当たるから今日は探りの手で行こう」ということになっては、研究会の意味が薄れてしまいます。
研究会が流行っている関東とそうでない関西。若干ではありますが、指す将棋に違いが現れます。関東の若手同士が対局すると最新流行形になることが多いのですが、同じ若手でも関西の棋士ですとそうはなりません。関西棋士には、「力で勝負」タイプが多いように思います。序盤の早い段階で変化球を投げ、知識が生きない展開に持ち込んで勝負するという指し方です。
肝心の成績ですが、関東対関西はほぼ互角。最新流行形の知識を持っているからといって勝てるほど、将棋は単純なゲームではないということです。》(35-36頁)
実はこの関西・関東の傾向って、私の知り合いでも似たような傾向が見られまして、関東の知り合いは、知っていることを話す「コンテンツ型トーク」の人がほとんどです。そのコンテンツ自体が面白ければ楽しく話を聞いてられますが、後で思い返そうとしてもほとんど思い出せないということがあったりします。
対する(?)関西の知り合いは、コンテンツもさることながら、それを語る視点や分析、「俺に言わせりゃ」という意見がセットになっていることが多いです。こういう人たちは比喩や別のモノと対比して説明するのが上手いことが多く、コンテンツそれ自体の面白さを超える面白さを提供してくれます。
(もちろん、これは傾向であって、関東でも自分視点や妄想を加えてとんでもないウソ話を語る超絶に面白い人もいますし、逆に関西でもつまらん話題をこれ以上無いくらいにつまらなく語るどうしようもない人もいます)
また、本書の第八章「できない人ほど権威をかざす」でも、権威主義や教条主義で固定観念にとらわれていることが批判されています。
これ本当にその通りで(笑)、酷いのになると説教までもが先生の受け売りというのがいます。こうなってくるといかにも宗教団体にいそうな「勘違い中堅信者」で、本人の頭は1ミリも動いていません。そういう奴に限ってこれまた無駄にエラそうなんですが、「ヲイヲイ、エラそうに説教したいなら、せめて説教の文句くらいは自分で考えろよ…」と言いたくもなります。でも、自分のアタマが動いてない人には、言っても通じないんですけどね。
エラそぶるのが一番しょうもない、とつくづく感じました。(と同時に、その対極にある梅棹氏のあり方にまた憧れるわけです)
自分でやることを大切にする梅棹氏らしいエピソードと言えるのが、研究費の話です。
研究費や各種プロジェクトの予算を調達するのが上手かった梅棹氏。商人気質と才覚も持ち合わせていた梅棹氏について、一時期「梅棹さんに言えば予算を取ってきてくれる」という学会内の空気ができはじめます。しかし梅棹氏は「予算は自分でとってくるもんやで」と一蹴。確かに、「自分でやる」というのはそういうことです(笑)。
本書を読んだら、梅棹忠夫の著作の読み方が変わりそうです。全部関西弁に直して読んだ方が本質がつかめるんじゃないか、と思いました。 -
知的な対話は行間すら無駄にしない。
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梅棹ファン向けの本です。これから梅棹のことを知りたい、ちゃんと理解したいという方、特に若い方は、この本は読まない方がいいです。手放しで梅棹の言葉を賞賛してるだけなので、興醒めしてしまいます。
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昨今、梅棹忠夫の言葉を多くの識者が引用・抜書している。ただそれらが直ちに万人に"響く"とは限らない。本書を読んで、やはり1つの著書や「全集」を読まないと、その被引用フレーズの意味の前後関係までを理解することが難しいと感じた。
梅棹忠夫との対談類書は多くあるが、章(情報)・言葉の配列順と、インタビュアーの手腕により、本の性格が大きく異なると実感した。 -
梅棹氏の『知的生産の技術』を読みたくなりました。
「梅棹の言うことは単なる思いつきにすぎない」と言われる。私に言わせたら、「思いつきこそ独創や。思いつきがないものは、要するに本の引用、ひとのまねということやないか」
「学問とは、ひとの本を読んで引用することだと思っている人が多い」
「できない人間ほど権威をかざす」
「生きることは挫折の連続である」
「困難は克服されるためにあるんや。」 -
梅棹忠夫、わたしは人類全体の一固体にすぎない。小山ー梅棹さんは基本的にはニヒリストなんでしょうな。陽気なニヒリスト。
梅棹ー明るいペシミストや。生きることは挫折の連続である。人生に目的なんかあるわけがない。山では、計画を立てた人がリーダー、それに合意しつフオロワーとなる。 -
012014.
登山や植物、昆虫採集を愛した人柄から、自分の目で確かめるという研究姿勢が伝わってくる。
(目次より)文章は誰が読んでもわかるように書く/スケッチと写真を使い分ける/情報は分類せずに配列せよetc -
こんなに破天荒で面白い人だったのか。