- Amazon.co.jp ・本 (267ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582834055
感想・レビュー・書評
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飲まず食わずでも人は直ぐには死なないけど
呼吸を止めたら、ものの10分もあれば死んでしまう。
とっても興味深い対談。
たまに五木さんの頑なさが気になるけれど、
とっても深いところで交わされる会話に、引き込まれる。 -
生きているものは、呼吸が止まれば死んでしまう。
しかし、ふだんは意識しないものだ。
それを意識すれば、病気まで治す力があるという。
意識ということは、イメージ力も手伝うという意味であろう。
そういう意味でホゥと思ったのは、白隠禅師の「内観の法」である。
それは、意識を集中していくと、臍下丹田に気が充実し心身の調和が保て、内臓器官が正常に働き病が治るという教えである。
イメージ療法であろう。瞑想の一種なのだと思う。
黄檗宗へ繋がる幻住派という流れの元には、中国の中峰(チュウホウ)禅師という方がいて、禅師にもかかわらず、念仏をも双修したという。
要するに、浄土と禅をふたつ修したということである。
人を見て、場合によってはときに応じて、念仏をやりなさいということもあったという。
そういえば、良寛さんも、曹洞宗の禅師なのに、お墓は浄土真宗にある。
こだわらない、そういうところがいいなあと思う。
様々な話が豊かで面白かった。
五木さんは他力主義であり、玄侑さんは臨済宗の禅憎である。
だから、よけいにおもしろい。
表紙は伊藤若冲の蓮池図。
若冲のこの絵は、重要文化財なのだそうだ。
全く媚びないが、かといって冷たくはない。
全体を見たいものだ。 -
五木寛之さん、玄侑宗久さんが呼吸について語り合った対談集。
両者とも見識が深いので、読んでいて新しい気付きがあり楽しい対談になっている。
絶命する際に息を吸って終わるか、吐いて終わるか、考えたことも無かったがなるほど、興味深い。
自己流でも良いから自分に合った呼吸法を身につけておけば、ストレス過多な社会で生きていく上で役に立ちそうである。 -
書かれている内容は、息の『発見』でもなんでもない。タイトルは適当につけられたもので、要するに呼吸をテーマにした雑談録。五木寛之と玄侑宗久さんは仏教に詳しく、採り上げる話題がいちいち興味深い。
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息の重要性とか、息から見る西洋比較論は面白いけれども、息についてもっと学問的な深みのある対話を期待してが、作家と坊さんではやはりそういう議論にはならない様だ。
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五木寛之著作の本は面白い。小説家なのであるが、小説は読んだことがない。エッセイや旅行記、仏教、宗教に関するものは読みやすく一気に読める。
面白い本の条件は、どんなに難しいことがかかれていようが一気に読める。
いつか役に立つだろうと無理して読んだ本は、再読するのもムリなので早々と読むのをやめてしまう。
図書館で借りた本ならまだいいが、大枚をはたいて購入した本がはずれなのはくやしい。
本書は対談シリーズになっており、今回は小説家・禅僧である玄侑宗久との対談。
五木は「人は息を吐いて生まれ息を吸って死す」と述べるのに対して玄侑は「人は吸ってこの生を受け入れ、息を吐いて休息する…」とソフトに反論。
両者に共通していることは、息「ソク」の大切さ、息を吐長く吐くことに重点をおき、吸うことは副次的なものであるという点だ。
「長生き」は「長息」。
丹田を意識した呼吸。
純粋に呼吸法を実践するのもいいが、お経を唱えることはよい息をするという。僧侶は栄養学的には不足しているのにも関わらず、統計的に長寿であるという点は興味深い。
「飽食よりは空腹を選ぶ」と玄侑。 -
対談の多くは、互いの論を尊重するからか、反論・異論は出ないことが多いけれど、この本の対談者は呼吸(息)に関しての異論を含め、激論を交わす。古今東西の呼吸法が紹介され、特に「禅」におけるそれについて、また仏教論が飼わされる。玄侑師考案の「喫水線呼吸法」は、自分の体を空の容器とみなして息(水でも光でもよし)を吸うたびに足元から全身に満ちてくる様子を喫水線でイメージする。吸った息が水色だとイメージし、吐く時は金色の光になっ出て行くように色をイメージすると映像でイメージするのでやりやすいそうだ。
五木さんの息についてのブッダの言葉を引用しておく。
「息を吸う時には、息を吸っている自分に気付こう。吐いている時には吐いている自分に気付こう。歓びを感じながら息をしよう。心を感じつつ、心を静めて呼吸しよう。心を安定させ、心を自由にとき放つように息をしよう。そして無常を感じ、生の消滅を感じ、自己を手放すことを意識しつつ呼吸しよう」