- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784761923631
感想・レビュー・書評
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ルールはみんなが自由になるためのもの
自由の相互承認詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
★教育は、子どもの「自由」とその「相互承認」を実質化するものである★
「教師の実践知と哲学者の哲学知を合わせることによって、具体から抽象まで全部の景色がみえるようになる」というのをモットーに書かれた対談式の本。
学校という同年代で多種多様な価値観を持つ子供たちが共存している場では、「相互承認」を得ることがとても重要。
一方で、相互承認の土台には自己承認がある。つまり、相互承認は必要条件であって、十分条件ではないということ。 -
小学校教師(多賀氏)と教育哲学者(苫野氏)の共著(対談含む)。
アクティブラーニングがテーマなのかな。人はそれぞれに有能な学び手であるという前提に立ち,いかに深い学びを追究していく環境を作ることができるか。
公教育の限界の中には教師の精神的な仮想限界があるので,どのように教育を見るか,子どもを見るか,それこそ哲学していく姿勢が必要になる。
こういう実践家もいるよ,その実践家の営みをちょっと開設するとこんな意味があるよね,といった本なので教員の夏休みや冬休みの暇つぶしとしていいのでは。 -
不思議なことに教師をしていると、"求められている教師像"が見えなくなってしまう。
余裕がないからだと思う。
だから、ふと立ち止まって教育に向き合う、そんな時間をこの本は与えてくれる。
また、余裕が無くなった時に読んでみようと思う。 -
再読。
多賀先生の豊富な実践知と苫野先生の哲学知を織りなすことで、教師のあり方について考えることができる。
この本の帯にも書かれている
「小手先のネタを求めるな!哲学を求めよ!」
という言葉がこの本の内容を端的に表しているなと思う。
どんな実践や授業にしても、なぜそれをするのか•したのかということを自分自身が理解しているか。
常に自分自身を省みたいと思う。 -
多賀一郎先生の実践を、苫野一徳先生が哲学者として読み解くという、とてもぜいたくな本です。
これからの教育、これからの教師像を探っていきます。
まさに、実践知と哲学知。
読書についても言及してあります。
下記の文章は、耳が痛いです。
講師が、読書をしていますと言っても、薄っぺらな内容のビジネス本やノウハウ本しか読まない人は、薄っぺらい研修しかできないでしょう。
受け売りの内容ばかりになります。
自戒を込めて。
以下本文より
深い思索って、何でしょうか?
教師で言うなれば、教育のハウツー本ばかり読んでいる方には、薄っぺらい思考しかできないでしょう。まして、それを「読書だ」などと公言されるようでは、将来にわたっても深い思索などありえないことでしょう。
6年生の児童が自由読書の時間に学習参考書を読んでいて、
「読書しています」
と言ったら、どう思われますか? それを見て、「熱心に本を読んでいるなぁ」
とは思わないでしょう。ハウツー本は、教師にとって学習参考書みたいなものです。読書の範疇になど、入りません。
読書というのは、思索を深める一つの方法です。哲学書を読まなくても深い思索はできます。
しかし本当の読書をしない人には、深い思索はできないと思います。なぜなら、読書をしない人には、問い続けるということがないからです。
深い思索を続けている方の語る「教師の哲学」には意味がありますが、浅い考えしか持たない方には「教師の哲学」を語る資格などないと思っています。
ー 30ページ -
宇佐美先生のエピソードが面白い。「ずいぶんやり合」ったそうだが、他の本にもっと詳しく書いてあったりするのだろうか。多賀先生が実践のエピソードを書き、それに苫野先生が哲学の小話を引いてコメントする、という構成なのだが、なんか結論だけ引っ張ってきて規範的なオチのネタにするのってどうなのだろうか。私はすごくダメな気がするのだが、啓蒙書ってそういうものなのだろうか。ネットのレビューは高評価で、なんか考え込んでしまう。
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教育者の多賀先生の教育実践を教育哲学者の苫野さんが読み解いていく。非常に読みやすい。教室での実践を教育哲学で紐解いていく。そこには理論とかではなく、多賀先生のしっかりとした想いを、裏付けるモノを苫野さんが指し示していく。2人の思いが溶け込んで行き、最後の対談ではその想いが一致し、同じ方向性を示していく。
アクティブラーナーとしての教員を目指していくことの大切さを改めて実感。 -
「自由」と「自由の相互認証」やっぱりこの2つにつきます。
学習内容が、子どもたちの「自由」のためというよりは、「選別」のためってのは分かっていたとしても衝撃。
ネットの記事にも上がっていたけど。
確認だけど、それのすべてが悪いわけではなく、でも、大人の都合であるわけで。
今の社会にあっているのかな?という疑問は持ち続けて行こうと思う。 -
多賀先生は自らを「旧いタイプの教師」と話し出す。だけど、その実践は豊かなエピソードで綴られ、そこに見える信念と振り返り。真剣でありながら、丁寧に自省を交えて素直に語られている姿に学ぶ。
そういったエピソードで語られる実践を、哲学的視点から意味付けしていくのが苫野さん。哲学と繋げることで抽象化しているけれど、それは一人の実践の意図や意味が読者と共有できるということ。
丁寧な語りの中に、熱量のあるお二方の話にすいすい引き込まれていく。