心の進化を解明する ―バクテリアからバッハへ―

  • 青土社
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  • Amazon.co.jp ・本 (746ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784791770755

作品紹介・あらすじ

なぜ心は存在するに至ったのか。デネット理論の集大成。
原始的生物であるバクテリアから、やがて天才的作曲家バッハの創造性に至るまで。人間の心はどれほど進化してきたのか。これからどんな進化を遂げるのか――。ダーウィニズム、チューリングの計算機理論を鍵として、人間の心(=知的デザイン)の歴史をたどり、わたしたちの心に関する理解をひっくり返す! 『ダーウィンの危険な思想』『解明される意識』を上書きする、哲学者ダニエル・デネットの新たな代表作。

感想・レビュー・書評

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  • この分野での重鎮ダニエル・デネットによる、心・意識に関する彼自身のこれまでの思索の総まとめを目指した本である。デネットの著作は本書でも友人として触れられているダグラス・ホフスタッターとの共著『メタマジック・ゲーム』以来だが、『解明される意識』などぜひとも読んでみないと思っている著作が多い。「バクテリアからバッハまで」という副題が付いているが、ダグラス・ホフスタッターの名著『ゲーデル・エッシャー・バッハ』を意識したものに違いない。

    本書では「バクテリアからバッハまで」という副題が示す通り「心」を進化によって獲得された形質として論じている。その結論は、「心」に対してわれわれが持っている直観的な理解とは異なるものである、と最初に断っている。

    「この旅におもむく者はみな、いくつかのかけがえのない直観を放棄することを求められる。だが私は最終的に、それらの「明白な真理」なるものを放棄する行為を、単に我慢できるものにするのみならず、喜ばしいものにすら変えてしまえるやり方を見いだしたと考えている──そのやり方は読者のみなさんの頭をある意味でさかさまにして、現在進行中の事柄に対する、はっとするような新しい見方の数々を生み出す。しかし〔その代わり〕多くの人々が大事に愛しんでいるいくつかの考え方を、思いきって捨て去ってもらわねばならないことになる」

    実際には、この話題についての議論を追いかけているものにとっては、そのさかさまの見方はすでに親しみ深いものですらあるのではないだろうか。
    著者の意気込みは次の記載からもにじみ出る。

    「私は半世紀にわたる私の学者生活の全期間をこのプロジェクトに捧げてきた。そのために何ダースもの本と何百もの論文を書き、例の難問のさまざまな断片に取り組んだのだが、大多数の読者は用心深い不可知論に閉じこもったままで、彼らに穏やかな確信を与えるには至らなかった。私は本書で、めげずに再度それに挑み、今度こそすべての物語を語り尽くすつもりだ」

    魂やクオリアといったものを持ち出して、それを語りえぬものとして安全圏に置くのではなく、あくまでも進化と物理現象の結果としての意識を解明するというのがデネットの基本戦略である。この戦略は、fMRIなど脳神経科学における有用なツールを手にすることができた現在の多くの科学者や哲学者にも共有されているようにも思われる。
    デネットが次のように書くとき、そこにユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』の主張との同時代的な共鳴を見て取ることができる。

    「進化とはアルゴリズム的な過程であると論じた。つまり進化とは複数のふるい分けアルゴリズムの集積体であり、このアルゴリズム自身が複数の生成-テスト・アルゴリズムから組織されている。各々のアルゴリズムは生成の段階と、無精神的に進むある種の品質管理テストの段階においてランダム性(擬似ランダム性つまりカオス)を利用し、結果としてより多く子孫を残すトーナメント戦の勝者が出てくるのである」

    実際に、『ホモ・デウス』の中で著者のユヴァル・ノア・ハラリは、「科学者のなかには、ダニエル・デネットやスタニスラス・ドゥアンヌのように、脳の活動を研究すれば、主観的経験を持ち出さなくても、関連する疑問にはすべて答えられると主張する人もいる。だから科学者は、「心」「意識」「主観的経験」といった言葉を安心して自分たちの語彙や論文から削除できるというわけだ」という形でデネットの名前を取り上げている。

    また「ダーウィンとチューリングは共に、人間の心にとって真に心休まらぬものを発見したのである──すなわち理解力なき有能性という発見を」という主張は、ノア・ハラリの「科学革命によって人間は力と引き換えに意味を放棄した」という主張と重なる部分が多い。

    本書を理解するにあたっては、「無意識」についての通念上の印象も変えておく必要があるだろう。「無意識」というものは、一般の人が感じている以上にその生物である人間の行動に対する貢献度は大きく、むしろ主従関係においては主にあたるものであるとも解釈されるべきである。この点は、トーレ・ノーレットランダーシュの『ユーザーイリュージョン』などで論じられているように、いったんそのように理解をするともはやそれ以前にそう考えていなかったのが不思議であると感じられるほどであり、科学者の中では諸々の意見はありつつ大枠のコンセンサスになっているように思われる。なお、本書の中で、デネットは『ユーザーイリュージョン』と同年の1991年に出版した自著『解明される意識』で同じように意識はユーザーイリュージョンであるという説を偶然に独立して打ち出したと注釈を入れている。また同じ箇所で、類似した考えは、コスリン、ミンスキー、エーデルマンがすでにそれ以前に表明しているとも書いている。

    「無意識の心とは、もはや「語義矛盾」ではない。むしろ意識する心こそが、明らかにあらゆる問題の根源なのだ。現在提起されている難問は「意識とは(それが何かのためにあるとして)何のためにあるのか?」なのであり、無意識的な過程が知覚と制御に関わるすべての認知的作業を果たすほどに十分有能なのだとしたら、その問いこそが難問となるのである」

    デネットが心の解明において、『ユーザーイリュージョン』でも着目されたように情報理論との関係性を援用しようとしていることは、脳を情報処理を行う器官として定義した上で、われわれを「情報食の生き物(informavores)」とし、シャノンの情報理論を持ち出して、さらにジュリオ・トノーニの統合情報理論に言及することからも理解することができる。

    「私が理解する限り、トノーニの理論は何らかのデジタル的な、ただし二進数によるものである必要のないエンコードのシステムを前提している。というのも、その理論は出力可能な状態の計数可能なレパートリーを含んでいるからである」

    脳の活動に関しても、情報理論的に次のように解釈を進める。
    「脳の活動として最も驚異的な部類に属する活動には、(おおむね)直列型のものが多い。すなわち、いわゆる意識の流れの中で、観念、概念、思考が浮動するような活動がそうである。のような活動は一系列の流れをなしているからではなく、むしろある種の〈フォン・ノイマンのボトルネック〉のゆえに、直列型になっている。並列型のアーキテクチャの上でバーチャルな直列型マシンをシミュレートすることは可能であるし──『解明される意識』で示したように、脳はまさにこれをやっている──、直列型のマシンの上にバーチャルな並列型マシンを実装することも可能であり、そこでの並列処理の幅〔並列される処理の数〕は、動作速度を犠牲にすれば、いくらでも広くする〔数を増やす〕ことができる。」

    本書では「有能性 (Competence)」や「浮遊理由 (Freefloating Rationals)」といった用語が使われるが、これらの概念をまず理解することが「理解力なき有能性 (Competence without Comprehension)」という主題を理解する上で重要である。その有能性がわれわれと同じようには意識を持たないとされるバクテリアのような微生物から有しており、進化の過程により得られたものである。
    「動物、植物、さらには微生物すらも、彼らの環境のアフォーダンスに適切に対処できるような有能性を備えている。これらの有能性のすべてについて浮遊理由が存在しているが、しかし生物はその浮遊理由から利益を得るために、それを評価したり理解したりする必要はないし、それを意識する必要もない。より複雑な行動を行う動物においては、彼らが示す多能性と可変性の度合いに応じて、彼らにある種の行動的理解力を正当に帰属させることができるが、ただしそれは私たちが理解力というものを、ある種の独立独歩の才能であり、有能性の顕れではなく有能性の源なのだ、と考えてしまう誤りを犯さない限りにおいてである」

    「理解力なき有能性」という概念を理解すると「意識」や「自由意志」についても新たな観点が得られる -「意識は存在する。ただそれは、一部の一般人がこうだと思っているものではないというだけだ。そして自由意志も存在する。ただしまたもやそれは、多くの人々がこうでなければならないと思っているものではない」のであるし、「意識とは非物理的な現象ではないし、自由意志は因果関係から切り離された現象ではない」のである。

    本書では、言語やミームについても詳しく述べられている。なぜなら言語が、人の心を他の生物から異なるか形で今あるようにしている原因であるからである。デネットは、「言語が現れて以来すべてが変化した、ということはもう分かっている」と書く。そして、言語は進化とともに人間が得たものである - 「言語が脳に適するように進化する方が先で、脳が言語により一層適合すべく進化したのはその後だということである」
    さらに言うと、人間が言語によって今あるような「意識」を獲得するまでには、その途中においては、今とは違う形で語を感知していた可能性がある。「祖先たちは、ある最小限の意味で語に気づくことはしていた ー つまり、エレベーターと同じように、語を知覚的に感知し、語によって異なった反応をとっていた - であろうが、しかし、自分が気づいていることに気づくことをしていなかったであろう」。意識も進化の結果であり、漸進的なものでありうる。この辺りの「祖先」をどこまでさかのぼるのかは人によっても異なっている。『神々の沈黙』でジュリアン・ジェインズは古代エジプトの人々は、われわれと同じようには意識や自由意志に気づいてはいなかったと論じている。いずれにせよ、言葉も当初は理解力なき有能性によって進化の過程で得られたものであるということだ。

    「厄介ごとにぶつかると単純な問いを発する、という習慣を獲得した祖先たちが、時に自分以外の誰も聞き手がいない場合ですが、自分が求めている回答を自ら発見する、という営みを発見したという想像を提起した。この想像上の祖先は、自分自身の問いかけに自分自身で回答することを見いだしたことになる、これは<自分自身に向かって話しかける>という活動の発明であり、そこからは直ちにに利益が得られる - 同時に、直ちにその価値が認識される」

    「私たちは自分の用いる語のほとんどすべてを無意識的に獲得する - 無意識的にとはすなわち、幼少期に一日七語ずつ新しい語を習得したことを自覚しておらず、またほとんどの語 - つまり明示的な導入を経ずに学んだ語 - については、その後に関するそれ以前の経験にパターンを発見する、という無意識的過程の働きで、もっぱら漸進的にその後の意味に接近していったということだ。私たちはひとたび語を有してしまうと、その後を使用し始めるが、その際必ずしも自分が何をしているのかに気づいているとは限らない」

    語の説明を経た後に書かれている次の文を読めば、われわれがこれまで私として認識していたものの根拠が少し崩れてくるような感覚を得ることができる。
    「私たちには、脳のある部分で「物事を知っている」のに、たとえそれが必要な場合でも、脳の別の部分からその知識にアクセスすることができないこともありうる、ということに気づけば、これらの逆説の気配は解消する。自分自身に話しかけるという習慣は、新しいコミュニケーションの経路を創り出すのであり、それによって、場合によっては隠された知識を探り当て、明るみに出すこともありうるのだ」

    さらに改めてデネットは、意識が「ユーザーイリュージョン」であることを強調する。
    「ここで興味深いのは、私たち自身の心に対する、私たちの一人称的な観点が、他者の心に対する、私たちの二人称的な観点とそれほど違ってはいない、ということだ ...(略) ... <私たちであるとはどのような感じのことか>の説明は以上である。私たちは他者について、彼らが何を言っているのかを、彼らの言葉を聞いたり読んだりすることによって知るようになる。そして私たちが自分自身について知るようになる仕方は、これと全く同じだ、というのがその説明である」

    次の主張は、ノーレットランダーシュ『ユーザーイリュージョン』での主張と驚くほど似ている。
    「私たちは、意識と言う非常に狭く、大幅な編集を受けた経路に依存せざるをえないのであり、この経路は、私たちの絶え間ない好奇心と、ユーザーフレンドリーな報告に対して反応し、家族や友人が思い抱く<本当の私>へのアクセスよりも、ほんの一歩だけ<本当の私>に近い」

    それでも意識というものが、「理解力なき有能性」を通して得られるということが信じられない場合には、次の規則を思い出すべきだろう。- 「現在私たちはオーゲルの第二規則、すなわち「進化は君よりも賢い」の真価を知り、その法則を利用するようになり始めている」

    最後にデネットは人工知能の将来についても、自らの持論を次のように展開している。「ディープラーニングが、近年、警戒心のこもった注目を大いに集めつつある「超人的知性[知能]」の類を - 今後五十年間は - もたらすことはないというのが、(今なお)私の見解である」。一種のバズワードとしてのシンギュラリティの熱がやや冷めているようにも思える昨今では、デネットの主張の方が多数派であるようにも感じられる。

    「自然選択による進化が無精神的に見つけだすのは、理由づける者なき諸理由(Reasons without Reasoners)、すなわり浮遊理由 (Freefloating Rationals)であり、それらの理由が、生物はなぜこのような在り方をしているのかを部分的に説明する。この説明は、「いかにして生じたのか?」および「何のためにあるのか?」という二つの問いに共に答える説明である。まずダーウィンが、自然選択の過程そのものの中で働く、理解力なき有能性の最初の偉大な例を提供した。次にチューリングの奇妙な推理の逆転がもう一つの例を提供し、理解力なき有能性の別の変種の可能性を探究するための作業台となった。その第二の例こそコンピュータである。それはかつてその名で呼ばれていた人間の行為者たちとは異なり、自らが極めて有能に利用する技法を、理解している必要がない存在である」

    もちろん、そのことは人間が築く文化が、自然選択による進化の制約を超えて、進化することとなったことを否定するものではない。「文化進化は、それ自身の果実によって自らを脱ダーウィン化したのだ」

    デネットは本書を終わるにあたり、共進化という概念を持ち出してこう語る。
    「現在存在しているのはミームと遺伝子の共進化だけではない。それに対応する、私たちの心のトップダウン式の理由付けの能力と、私たちの動物的な脳のボトムアップ式の理解力なしの才能との共進化もまた存在している」

    自分はデネットがここに書いたことに関して、彼が意図した「穏やかな確信」をあるレベルでは持つことができたように思う。「多くの人々が大事に愛しんでいるいくつかの考え方を、思いきって捨て去ってもらわねばならない」としていたが、それはもしそう言うことが許されるのであれば、デネットがいう「いくつかの考え方」のいくばくかは、自分の中ではすでになくなっていたのかもしれない。一般書に書かれるレベルのものではあるが、多くの研究がその方向をいまや示しているように思うのだ。


    早くダニエル・デネットの『解明される意識』含めた過去の著作を電子書籍化してほしい...。



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    『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4314009241
    『ホモ・デウス 上: テクノロジーとサピエンスの未来』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4309227368
    『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』のレビュー
    https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4314009780

  • 読書の時間が満員電車で吊革につかまりながらの1時間に限られるため、購入した直後は「本当に俺こんな本読むんかいな」と後悔しきりだった。なにせ訳注含め700ページ長のハードカバー、片手で持つのはもはや苦行の領域。しかし額に汗し、行きつ戻りつ読み進め何とか最後までたどり着いた今は、ここ数年で最大の読書的果実を味わえたとの意が強い。

    本書の目論見の一つは、デカルト的二元論に引き裂かれた我々の意識に対する認識を再びブリッジしよう、というもの。そこに至るまでに読者は幾つもの大きな認識の転回を経験することになる。まずダーウィンの自然選択とテューリングのコンピュータから抽出される「理解力なき有能性」という逆説めいた概念。さらに非知性的なダーウィン的進化の過程そのものが、ダーウィン的自然選択を受けた結果として「脱ダーウィン化=トップダウン式知的デザイン」に至るという倒置。そしてその知的デザイナーが用いる思考道具(e.g. 機械学習)により、再びボトムアップ的なアルゴリズムを用いてダーウィニズムへの回帰がなされるという循環。著者によれば本書には「三つの転回」があるとされているが、私にとっては「え、本当に三つだけだっけ?」と思えるほど、自分の認識が大きくひっくり返されることの連続だった。「鶏が先か卵が先か」の議論、例えば「言語」と「文化」になると必ず「共進化」の概念が出てくるあたり、やや御都合主義的な香りがしなくもなかったが、個人的には自然選択そのものが自然選択的過程の中にあるというマンデルブロー的な構造の連環に、目眩のするような美しさを感じた。

    終章の「私たちの旅は(中略)長く入り組んだ旅程だった。でくわした地域の一部は哲学者が滅多に旅しない場所であり、また別の地域は、哲学者がたむろしているが、典型的な科学者は避けて通る場所であった」という言葉が、本書の扱う領域の特異性とスリリングさをよく表している。なにせ、この過程で言及される、いわゆる伝統的な哲学者はデカルトとヒュームくらい。引用される学術的成果は言語学、コンピュータ科学、生物心理学、進化心理学など多岐にわたっており、これだけを見てもいかに著者の扱う領域が横断的であるかが理解できる。

    理論は一部混み入っており難解な部分があるのは間違いないが、それでも私がなんとか読み進めることができたのはこの本のユーザー・フレンドリネスによるところが大きい。まず新奇性の高い概念が導入される場合、必ず直後に親しみやすく平易な事例が掲出されるのがありがたい。著者の語り口にも高踏的なところがなく、語りかけるような文体が読む者を勇気づけてくれる。さらに翻訳者の技量と親切さを忘れてはならないだろう。巻末の膨大な訳注では訳語選択の理由が丁寧に記述されており、相当に理解の助けになった。訳文も全く不自然なところがなく、途中から翻訳であることを完全に忘れることができる。入試の現代文の問題に最適なのではと思う。

    「志向的構え」「浮動理由」「外見的イメージ」…。デネット独自の取っつきにくい用語満載の本書だが、予備知識もなく理解もせぬまま読み進んでも、大量の曝露を受けるうち不思議なことにこれらの用語の意味をある程度了解できていることに「後から」気づく。これもある意味、デネットのいう「理解力なき有能性」「リバースエンジニアリング」の顕現の一つなのかも?

  • ふむ

  • いつものデネットの本といったかんじ。内容は個別には知っているようなことや、まぁそうだね、といったことで新しさはそれほどない。まぁ、このあたりはデネットに思想的に近いためか?
    本としては、少し散漫で、解明される意識や、自由は進化するを読んだ時のような楽しさ(感激?)がなかったのが残念。

  • 人間が有史以来考え続けてきた問題の一つに、心とは何か、という命題がある。
    ヨーロッパでは、デカルトが心と身体を分けて捉え始めたことで、近代の幕が上がったと言う。
    21世紀となった今、人工知能の技術が著しく進歩してきたことで、改めて心の問題を扱った言説や書籍が目に付くようになってきたと思う。

    脳科学の分野では、いくつかの方向性で研究が進んでいるが、工学寄りの研究は、脳のニューロンの構造をリバースエンジニアリングしようという試みが進められているようだ。
    要は、脳活動は電気信号の集積であるから、ニューロンのつながりを再現すれば、脳活動すなわち記憶や思考を移植できるのではないか、というもの。
    脳活動を非侵襲でスキャニングしようという研究はかなり進んできていて、その人の見たイメージを再現できるところまできている。
    こういったアプローチは、人工知能がいずれ本当の知能・自我を持つ日が近いのではないか、という危機感をあおる一端ともなっているのは否めないし、中には(無責任にも)そのような可能性を吹聴する専門家もいる。

    しかしながら、そういった考えは、もう一方の認知科学のサイドでは少数意見として扱われているように見える。
    デカルトの二元論にあまりに固執しすぎた見方であり、二元論が限界を見せているという事例が科学のいたるところで見られつつあるということからも、安直すぎると言えなかろうか。

    認知科学の大家であるダマシオは、次のように語る。

    「心は、ホメオスタシスの指令のもとで実行される、神経系と、それに関連する身体部位の協同作戦によって複雑な形態で出現し、あらゆる細胞、組織、器官、システム、さらには各人におけるそれらのグローバルな表現のなかに顕現する。意識は生命活動に関連する相互作用の連鎖から生じる。」

    ダマシオは、生命活動の基となっている摂理として「ホメオスタシス」を重視している。
    このホメオスタシスに則って、現時点で進化の行きついているところが、神経系とそれ以外の器官との相互作用によるイメージ・主観の発生と、結果としての心である。
    逆に言えば、心=神経系だけでは心は生まれようもない、生まれる必然がないというのだ。
    本書は、心の起源について語るとともに、一貫してホメオスタシスが生命に通底していることに触れており、その点がとても興味深かった。AI隆盛の現代で読むべき良書だと思う。

    一方、後半の文化に関する記述は、まだ生煮えな印象も受けた。こちらは先日読んだ「心の進化を解明する」のミーム論の方が面白く読めた。

  • 本題と全く違う内容で、心は解明されていない。

  • 長谷川眞理子2018年の3冊
    哲学者が、意識、自意識がどこから生まれたかを論じた好著。

  • 人間がなぜ他の生物と異なり,高度な知性,すなわち理解力とデザイン力を獲得するに至ったかを,主に進化生物学の視点で概観した大著.著者の専門は哲学で,内容として難解な部分もあるが,話の基盤となる進化生物学に加えて,計算機科学などの知見も交えて,知的好奇心をくすぐる内容になっている.20世紀後半以来の計算機科学の目覚ましい発展によって,機構全体を構成する個々の要素は単純極まるものでありながらも,それが組み合わさることにより,高度な処理を行えることが示され,これは進化論における大きな間隙であった,設計者なき世界で知性の発達が可能か否かの議論にも影響を与えた.しかし実際のところ脳は個々のニューロンそれ自体が生物として,自身の適応を第一として活動するものの総体というボトムアップ型の組織である一方,コンピュータはすべての構成部品が画一的で,上からの統制により全てが制御されるトップダウン型の組織である.著者の考えるところでは,脳それ自体はヒトの進化の初期には今日のような理解力を獲得していなかったが,言語の登場によりミームがヒトの脳を媒介として,結果ヒトとミームの共進化が進んで,ヒトが自省能力や,他者との適応的戦略の共有能力を獲得し,ダーウィン的な進化のスピードが飛躍的に向上して,今日あるトップダウン的理解力に達したとする.本書ではヒトの高度な知性の唯一性を主張しているが,一連の主張はどちらかというとヒト以外の生物に見られる,「賢い」挙動に対して,当事者の理解力や知性を帰属させる試みを戒め,それらが「理解力なき有能性」により獲得されたものと説明できることを,むしろ事あるごとに強調している.同時に,ここまでは知性・意識でそこから先はそうでない,といった線引きが,実際の進化過程が漸進的なものであることから,ナンセンスであることも,併せて強調されている.全体として非常に興味深かったが,結局なぜ人間だけが言語を獲得できたかという部分に関しての理解は今ひとつ進まず.ミームや進化に関する別の本を読んでからもう一度読み直したい.最後に,訳や注が非常に丁寧なのは良かった.和訳というより,原著を注釈つきで読んでいるような感覚で,内容の理解が進んだ.

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著者プロフィール

Daniel C. Dennett
1942年生まれ。1965年、オックスフォード大学より哲学博士号取得。現在、タフツ大学名誉特任教授・同大学認知科学研究センター所長。現代英語圏を代表する哲学者の一人。著書も多く、近著としてIntuition Pumps and Other Tools for Thinking, 2013(『思考の技法――直観ポンプと77の思考術』)、From Bacteria to Bach and Back: The Evolution of Minds, 2017(『心の進化を解明する――バクテリアからバッハへ』)などがある。

「2020年 『自由の余地』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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