虞美人草 [Kindle]

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  • 2012年9月27日発売
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感想・レビュー・書評

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    どんな話だったか確かめようと思ってページを開いて驚いた。全然記憶にない。ということは、今まで読んだことがない。タイトルがあんまり馴染んでしまっていたので、読んだことがあるとばかり思い込んでいた。そんなわけで、この話も機会を見つけてちびちび読もうと思う。

    文章の手触りが、自分の馴染んでいる漱石から遠いようにも思う。デビュー作のようだから、漱石自身、まだ自分の文体に馴染んでいなかったのかもしれない。

  • 夏目漱石の小説は小中学校の国語の教科書で取り上げられている小説のように口語調で書かれたものばかりではない。「草枕」や本書のように文語調で書かれたものもある。これまでに読んだ文語調で書かれた漱石の小説は、理解できない言葉や文章に少なからず出くわし、ひっかかりひっかかり読み進めなければならない。それでも、会話と会話の間の登場人物の心理戦、自然、世俗、人物像の描写がとても面白い。この小説では会話における心理戦の描写と、「Aはイである。Bはロである。Cはハである」のフォーマットを繰り返し適用した世俗の描写が卓越している。Kindleでマーカーを引いたところ数知れずである。

    本にはいろいろな楽しみ方があると思う。ストーリーを楽しむもの。僕はシャーロックホームズシリーズや山崎豊子の小説が好きだ。次に表現の美しさを楽しむもの。川端康成や夏目漱石の小説がいい。そしてストーリーと表現が一体となって作り出す世界観を楽しむもの。安部公房、江戸川乱歩(探偵物も書いているが奇怪・変態物がいい)、太宰治などを僕は愛読している。村上春樹は最近の性的描写が前面に出る傾向が受け入れられなくて読むのをやめてしまった。

    「虞美人草」は美しい文が散りばめられた上に哲学・思想的会話が挿入され、更に会話と会話の間に心理戦が繰り広げられる。朝日新聞に連載していたということもあろう、即興の落語のようにこれらが繰り返されて最後の「オチ」でちょこっとした変化をつけてストーリーがようやく形づくられる。だからストーリーの印象は弱く、ストーリーからメッセージを読み取ることは難しい。途中の文章の中に共通して繰り返し繰り返し出て来る何かにメッセージが隠れているのかもしれない。その何かは分からないが、部分部分を味わうだけでも僕には十分であった。

  • 百折れ千折れ(ももおれちおれ)

  • 今年最初の本はこれ~~。夏目漱石の処女作。
    すげ~~。初めて書いたとは思えない出来。さっすが文豪は出だしから違うのねぇ。
    まぁ、前半はちょっと難しい文体で書かれてて、後半になると読みやすくなるのは、まぁいいとして。。。

    藤尾親子の計画的乗っ取りよりも、小野って男はほんといい加減な奴だなぁと思った。小野さえしっかりと小夜子だけみていたら、こんな騒動は起こらなかったのにねー。
    私だったら宗近を選ぶけどね~。
    でも最後は一応めでたく終わって良かった!

    読んでて、人生の指針みたいな事がいっぱい書かれてて、新年早々、頭を使ったわぁ。

  • 「虞美人草」(夏目漱石)を読んだ。これはまだ読んでなかったんだよな。『大仰な』といえば言える文体ではあるけれど、まあ何と言っても百年前の小説だから。それに会話の部分はさすが漱石だし。筋書そのものはそんなに奇抜ではなくむしろ普遍的な感じではあるけれど、面白かったし、私としては好き。

  • 家父長制に自分なりのやり方で挑み敗れた藤尾よ

  • 悪女が怖い作品と聞いていたが、通して感じたことは、小野の方がよほど悪い。当時はこれで良しとされていたのだろうか?今では藤尾や義母のような考え方はする人はいるだろうと思う。だからこそ、そのギャップが面白い。宗近がいなければ、この作品はどのような顛末を迎えていただろうか。「真面目」を語る下りは私自身の心を打つものでもあった。「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ」「真面目と云うのはね、僕に云わせると、つまり実行の二字に帰着するのだ」素敵な言葉だと思う。年に一度くらいは、真面目にならなければ。


  • 一,
    「知らぬ間に堕落したり、知らぬ間に悟つたりするのと同じ様なものだらう。」

    反吐は地面の上へ吐くものである。大空に向ふ彼の眼中には、地を離れ、俗を離れ、古今の世を離れて万里の天があるのみである。

    生きてあらんほどの自覚に、生きて受くべき有耶無耶の累を捨てたるは、雲の岫を出で、空の朝な夕なを変はると同じく、凡ての拘泥を超絶したる活気である。古今来を空しうして、東西位を尽くしたる世界のほかなる世界に片足を踏み込んでこそ——それでなければ化石になりたい。
    元の五彩に還す事を知らぬ真黒な化石になりたい。それでなければ死んで見たい。死は万事の終である。また万事の始めである。時を積んで日となすとも、日を積んで月となすとも、月を積んで年となすとも、詮ずるに凡てを積んで墓となすに過ぎぬ。墓の此方側なる凡てのいさくさは、肉一重の垣に隔てられた因果に、枯れ果てたる骸骨に入らぬ情けの油を注して、要なき屍に長夜の踊をおどらしむる滑稽である。遐なる心を持てるものは、遐なる国をこそ慕へ。

    三,
    下京も上京もしめやかに濡れて、三十六峰の翠りの底に、音は友禅の紅を溶いて、菜の花に注ぐ流のみである。
    鬼の出る羅生門に、鬼が来ずなつてから、門もいつの代にか取り毀たれた。綱が捥ぎとつた腕の行末は誰にも分からぬ。只昔しながらの春雨が降る。寺町では寺に降り、三条では橋に降り、祇園では桜に降り、金閣寺では松に降る。

    「宇宙は謎である。謎を解くは人々の勝手である。勝手に解いて、勝手に落ち付くものは幸福である。疑へば親さへ謎である。兄弟さへ謎である。妻も子も、かく観ずる自分さへも謎である。」

    「何物かを此奥に捕へたる時、形も声も悉く新らしき形と声になる。是が象徴である。象徴とは本来空の不可思議を眼に見、耳に聴く為めの方便である。……」

    毛筋程な細い管を通して、捕へがたい情けの波が、心の底から辛うじて流れ出して、ちらりと浮世の日に影を宿したのである。往来に転がつてゐる表情とは違ふ。首を出して、浮世だなと気が付けばすぐ奥の院へ引き返す。引き返す前に、捕まへた人が勝ちである。捕まへ損なへば生涯甲野さんを知る事は出来ぬ。
    甲野さんの笑は薄く、柔らかに、寧ろ冷やかである。其大人しいうちに、其速かなるうちに、其消えて行くうちに、甲野さんの一生は明かに描き出されてゐる。

    四,
    世界は色の世界である、形は色の残骸である。残骸を論つて中味の旨きを解せぬものは、方円の器に拘はつて、盛り上る酒の泡をどう片付て然るべきかを知らぬ男である。いかに見極めても皿は食はれぬ。唇を着けぬ酒は気が抜ける。形式の人は、底のない道義の盃を抱いて、路頭に跼蹐してゐる。

    五,
    「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本は矢っ張り人間にあるのさ。瀬を下つて壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」

    七,
    人の過去は人と犬と木と草との区別がつかぬ様になつて始めて真の過去となる。恋々たるわれを、つれなく見捨て去る当時に未練があればあるほど、人も犬も草も木も滅茶苦茶である。

    八,
    観ずるものは見ず。昔しの人は想こそ無上なれと説いた。逝く水は日夜を捨てざるを、徒らに真と書き、真と書いて、去る波の今書いた真を今載せて杳然と去るを思はぬが世の常である。堂に法華と云ひ、石に仏足と云ひ、橖に相輪と云ひ、院に浄土と云ふも、たゞ名と年と歴史を記して吾事畢ると思ふは屍を抱いて活ける人を髣髴する様なものである。見るは名あるが為めではない。観ずるは見るが為めではない。太上は形を離れて普遍の念に入る。

    九,
    ちりちりに降る霜に、冬は果てしなく続くなかに、細い命を朝夕に頼み少なく繋なぐ。冬は五年の長きを厭はず。淋しき花は寒い夜を抜け出でゝ、紅緑に貧を知らぬ春の天下に紛れ込んだ。

    十二,
    心臓の扉を黄金の鎚に敲いて、青春の盃に恋の血潮を盛る。飲まずと口を背けるものは片輪である。月傾いて山を慕ひ、人老いて妄りに道を説く。若き空には星の乱れ、若き地には花吹雪、一年を重ねて二十に至つて愛の神は今が盛である。

    十五,
    親父の事を思ひ出す度に、親父に気の毒になる。今の身と、今の心は自分にさへ気の毒である。実世界に住むとは、名許の衣と住と食とを貪る丈で、頭は外の国に、母も妹も忘れゝばこそ、斯う生きても居る。実世界の地面から、踵を上げる事を解し得ぬ利害の人の眼に見たら、定めし馬鹿の骨頂だらう。自分は自分に凡てを棄てる覚悟があるにもせよ、此体たらくを親父には見せ度ない。親父は只の人である。草葉の蔭で親父が見てゐたら、定めて不肖の子と思ふだらう。不肖の子は親父の事を思ひ出したくない。思ひ出せば気の毒になる。

    十七,
    「何時迄も浮世の鍋の中で、煮え切れずに居るのさ」
    甲野さんは茲に至つて始めて笑つた。

    「糸公は君の知己だよ。御叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なつても、日本中が悉く君に迫害を加へても、糸公丈は慥かだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を解してゐる。君の胸の中を知り抜いてゐる。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくつても堕落する気遣のない女だ。」

    十八,
    「世の中に真面目は、どんなものか一生知らずに済んで仕舞ふ人間が幾何もある。皮丈で生きて居る人間は、土丈で出来てゐる人形とさう違はない。真面目がなければだが、あるのに人形になるのは勿体ない。真面目になつた後は心持がいゝものだよ。君にさう云ふ経験があるかい」

    「なければ、一つなつて見給へ、今だ。こんな事は生涯に二度とは来ない。此機をはづすと、もう駄目だ。生涯真面目の味を知らずに死んで仕舞ふ。死ぬ迄むく犬の様にうろうろして不安許だ。人間は真面目になる機会が重なれば重なる程出来上つてくる。人間らしい気持がしてくる。——法螺ぢやない。自分で経験して見ないうちは分らない。」

    「真面目になれる程、自信力の出る事はない。真面目になれる程、腰が据る事はない。真面目になれる程、精神の存在を自覚する事はない。天地の前に自分が儼存して居ると云ふ観念は、真面目になつて始めて得られる自覚だ。真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。遣つ付ける意味だよ。遣つ付けなくつちや居られない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたつて真面目ぢやない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて始めて真面目になつた気持になる。安心する。
    人一人真面目になると当人が助かる許りぢやない。世の中が助かる。——どうだね、小野さん、僕の云ふ事は分らないかね」

    十九,
    「預想した悲劇を、為すが儘の発展に任せて、隻手をだに下さぬは、業深き人の所為に対して、隻手の無能なるを知るが故である。悲劇の偉大なるを知るが故である。悲劇の偉大なる勢力を味はゝしめて、三世に跨がる業を根柢から洗はんが為である。不親切な為ではない。隻手を挙ぐれば隻手を失ひ、一目を揺かせば一目を眇す。
    悲劇は喜劇より偉大である。
    忽然として生を変じて死となすが故に偉大なのである。忘れたる死を不用意の際に点出するから偉大なのである。巫山戯たるものが急に襟を正すから偉大なのである。襟を正して道義の必要を今更の如く感ずるから偉大なのである。人生の第一義は道義にありとの命題を脳裏に樹立するが故に偉大なのである。道義の運行は悲劇に際会して始めて渋滞せざるが故に偉大なのである。道義の実践はこれを人に望む事切なるにも拘はらず、われの尤も難しとする所である。悲劇は個人をして此実践を敢てせしむるが為に偉大である。道義の実践は他人に尤も便宜にして、自己に尤も不利益である。人々力を茲に致すとき、一般の幸福を促がして、社会を真正の文明に導くが故に、悲劇は偉大である。
    粟か米か、是は喜劇である。工か商か、是も喜劇である。あの女かこの女か、是も喜劇である。英語か独乙語か、是も喜劇である。凡てが喜劇である。最後に一つの問題が残る。
    生か死か。是が悲劇である。
    十年は三千六百日である。普通の人が朝から晩に至つて身心を労する問題は皆喜劇である。三千六百日を通して喜劇を演ずるものは遂に悲劇を忘れる。如何にして生を解釈せんかの問題に煩悶して、死の一字を念頭に置かなくなる。この生とあの生との取捨に忙がしきが故に生と死との最大問題を閑却する。
    道義に重を置かざる万人は、道義を犠牲にしてあらゆる喜劇を演じて得意である。巫山戯る。騒ぐ。欺く。嘲弄する。馬鹿にする。踏む。蹴る。——悉く万人が喜劇より受くる快楽である。此快楽は生に向つて進むに従つて分化発展するが故に——此快楽は道義を犠牲にして始めて享受し得るが故に——喜劇の進歩は底止する所を知らずして、道義の観念は日を追ふて下る。
    道義の観念が極度に衰へて、生を欲する万人の社会を満足に維持しがたき時、悲劇は突然として起る。是に於て万人の眼は悉く自己の出立点に向ふ。始めて生の隣に死が住む事を知る。妄りに踊り狂ふとき、人をして生の境を踏み外して、死の圜内に入らしむる事を知る。人もわれも尤も忌み嫌へる死は、遂に忘る可からざる永劫の陥穽なる事を知る。陥穽の周囲に朽ちかゝる道義の縄は妄りに飛び超ゆべからざるを知る。縄は新たに張らねばならぬを知る。第二義以下の活動の無意味なる事を知る。而して始めて悲劇の偉大なるを悟る。……」

    「此処では喜劇ばかり流行る」

  • 読了

  • 面白かった〜!
    小野さん、おいおい。
    義母さん、あなたが悪い。
    宗近君、かっこよすぎ。糸子さんも素敵。

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著者プロフィール

1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)にて誕生。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表。翌年、『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。

「2021年 『夏目漱石大活字本シリーズ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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