不思議・猥雑・エキセントリック。
ぬらりひょんのような男がやって来る、ヤァ!ヤァ!ヤァ!
この作品を私は京都の大学2回生だった頃、アパートでバイト帰りの夜食を食べている時にたまたま点けたテレビで見た。
優れた作品に出会えるか、ということは重要だが、いつ出会うかということはさらに重要だ。
(72歳の秋ではなく中2の冬に銀杏BOYZがデビューしてくれて本当に良かった。というように。)
大学の空気感のリアルな描写、京都の街並みのニクイ切り取り方など私にとっては身近なドキュメンタリーと呼んで差し支えなかった。
そして湯浅政明、中村佑介、アジアンカンフージェネレーションのトロイカ体制。
藤田監督・王助監督・牧野コーチもびっくりだ。
わくわくしないわけがない。
この作品に関しては様々なすばらしい考察をされている方々がいるので、それに関しては私は戦略的撤退の道を選ぶ!
というわけで、私のこの作品の好きなところについて3つ挙げようと思う。
1、主人公がループしてることに気付いていない
この作品をループものに分類してもいいかは、賛否が分かれるところであろうが(並行世界という考え方もできる)
・1話ごとに最後に時計が戻る
・「おれたち、こんな会話を以前にもしてなかったか?」という台詞
・おばばの占い料金が上がっていく。
という観点からやはりループものという前提で話を進める。
私は基本的にループもの、タイムスリップものに目がなく、そのような作品には警察官のノンキャリアに対するキャリア組の階級の違いのように、★4からスタートや!という謎の下駄を履かせてしまうくらい好きのだが、それがこの作品を楽しむ上での更なるフリになっていた。
まず、「私」は「タイムリープ」したことに気付いていない。(気づけや!)
記憶がリライト、、失礼、アジカン違いだ——ではなく、リセットされている。
古今東西の作品を検証すればこういう設定はいくつかあるのかもしれないが私は初めのケースだったので斬新だった。
そのためいつも「私」が新鮮な気持ちで同じような不毛な過ちを繰り返してしまう様子が滑稽でおもしろい。
「タイムリープしてもまったく活かせてねぇじゃねぇか!」というツッコミは野暮だ。
お笑いでいう天丼のおもしろさ。
これはある意味フェアだよね?(永ちゃん)
私たちは「あーこんなことにならあの頃に戻ってやり直したいわぁー」などと言うが、「今の記憶を維持したままで」という前提がある。記憶を消した状態であの頃に戻り、違う道を選択した上で選ばなかった選択肢(本当は初回に選んだ選択肢)を選んでいたら得られたものに想いを馳せて憂鬱になる可能性がなければ本来フェアではない!(私は何に怒っているのか)
2、主人公のタイムリープを願う動機が不毛
また、「薔薇色のキャンパスライフ」という漠然とした目標のために過去に戻れたら、と願い本当に戻ってしまう阿呆らしさがいい。
プロポーズ大作戦(ドラマ)、僕だけがいない街(アニメ)、時をかける少女(平成版アニメ映画)などのループものの主人公にはタイムリープを使わなければならない必然性(殺人を未然に防ぐ等)があるのに対して、「私」にはそれがない。そこがいい。
そのため、ループものにありがちな「切迫感」「重さ」がない。トラブルには巻きこまれるもののなんやかんやで楽しそうだ。
気楽にゲラゲラ笑って見られるループもの。これはコロンブスの卵である。
3、原作の良さをブラッシュアップしている
「変えるべきでないところは変えず、最低限原作の良さを損なわないところだけをエゴを出さずに変える」
こればかりは主観だが、これができていない実写のなんと多いことよ。(「デ●ルマン」から「ド●クエ」まで)
この作品はアニメ版の方が好きになった稀有な作品である。
原作は各話ごとに明石さんと結ばれてしまう、やや鼻につく構成なのだが、アニメ版では最終話のみ結ばれることでカタルシスがあり、ここは非常に良かった。
原作の特色であった「私」の古風で諧謔的な言い回しの独白は、ナレーションとして「私」の心の声という形で原作の言い回しをふんだんに使ってテンポの良さを生み出している。
また4話(原作)→11話(アニメ)になったことで各話を1つのサークルごとに掘り下げることができ、最終話がよりグッとくる構成になった。
いやぁ、四畳半主義者の会って本当にいいもんですね。
というわけで、長々と書いてしまった。
ちなみに私はこの作品に影響され、退廃的で文学的な生活様式に憧れたため、、ではなく、単に金がなかったので20代前半に本当に四畳半風呂なし共同トイレのボロアパートに住んでいた。
そこにはエアコンがなく冬は死にかけ、夏は殊更死にかけた。
ねずみやヤバイ住人や喘ぎ声、果ては幽霊まで見なくてもいい、聞かなくてもいい様々なものを見聞きした。
今は幸運なことにオートロックでエアコンが効いている部屋でぬくぬくと生活している。(あざます)
しかし、時折あの頃が無性に懐かしくなり、気がつくと「私」や小津に会いたくてこの作品に手をのばしてしまうのである。
責任者は何処か。