ルポ 誰が国語力を殺すのか (文春e-book) [Kindle]

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  • 小中高の現場を丹念に回って「近年教育業界を中心に湧き起こっている「読解力の低下」」の原因を探った書。「子供たちの国語力は本当に失われているのか。 だとしたら一体、誰が、何が、なぜ、国語力を殺したのか。 子供たちの国語力を回復させるには、どのような取り組みが必要なのか」。『AIVS 教科書が読めない子どもたち』と問題意識は共通する。

    その主な原因は、劣悪な家庭環境とのこと。親から虐待を受けていたり、育児放棄されていたり、ヤングケアラーだったり、外国人家庭の子だったり。これらの家庭では、「親が子供に対して話しかける言葉の量と質」が圧倒的に不足し、読書習慣もなく、無気力となり、友達もできず自発的な遊びもない。国語力がないと誤解が誤解を生み、頻繁に感情的に衝突し、トラブルが絶えない。或いは周囲にとけ込めず、不登校となり、引きこもり、ゲーム依存症となる。そしてこれらの家庭では、そもそも親にも国語力がないケースが多い(なので親にも道理が通じない)。

    確かに、深刻な社会問題だな。著者は、家庭が駄目なら学校(やフリースクール)が何とかするしかないというが…。救える子供もいるだろうが、家族ぐるみ駄目なら手の施しようがないよな。負のスパイラルに入ってしまっているのかな?

    著者の「家庭格差の下層にいる子供たち」、「家庭格差の上層にいる子供たち」という言い方、とても気になった。

  • 「ルポ 誰が国語力を殺すのか」読了。

    興味深いルポでした。

    世界の中でも、日本の子どもたちの「読解力」の低下は顕著らしい。世界の15歳児を対象に行われるPISAという学力テストで、数学的リテラシー、科学的リテラシーは上位にも関わらず、「読解力」は低迷しているとのこと。

    なぜ、日本の子どもたちの「読解力」が低下しているのか、ということをターゲットに、

    - 家庭環境
    - 教育現場
    - ネット環境

    の影響を見るために、教育現場での取材、学校での子どもたちの様子、自殺を選んでしまった子供の調査、先生方への取材、文科省の担当者への取材、不登校児をケアする施設への取材、ゲーム依存症の取材、少年院に入っている少年少女への取材、そして、国語力を伸ばすために工夫をしている小学校、中学校への取材など、数々の実例を含めて詳細なルポタージュでした。

    国語力(読解力)とは、「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」という四つの力の総合力。「国語の成績が悪い」というだけの問題ではない。

    国語力が劣っているということは、相手の立場に立って共感したり、自分で考え、それを表明すること、ができないということ。例えば「いじめ」に関しても、表現する能力が少ないためにぞんざいな言葉でのコミュニケーションから誤解が生まれ、相手の立場に立って考えることができないから、きつい言葉を平気で投げつけることができる。「国語力のなさ」からいじめ問題も深刻化しているのではないかと。

    国語力を「殺した」いろいろな「要因」を多角的に取材しているのだけれど、この著者は、「家庭環境でのコミュニケーション不足」が根底にある、と考えているように感じました。

    言葉、は、生まれて育っていく過程で、親や兄弟と「会話する」ことで少しずつわかっていくもの(言語習得については今井むつみ先生の本とかを思い出す)。そこで「会話」がなければ、言葉の使い方を十分に知らないまま、学校や社会に出ていくことになる。

    さらにその要因の1つには社会の格差の広がりもあると見ている。家庭環境の格差、収入が不安定なことが原因でネグレクトや虐待があったりする。その家庭には、十分は言葉のコミュニケーションは育たない。

    「ゆとり教育」。政府や官僚のエリートたちは、家族とのコミュニケーションが円滑であった家庭の出身者が多い。彼らは、言語習得が未熟な環境があることを思い浮かべることができないがために、エリートたちが考えた理想の教育を考えてしまう。

    構造的に是正するのが難しそうな問題ですよね…。

    この本を読みながら、以前に読んだ「ケーキの切れない非行少年たち」を思い出していました。

    あの本では、知的障害と健常者の間の「境界知能」(IQ70〜84)の人たちの話をしていたのですが、その特徴が、この本で問題になっている「国語力・読解力が身についていない」子供たちにそっくりだなぁ、と。

    「ケーキの切れない…」を読んでいた時には、もともとの脳に障害があり、境界知能に当てはまってしまう子供たちがいるんだよ、というふうに理解して読んでいたのだけれど、もしかしたら、それは「生まれつき」ではなく「家庭環境による」発達不全、という側面もあるのではないかとも思えてきました(違うかもしれんけど)。

    「境界知能」や「発達障害」と診断されている子どもたちの中にも、もしかしたら「言語によるコミュニケーション不足」による発達不全も含まれているのかも?

    核家族が当たり前になり、隣に住んでいる人の顔も知らない社会に住んでいたら、就学前に言語コミュニケーションをとることができるのは親だけ、ということになる。これは、いわゆる「親ガチャ」!?

    根が深そうな問題ですよね。

    歳がばれるが(笑)、私の子供時代は、近所に同じぐらいの年齢の子供たちがたくさん住んでいて(いわゆるアパートに住んでいたのね)、その子供たち同士が一緒に遊んだり、親同士が立ち話をしたりする環境でした。あの環境は、私の国語力をきっとアップさせてくれていたんでしょう(国語より理科が好きだったから理系に進んだけど)。それと似たような環境を今作ろうと思ったらどうしたらいいんでしょうね。エリートたちには考えつけなさそうな気がします…。

  • Kindle Unlimitedで。この著者の作品は初めて読んだ。
    ルポということでノンフィクションであるが、しょっぱなから"え、噓でしょ・・・???"と思わず声が出てしまうような事象が紹介される (ごんぎつね、など)。
    タイトルもとてもキャッチーで (一時話題になった"日本死ね"を思い出した)、日本人としては無視できない響きがある。
    タイトルに負けず内容もかなり衝撃的なものが多く、まさに頭を何度も殴られたような衝撃を常に受け続けた(後半はいい衝撃もあり)。

    大まかに、本の構成は以下の通りで進む:
    - "国語力"の低下とそれによる弊害、普通の学校で普通の子供たちに起きていること
    - 家庭の問題等があり、問題を起こしてしまっている事例、何が悪いのか、どうすればいいのか
    - "国語力"に積極的に取り組んでいる事例


    私が小学生だったのは90年代で、ゆとりが行われた時期は幸運にも(?)私立の中高であり公立ほど影響は受けていないと自負しているが、まさに教育者側が変化を感じ始めていた時期と重なる世代として、ドキドキしながら読んだ。
    また、近年の教育課程などについては、今日本の小学校や中高に通う子供がいない・知らないので、今の要綱はそうなのか、と興味深く読んだ。
    文科省に限らず、いろんなところで起きていますよね、"事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きているんだ"的なズレ。
    でも、教育というのはやはり何にも代えがたいほど重要な柱。家庭、学校、つまり親、先生・・・そこの指針をしっかりして、負担を減らし、よりよくできるようにするのが上の人の仕事でしょう・・・なんて部外者は思ってしまう。
    学校の先生というのは本当にものすごく大変な職業だと思う。一度あこがれた時期もあったが、自分には責任が重すぎて到底無理だと思ったことを今でも覚えている。是非、先生・学校・教育への正しい投資をしてほしい。

    ズレてない?と思ったのがこれ:
    "二〇二二年度、文科省が教育改革の一つとして行ったのが新学習指導要領における国語の内容の変更だ。高校国語で必修だった「国語総合」を「言語文化」と「現代の国語」にわけたのである。前者はこれまで通りの小説や詩といった文学作品を扱い、後者は契約書の読解やデータの読み取りなど実用的な文章を通して実社会に必要な能力の育成を目指している。実用的な文章とは他に、企画書、会議の記録、電子メール、宣伝文なども含まれ、ゆくゆくは国語の授業や大学入試の読解が文学作品からそういった文章に替わるのではないかという声が上がっている。"
    個人的に「はあー???」と声が出てしまったけどどうでしょう。
    そんなの今まで必要でしたか?問題ありましたか?すごく浅はかな考えじゃない?・・・文科省の人もバカが増えたんだろうか。


    さて、
    あなたは自分の国語力について疑問に思ったことはあるだろうか?
    国語力とは、そもそも何だろうか?

    小学校からある教科、国語。
    ただ、それはただの読み書きにとどまらない。
    文章を読んで理解する力、書く力を基礎として培う。
    聞いて理解し、書いたり話して伝えるために必要な語彙力、自分の思考を整理し表現する力、そして、相手や自分とは異なる環境にいる人のことを思いやる力。
    つまりそれは、私たちが社会の中で他者と生きていくのに必要最低限の力なのだ。

    私は自信がない。
    恥ずかしながら、そもそも、"私そういう力足りてないかも"と気づき始めたのはここ数年だ。
    例えば、何かを読んだり観た時に、パッと思ったことをまとめて話せない。良い本だったと思ったのに、どうしてそう思ったのか言葉にできない。どんな本だったのか簡単に説明できない。
    初めは語学の問題かと思ったが、よく考えてみると日本語でもそういうことにかかわらず昔から説明が下手だった(研究者としても致命的)。
    例えば、本は読んできたほうだけど、本の読み方が間違ってたのではないかと、最近思う。
    娯楽としてただ読む、時間つぶしとしては誰でもできると思う。
    私の読み方はそちらに近かった気がする。
    だから読んでも読んでも、何も変わらない。そして本の内容を忘れる。
    映画も、観て、観ているその時間は何か心に感じるものがあるはずなのに、忘れる。
    別に大きな目に見える弊害はないのだけれど、
    よく考えてみると、それって感じる力、考える力、表現する力・・・つまり国語力が足りていなかったんじゃないのかと思う。

    因みに受験科目としての国語は小学生(中学受験)のときはなぜかよくできて、大学受験のころには可くらいになっていたと思う。
    でも、国語(現代文)の授業の内容は思い出せない。高校で"こころ"が教科書で扱われるから、夏休みに小説全体を読む課題があった気がするけど、自殺の衝撃で気持ちが落ちたことしか思い出せない。(今読んでいる平野啓一郎さんの"スローリーディング"に関する本でも出てきているので、もう一度ちゃんと読みたいと思っている)
    夏目漱石も、森鴎外も、川端康成も、太宰も芥川も読んでいるはずなのに、文字を目で追っただけだったんだな。


    おそろしいのは国語はすべての教科に密接にかかわるということ。
    社会や理科から、単純な暗記ではなく、異なる時代背景、文化背景、地理宗教的背景を知り、実体験を超えて思いを巡らせる。生物の仕組みや身の回りの科学を知り、生きることや命などについて考える。
    ・・・って私は子供のころそこまで理解していなかった気がする。
    何故勉強するのか
    特に高校時代はわからなかった。正直、大学受験のため。それだけ。
    だから特に詰込みに感じた社会なんかは大嫌いだったし(どうして藤原や徳川の名前を覚えなきゃいけないの?どうして倫理で昔の哲学者の思想を覚えなきゃいけないの?って。)、数学や理科はパズル感覚で得意だったけど、特に数学はなぜ学ぶのかはわからなかった(四則演算ができれば十分じゃない?って)。
    なのでなんだか途中から、書かれていることが他人事には思えなかった。
    "今の子は知識の暗記や正論を述べることだけにとらわれて、そこから自分の言葉で考える、想像する、表現するといったことが苦手なので、国語に限らず、他の教科から日常生活までいろんな誤解が生じ、生きづらさが生まれたり、トラブルになったりしてしまうのです。言ってしまえば、子供たちの中で言葉が失われている状態なのです。"
    当時の中高の先生は大学受験進学校としてプレッシャーが大きかったと思うし、その中でも学ぶ喜びや面白さを工夫してくれていたはずで、私がその一部しかうまく受け取ることができなかったのは本当に先生方に申し訳ないし、もったいないな、今もう一度その時間に戻れたら、と思う。



    家庭の影響はやはり大きいのだけれど、言葉を失いやすい環境の一つとして"外国人家庭"というのがあるのは心が痛んだ。
    私がもし子供を持ったら、私自身がこの国の言葉を自由には扱えていない外国人なのだから。
    もちろん、日本という国は特殊だ。日本語を扱える非日本ネイティブは、英語をあつかえる非英語ネイティブよりはるかにはるかに少ないだろう。また、環境的にもアメリカなど移民国家とは勝手が違う。ので、単純には比べられないけれど。
    でも、外国人でも日本の学校には行けるはずなのに(学校に行けばいやでも日本語に囲まれるので、ハンデはあってもそこまで問題ではないのでは?)と思ったが、どうやら外国人家庭では学校に就学すらしていないケースも多いらしい。うーん。


    フィンランドの"ネウボラ制度 (妊娠時から子育てまでずっと同じ保健師がサポートする制度で1944年から(!) あり、利用率はほぼ100%だそうだ)"の紹介は、素晴らしいと思った。
    日本はよくない、海外は進んでいる、という単純な思想はすきじゃないし、この本でもそういうわけでは全くないのだけど、やはりうまくいっている例やそれに至るまでの経験はどんどんとりいれるべき(ただし、実行のための土台ももちろん必要なのでそんなに簡単ではないとは思うけど)

    後半で紹介される、国語教育に力を入れる学校の取り組みは読んでいてうらやましくも感じた。
    実際に生徒が書いた文章や発言内容は、十代のものとは到底思えず、脱帽。中高生時代の私はおろか、30代半ばの今ですら私には書けないレベルです。あらためて教育の大事さを感じるとともに、繰り返しになるがやはり国にはもっと教育や先生のサポートにお金を使ってほしい。
    明治~昭和期の文学や文豪の思想などに触れると、昔の人は早熟だなとか、こんな若さでこれほどの文章を書いたりこんなことを知っていたり、こんなに深く考えていたり、どうしてそんなことができるのだろう。とよく思うものだけれど、なんとなく理由が分かった気がした。



    本書では日本のことについて述べられていて、文化的にも確かに日本は表現力や思っていることを言わないこと、極端な核家族などもあり、そういう拍車がかかりやすいのかとも思う。ただし、アメリカでも同様な問題を義父からたまに聞く(教育関連の仕事ではなく、ヘルスケア関係の仕事だが、子供のケアのために色々な家庭を訪問することが多く、色々思うことがあるようです)。


    今は子供はいないし、将来いるかもわからないけど、もし子育てする機会を得ることになったら思い出したい本。そして、30代半ばの自分自身への戒めというか、意識改革の一助にもなった。

  • 実は中学生の頃不登校だった私にとって、この本の中で登場する不登校になった子どもたちは過去の自分と重なって見えた。

    あの頃、なんで学校に行けないかわからなかった自分も、本を読み始め、少しずつ自分の考えを蓄積できるようになり、自分と他人との違いを認められるようになった。
    言葉って大切だと、自分自身の経験から学び、今は国語の先生をやっている。

    タイトルはかなりセンセーショナルだけれど、きっと誰もが言葉の力が弱くなっていることに気づいていると思う。
    国語教育も論理的思考や伝える力に重点が置かれているけれど、そもそも伝えるべきはずの内面が磨かれずに論理的に伝えることはできるのだろうか?
    小説や物語ばかり教えることに対して、批判がくるのはわかるが、そうなれば心を育てる時間はどこにあるのか。
    学校は知識や思考だけを高めるだけではいけない。
    国語力というと狭いものに感じるが、言葉の力の育成は自分と繋がる情緒面も育てなければならない。

    読むと現代社会の危うさを感じるばかりだが、救いの手も差し伸べられているところに好感が持てる。

  • 自分のことを他者に説明できないと、非常に生き辛い人生になってしまう。
    何か不快な事象があっても、自分のそのイライラとする感情を「自分はイライラしていると自覚する」「そのイライラの原因は何か」「その原因を取り除くにはどういった方法があるのか」などと順序立てて「思考」することが、社会生活で大事なはずなのに、そこまでの思考力が備わっていない子供が多い、という話。そして「思考」をするためには「国語力」が必要である、と。

    不愉快なことがあった時に「うざい」「キモ」「死ね」と吐き捨てることしかできないような語彙力の子供は、赤ん坊がおむつが濡れて不快であることを泣いて知らせるしかないのと同レベルである可能性…てことかと思い、ゾッとしました。
    理解に苦しむ事件とかも、そういったことが背景にあるのかも、と思わせられました。

    ネットで話題になっていた『ごんきつね』の授業については、今の子供であればそういう答えが出てくるのも無理ないことではないか、と私は思いました。(「兵十の母親のお葬式の場面に出てくる鍋の中身はなんだと思うか」という先生からの問いに対して「母親の死体を煮ている」と答える……という衝撃的なエピソードなんです。詳しくは本書をどうぞ。)
    今と昔ではお葬式のありかたが変化しているのだし、ひと昔前の「地域でのお葬式」の様子を知らなければ、「お葬式」と「現代では亡くなったら火葬にする」ことを繋げて想像して「遺体を煮る」となってしまっても、無理もないのではないか、と。
    しかも、現在の子供たちの読解力や共感力が危機的である例を挙げるのであれば、その直後に出てくる『一つの花』という戦争文学のエピソード(「出征していく父親に娘がおにぎりをねだるが、もうおにぎりは無いので、父親は、道端のゴミ捨て場のような場所に咲いていたコスモスを摘んで娘に差し出した。戦後、娘の家にはコスモスが咲き乱れた」という話を読んで「父親は汚い花を娘に食べさせようとした」と解釈してしまう、というエピソード)のほうが分かりやすいのに、どうして『ごんぎつね』をメインにもってきたのかな、と思いました。商業的な理由かな、と勘繰ってしまったりもします。

    Twitter上で著者は、とある人物の「家庭での文化・教養の継承ができていない。家庭教育、学校教育の見直しが必要」というような内容の投稿に対して「そういうことを書きました」とリプライを寄せていて、そこから考えると、なるほど、本来であれば『ごんぎつね』が教材として登場する四年生までの間に、かつてのお葬式の風景を「教養」として家庭教育で身につけているのが「常識」であったと言いたい……のか?と、納得できたような、いや、そんなふうには読めなかったような……と、まだ少しモヤモヤしています。

    ただ、本書を最後まで読むと、少し印象が変わりました。
    本書は、ひたすら、現在の一般的な教育は見直しが必要だと、訴えかけています。
    思考を深めるためには「国語力」が重要なのだと。

    序盤は、「普通」の学校に通う、「普通」の子供たちの現状を紹介。
    ただ、「普通」レベルのなかにいる子であっても、自分の考えを言葉にすることが苦手で、それゆえに事件が起きたり、困難を乗り越えられずに挫折してしまったりしている様子をリポートしています。
    語彙力を増やすことによって、また、その語彙力というのは「数」というより、一つの語彙にいくつものニュアンスがあることを知り、それらを使いこなすことによって、自分の中の感情を言語化して思考を深めることが大事で、それを他者とのコミュニケーションにも活用し、思考とコミュニケーションによる「国語力」で、多種多様な問題を解決できるようになることが重要なのだ、ということを提示しています。

    中盤では、いわゆる「ドロップアウト」してしまった子供たちが、どのように回復していくか、そのために「国語力」がどれだけ重要なのかを紹介しています。

    終盤では逆に、恵まれているほうの子供たち、教育格差で言うなら「上層」の子供たちが受けている国語教育を紹介し、そして、それらの学校現場での「工夫」は、一般の学校現場でもやれることが多いはず、と訴えかけていきます。
    生きづらい子供たちを救うために、教育の見直しが必要だと。

    この著者は、子供を取り巻く社会問題を題材にルポを数多く書かれています。海外の貧困層の子供たちから、戦後日本の浮浪児までも含めて。依頼される講演会も、学校でのものが多いとのこと。
    そんな著者が肌で感じた現在の日本の教育のありかたへの問題提起は、非常に切迫感と説得力があり、色々と考えさせられて読み応えがありました。

    本書でこんなことが書かれていたわけではないですが、最後のあたりを読んだあとで、もう一度冒頭の『ごんぎつね』の授業について考えると、 “「鍋で何を煮ているか」などという質問をするような授業をやっている場合ではない、と言いたいのではないか?子供たちの回答ではなく先生の質問を問題視しているのではないか?” と思えてしまいました。
    しかし読み返してみるとやはり「常識から外れてしまっている子供の現状」のほうを憂慮しているようなので、決して先生の設問内容や授業のやり方側にケチをつけているわけではないようですが、そんなふうに穿ってしまうほど、教育の見直しについて、熱く訴えている本でした。

    タイトルに「国語力」と入っているので教育の話に見えますし、実際、教育現場についてのルポなのですが、日々起きているワケのわからない事件も「自分の感情を言語化できず、思考を深められないでいること」が、犯罪の根源なのではないかと感じられます。
    そういった意味で、社会問題の本としてもオススメです。

  • 子育てを多少 海外(=日本語環境が貧弱)で体験した。
    言葉は大事、だがそれ以前に 心/情緒 を育て 概念を理解させることが肝要、そこがシッカリできれば あとは日本語なり他国語なりでどう表すかは単なる記号、と心がける日々であった。

    まさに "心を育て概念をインストールする" 作業がおざなりになっている状況をありありと描き出すルポ。
    ただでさえ 少子化が問題視されているのに、なぜこんなに子育て環境がやせ細っているのか。
    家庭への介入はどうしても難しいのだから、幼児期からそこをサポートする仕組みを急がなければならないはずなのに。。

    ひとつ願うのは、ハードル上げすぎないで、ということ。
    例えば 「読み聞かせ」
    よそのお子さま に「読み聞かせ」るためのギジュツ?正しさ?を追いすぎる気がする。 海外で経験した学校では もっとユルく、そのかわり量は圧倒的に多かった。
    子供の父母が呼ばれる、覗きに来た祖父母も読まされる、教室の前を通りかかった用務員さんが読んでくれる。英語に訛りがあっても良いのだ。
    そういう体験でいいんじゃないかと思う。
    とにかく 日本の学校はあれやこれやお作法が窮屈に感じるんだけれど 出どころは父母の要求だったな。。

  • 自分が何を考えているのか、感じているのか、どうしたいのか、なんて自然に言葉にできるもののような気がしていた。でも、実際にはそうではないのだね。本書では国語力と名前をつけている言葉にする力は、子どもの時からの周りとの交流によって養われるものなのだ。自然に湧き出るものではない。小学生の男の子2人を育てている身にしても、いろいろ考えさせられるところがあった。前半の誰が国語力を殺すのか、という段に関しては、読んでいてつらいところも多かった。育った環境が言葉にする力を奪い、それによって行動や人生の行き先までも狭めてしまう。これはつらいなぁ。経済力やどの地域で生活しているかのような、狭い意味での環境だけではない。時代や社会の流れ全体で見れば、どんな人にも当てはまる問題だ。もちろん、自分にも。気をつけないといけないこと、自分の行動を振り返ってみてもいっぱいあるよなぁ。

     後半の小学校や中学、高校での試みを読むと、希望を感じるところもある。まだ限定された地域、学校だけの話かもしれないが、そういうものを作りたいと思うことはできるのではないか。少なくとも、まずは自分と子どもの関係からでもね。

     刺激的で、面白い本だった。

  • 国語力ってなんだろう、日本語の読み書き能力のことかな、と思ったら、「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」を中核とする能力、のことなんだそうだ。広い意味でのコミュニケーション能力と言ってよさそうだ。考えなければ自分の意見は生まれてこないし、相手の言っている意味を感じ取れなければコミュニケーションは成り立たない。相手の立場を想像する能力も必要だし、その結果が表現力として発揮される。

    著者の問題意識は子どもたちの国語力が年々低下している、という点にある。その現状と、どうすれば子どもたちの国語力の低下を阻止し、向上させることができるのか、というレポートだ。ところどころで「ケーキの切れない非行少年たち」を思い出しながら読んだ。
    身近に子どもがいないのであまり切実には感じていなかったが、ネットを眺めていてぼくも時々思うことがある。たかが数十行の文章に、長文ごめん、というお詫びがついているのだ。これで長文だとしたら、本なんかまるきり読めないだろうと思う。直截的な言葉でひとことふたこと。そのやりとりだけで構成されるコミュニケーションの限界は明らかだ。

    ではどうすべきなのか。小学校や中学校の授業で文学作品やノンフィクションの名作を題材に取り上げるのはよい試みだと思うし、そこから発展させてディベートを授業のメインに据えるのは賛成だ。そうした試みが、少しずつ荒んだ言語世界に潤いをもたらしていくといいなと思う。

  • 国語力がとても大事とわかりました。土台は家庭にある。ごんぎつねはびっくりしました。

  • 国語力は誰が殺すのか。とても刺激的なタイトルですが、考えさせられることが多い本でした。国語といえば、私のイメージでは、漢字、文字の読み書きなど、日常使いで意思疎通ができるような手段としての位置付けでした。この本を読んでみると、国語が持つ力とは、人が生きていく上で土台となるもの、また人がより豊かに生きていく上で欠かすことができないツールだとわかりました。

    スマホやゲーム依存でコンテンツをただ流し消費し続ける子どもや親がいる一方で、とある女子中学では、アンネの日記を国語の教材として、読後の感想を述べたり、生徒同士で意見を出しディスカッションしたり、より深い人間心理を観察したりと、コンテンツを国語力の養成手段として、有効活用しています。

    観察し、思考し、言葉を組み立てる、発する、行動する、人生はこの繰り返しです。この習慣を小さい頃から積み重ねている人と、コンテンツを流し消費している人では、さまざまな能力に差が出るでしょう。そのことは結果として、収入の多寡や、自身の幸せや、豊かさを追求する力に大きく影響するでしょう。その事を今気づけてよかったです。

    ちょうどこの前、東京都が高校無償化や大学の費用負担を発表しましたが、いくら金銭の支援をしても、肝心の教育の中身が議論されていない状況では、支援の意味があるのかわかりません。

    国や学校に期待せず、まずは家庭の中で粛々と国語力を育む方法を考えて実行していこうと思います。

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著者プロフィール

1977(昭和52)年、東京生れ。国内外の文化、歴史、医療などをテーマに取材、執筆活動を行っている。ノンフィクション作品に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体』『絶対貧困』『遺体』『浮浪児1945-』『「鬼畜」の家』『43回の殺意』『本当の貧困の話をしよう』『こどもホスピスの奇跡』など多数。また、小説や児童書も手掛けている。

「2022年 『ルポ 自助2020-』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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