吾輩は猫である (新潮文庫)

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猫の視点から文明批評、社会批評を行った有名な小説。はじめて読んだのは学生のころで、正直「読みづらいなあ」と思ったのを覚えています。そもそもこの小説が出版されたのはもう100年以上前で、いくら言文一致の現代書き言葉をつくった漱石の小説だと言われても、いまでは使わない言いまわし、差別にあたるとして規制された言葉、この時代ならではの考え方などが大量にあるため、すらすら読めるようなものではありません。
とはいえ、「猫視点」で人間の生活を眺めるということ自体にいまなおユーモラスさがありますし、落語が好きだったという夏目漱石らしいテンポのいい会話、視点のするどさとそれらをマイルドに表現する文章力、ここら辺はいま読んでも作品の強度を高めていると思います。

一応話の大筋みたいなものはあって、その中心には教師である苦沙弥先生の家の書斎に彼の友人である迷亭、寒月、三平、独仙らが集まり無駄話をする。彼らはいわゆるインテリで、話している内容は多岐にわたるわけですが、彼らとは違い世俗的な人物として配置された金田と、金田の妻と子どもの富子が話に加わりつつ、富子と寒月とのふわふわした恋愛が進行していく、というのが大筋。その間にご近所の人たち、中学校の生徒、泥棒などが介入し、それらを滑稽譚として猫である「吾輩」が語るという内容となっています。

しかし読んでみればわかるのですが、それらの大筋は"何となく"でしか存在せず、会話がはじまれば常に脇道にそれ、長々とどうでもよさそうな話、滑稽な話、教養についての考え方が説説と語られていくことに。
つまりこの小説は、何らかの物語が展開する小説ではなく、日常で起きた面白い話をちょこちょこ集めて適当に間をつなぐという体裁となっており、その意味で物語の筋と、場面ごとの会話や思考、そのふたつの主従関係は、私たちがよく知るそれとは逆転しています。「猫視点で語る」という土台の強みはここでも活かされており、「だっていまこれを語ってるのは猫ですし」と、話が物語として機能していなくてもなんとなく「ま、しょうがないか」という気持ちにさせられます。

おそらくこの『吾輩は猫である』は、小説が発表された当時でさえ、かなりの教養が、もっとはっきり言えば漱石並みの教養がなければすべてを理解することができないのでしょう。そこに本作のハードルの高さを感じます。
とはいえ嫌味っぽさはなく、おそらく漱石のユーモアやある種の適当っぽさが作品全体に気楽な印象を与えてもいるわけで……。
ふーむ、つまりこれってたぶんエッセイ形式の小説ってことになるんだろうな。だから話が従となり、ふと浮かんだ思考が主となる。そういう書き方ってこの当時は相当珍しかっただろうし、その批評眼や知啓、ユーモアなんかは新しい感覚として受け入れらたのだと思う(期せずして最近「エッセイ×物語」という作品を多く手にとっているなあ私)。

猫がどんな反応をするか見るために頭をぽかぽかたたいたり、いざというときの非常食として見ていたり、苦沙弥先生のことはどうにも好きになれないのだけど、そんな彼を見つめる猫の達観しつつも少々間の抜けた性格には愛着を覚えます。さらにそんな猫を見つめる読者である私たちの視点とか、これを書いてる夏目漱石の視点とか、階層をわけて作品や社会をみつめる仕掛けがたくさんあって、そんなところも技巧的。
物語として楽しもうとすると肩透かしをくらうだろうけどエッセイ文学としてみると文章ひとつひとつが妙におもしろく感じるなあと、今回再読してみてそんな視点に気づけました。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 未設定
感想投稿日 : 2024年3月20日
読了日 : 2024年3月20日
本棚登録日 : 2024年3月20日

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