龍は眠る (新潮文庫)

著者 :
  • 新潮社 (1995年1月30日発売)
3.61
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本棚登録 : 11283
感想 : 815
4

宮部みゆき初期の傑作。
文庫化は1995年、初出は1991年(平成3年!)と30年も前に書かれた作品で、そこここに古さを感じる部分はあるものの、今でも十分面白く読むことができます。
「古いけど十分面白い」を例えてみれば、好きだったアナログ時代のサスペンスドラマをBlu-rayで見ている感じ。最初の「うわっ、古っ」という第一印象を乗り越えればあとはぐんぐん引き込まれてラストまでノンストップです。

【以下、ネタバレあります】













そして、これは自分が「宮部みゆきにハマっている」ことを初めて自覚した作品です。

もともと人から勧められて初めて読んでみた宮部作品「魔術はささやく」「返事はいらない」「レベル7」の3冊が面白く、新潮文庫のカバーの折り返しにある「宮部みゆきの本」を頼りに買ってきたのがこの本です。
初読時は、スリリングでサスペンスフルなストーリーが面白く、人情味を感じさせる人間関係が導くハッピーエンドに感動して気持ちよく本を閉じることができる、という自分の宮部みゆきに対する「期待値」を100%満足させてくれて、大変楽しく読み終えることができました。

今回は、「読んだはずなのに手元に本が無い」既読未登録のうちの一冊として買いなおし、久しぶりに再読したのですが、初読の時の感想と、一部分ではあるものの内容を覚えているのです。自分にしては珍しいことです。
これは、当時ミステリ作家だと思いこんでいた宮部みゆきの作品が「超常能力者(サイキック)」を扱っていた意外性と、「発話障害を抱える人」と「人の心が読める超能力者」の交流(友情?)という卓越した着想に感心したことがとても大きかったからです。
とりわけ印象的だったのは、高坂を心配して手話で「心配」と伝える七恵と、手話がわからないのに七恵の表情でその言わんとすることを察する高坂のシーン。サイキックでなくとも言葉を使わないコミュニケーションが成立する様子は、七恵と高坂の心の交流の細やかさを浮かび上がらせる反面、人の心が読めなくても発話ができない人と心を通わせることができる高坂の様子が、社会の中で居場所を無くして追い詰められていくサイキックへの追い討ちに感じられて、とにかく寂しかったのです。
「てか、このシーンだけで小説1本書けるじゃん、どうせならサイキックと発話障害を抱える人を恋人関係にして、発話障害者視点かサイキック視点の話にすればいいのに」という当時の自分の感想をありありと思い出すことができます(後に「不器用な男が心の底に沈めた恋心まではサイキックでも読み取れない」話(「鳩笛草」)があって、ああ、ここに着地したんだと今これを書きながら気付きました)。
サイキック達の身の振り方については、「社会に受け入れられないサイキック」の話として、筒井康隆の「家族八景」「七瀬再び」「エディプスの恋人」の七瀬三部作を思い出しながら読んでいたからでしょうか、どんどん狭いところに追い込まれていくような生活をつづけた七瀬が「エディプスの恋人」で迎えた悲劇的な最後に比べて、慎司や、最後まで人の役に立とう――社会に受け入れられようとしていた直也が意外に前向きで、やっぱり宮部みゆきは人情味のある大団円を書く人で、安心して読めるなあと、この頃はそんなことを思っていました。
その後、「クロスファイア」できっちり引っ繰り返して見せてくれましたが…。まあ、どちらかと言えば自分は「クロスファイア」的な終わり方のほうが好みです。とんでもない能力を持った何でもできる人たちが世俗にまみれている様子は美しくないと感じてしまうのです。一年戦争後のアムロよりシャアの生き方のほうがドラマチックですよね。
それか能力が失われていく様子が「アルジャーノンに花束を」を思い起こさせる「鳩笛草」か。

一方で全体のストーリーやプロットはすっかり頭から蒸発していて、サスペンスとしては宮部みゆき作品を読むときの通例どおり、ページを繰る手が止まらずにラストまで一気に読み切ってしまいました。
心に残ったゲームや映画などに対して、「記憶を消してもう一度楽しみたい」という賛辞が贈られることがありますが、この本の再読に関してはこの言葉どおり記憶を消してたっぷりと楽しむことができました。
…と言えばいいことのように聞こえますが、初読の時に自分の悪い癖が出て、ストーリーの先が気になるあまり斜め読みや飛ばし読みを多用して一気読みした影響に違いないと思います。

再読に当たってあまり先を急がずに読むようにしたら、ストーリーの勢いに押されて当時はあまり気にならなかったご都合主義や、古臭さが意外に目につくことに気づきました。
特に「実行犯は金で雇われた名前もわからない人」設定は、またかぁ、そんな都合のいい人なんかいないよ…と思わされてなりません。初期作品にはこのパターン多いんですよね。「レベル7」や「ステップファザー・ステップ」にも出てきます。

きっと、たくさんある「書きたいこと」(初期は、「〇〇みたいなもの」を書きたい…が多いように思えます。例えば「ハヤカワのポケミスみたいなもの」とか)が先走って、それ以外の要素が後回しになっているのでしょう。初期には、作品にこんな症状が見られる他、「シリーズ化してすぐに放置」という悪癖も目立ちます。
「現代ものが書けなくなった」中期を抜けた近作ではこの辺りはようやく落ち着いたように思えます。
…その代わり、1作品当たりの枚数が激増していますw。書きたいこと以外のディテールにも手を抜かなくなった影響ですね。

一方で、意識的に採用したのであろうハードボイルド的な文体が次々と新たな展開が起きるこの作品のテンポの良さに大きく貢献していると思います。書こうと思えばとても饒舌にいろいろな描写ができる宮部みゆきですが、書かずにおこうと思えば削ぎ落すこともできる器用さには感嘆します。テンポ・疾走感を追求しすぎてそれ以外が疎かになってしまった「スナーク狩り」みたいな例もありますが…。
また、過去に傷を持つ者同士が惹かれ合い結ばれるのも「ハードボイルドっぽさ」に磨きをかけています。

ちなみに、自分は宮部みゆきのことを知ったばかりの頃は「ミステリ作家」だと思っていました。もちろん面白いミステリをたくさん書いているミステリ作家であることは間違いありませんが、作品をたくさん読んだ今では、宮部みゆきのホラーや超能力への傾倒を知っています(なにしろ、デビュー前の習作( http://osawa-office.co.jp/blog/miyabe/images/%E6%86%91%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%AE%B6.pdf )がホラーです…)。
なのに、近作ではあんなに好きだった超能力ものを見かけなくなりました。「クロスファイア」や「鳩笛草」、「蒲生亭事件」、時代物でも「あかんべえ」、「震える岩」や「天狗風」…。最後は「楽園」でしょうか。代わりに「悲嘆の門」みたいな「異世界もの」が目立ちます。意識的に時流に合わせているわけではないでしょうけれど、ラノベなんかの流行りと歩調を合わせているようで面白いですね。

あと、再読するまでちょっとしっくりこないと思っていたのがタイトル「龍は眠る」。
本文中で言及されているのは2ヶ所。一つを引用してみます。
「我々は体のうちに、それぞれ一頭の龍を飼っている。底知れない力を秘めた、不可思議な形の、眠れる龍を。そしてひとたびその龍が起きだしたなら、できることはもう祈ることだけしかない。
 どうか、どうか、正しく生き延びることができますように。この身に恐ろしい災いの降りかかることがありませんように。
 私の内なる龍が、どうか私をお守りくださいますように――
 ただ、それだけを。(615ページ)」
【龍】はサイキックのような「(超)能力」のことかと思っていましたが、そうではなく、「意志」のことでしょうか。
直也が乗りこなせなかった龍を、慎司は無事に乗りこなせるでしょうか。川崎明男は暴走した龍に食われて身を滅ぼしました。高坂が抑えている龍は暴走したりしないでしょうか…、そんな含意を持つタイトル、でしょうかね。

読書状況:読み終わった 公開設定:公開
カテゴリ: 宮部みゆき
感想投稿日 : 2021年10月15日
読了日 : 2021年10月15日
本棚登録日 : 2020年12月13日

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