企業と人間: 労働組合、そしてアフリカへ (岩波ブックレット NO. 521)

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  • Amazon.co.jp ・本 (63ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784000092210

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  • 「沈まぬ太陽」の映画をみて小倉氏に興味がわき読んでみた。

    これは佐高信氏と小倉氏の対談集。最後に2000年7月5日と日付がある。山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」の単行本が1999年6月から9月の間に全5巻で発売された後での対談。単行本がベストセラーになっている状況での対談だ。

    取材を受けたいきさつ、山崎氏の取材攻勢、ベストセラーの要因、ベストセラーになったことでの当事者には不愉快ともいえる社会の反応、小倉氏自身の会社員人生、などを佐高氏がうまく聞き込んでいる。小倉氏の語り口は淡々としている。

    山崎氏の取材申し込みに対し小倉氏は、「私は普通に会社勤めをしてきただけで、特に話す事は無い、それが珍しいのなら社会のほうがおかしいのでは」というと「私はその社会のおかしさを抉り出したい、協力なさい」と言われ取材を承諾したとあった。最初山崎氏がケニアまで小倉氏を訪ねて行った。

    佐高氏はベストセラーになったのは、主人公恩地元の生き方のまっすぐさ、一方ではっきりとしたモデルになっている日本航空を含む日本の航空業界の抱える問題点がこれほどひどかったのか、という二つが混じりあったからと言い、それに対し小倉氏はもうひとつ、現在(1999年)の労働組合の存在感のなさをあげている。曲がりなりにも本で労働組合が描かれているので、(現在の)組合の存在感のなさにイライラしている人にアピールしたのでは、と答えている。・・確かに70年代までは組合は活発で、スト権ストなんていう国鉄の10日以上のストもあった。だが1989のベルリンの壁崩壊や、91年のソ連の崩壊で、組合運動も下火になったのかな、なんて思う。組合運動は社会主義思想に希望を見出していた。

    佐高:社会を変えるという意識はあったんですか?
    小倉:軍国少年だったが、その教育のせいで多くの犠牲者が出た、戦後はもう騙されないぞ、というのはあった。労働組合運動に興味はあったが、会社に入ってはまず仕事を覚えるのに専念しよう、との思いだった。叔母からは「しかるべき地位につけば回りを変えられるのでは」と言われたが、権力の末端に連なったところで回りを変えるのは不可能に近いし、逆に連なることがかえって凡人である自分は意識が変わってしまうのはありうるだろう、と考えた。

    佐高:アフリカにとばされて、逆に自分の人生が開けたということですね?(退職後はアフリカ関係で活躍している)
    小倉:その点で冗談まじりに「あなたが定年後もこうやって忙しくしていられるのは、会社にとばされたお蔭じゃないか」という人がいるけど、「平清盛に喜界が島に流された俊寛は島で釣りがうまくなったはずだ。といって俊寛は清盛に感謝したか? 無実の罪で刑務所に入った人が、箪笥づくりがうまくなったからといって裁判官に感謝するか? 要は人ひとりの、転んでもただでは起きない生き方の問題ではないか。現にナイロビには大使館員とか企業とか何人も赴任しているが、東アフリカのことを自分の仕事にした人はほとんどいない。だからそれをみたってなにも僕は会社に感謝する筋合いはない」と答えているんです。
    佐高:それはほんとにそうですよね。

    ※一回目のナイロビ赴任から帰国後、「サバンナクラブ」を結成。渥美清、萩本欽一、渡辺貞夫、など36人で発足。萩本曰く、要は小倉さんの家で日本食を食べた人たちだね。・・時々ナイロビに来る奥さんが単身赴任の家にいる現地人のサーバントに日本料理を教えた。当時ナイロビには日本料理やが無くあそこに行けば日本料理をご馳走してもらえる、との話がひろまった。


    小倉氏
    1930年:台北生まれ。
    1945年:旧制中学3年で終戦、直前は勤労動員で木製特攻機の尾翼を作る。おじいさんと不要不急の人として徴用された芸者さんと中学3年生が工場にいた。
    1957年:東大卒業後AIU(後のAIG損害保険株式会社)を経て日本航空に途中入社。最初は予算室にいた。
    1963年?:ひょんなことから職員組合の執行委員長を2年間やった。交替勤務者や地方勤務者、男女差別、職種差別、学歴差別などがあった。組合と会社の軋轢から、その後カラチ、テヘラン、ナイロビと10年近くを海外で勤務
    1973年?:日本に戻るが「営業本部付」で特定の仕事を与えられないポストに12年間置かれる。人脈を生かし中東、アフリカへのセールスを自ら続ける。
    1985. :再びアフリカ勤務への志願をする。
    1985. :鐘紡の伊藤淳二氏、中曽根内閣の意を受け日航副会長に
    1985.8.12:日航機御巣鷹山事故
    1985.10:アフリカへの辞令が発令される。
    1985.11:ナイロビに赴任。
    1986 :伊藤淳二氏会長に。伊藤氏にナイロビから呼び戻され、会長室部長になる。伊藤氏は機付き整備士制度(一機に一人整備士担当をつける)を作る。
    1987.3.31:伊藤会長が辞任(第二組合、自民党筋、マスコミによる会長批判を受け)・・伊藤氏の改革は引き継がれず、体質は元に戻った。
    1987:三たびナイロビに赴任
    1990 :退職 
    1995~1999:「沈まぬ太陽」が「週刊新潮」に連載
    1999.6~9:「沈まぬ太陽」全5巻、新潮社より出版
    2000.7.5:佐高信氏との対談。本には、東アフリカ研究家、自然写真家として日本と東アフリカ諸国との友好に活躍、と出ている。
    2002.10.6:癌のため死去(72才)
    2009.9:映画「沈まぬ太陽」公開


    同じ日本航空に勤務経験があり直木賞作家の深田祐介氏も原作に対し批判の文を書いたようだ。
    本の時点では会社は正式にはノーコメントだったが、映画化の話が出た途端にピーンと反応して、当社を誹謗するものだから即刻書店から本を引き上げて、映画化、映像化というようなことがあったらただじゃおかないぞ、というようなことになったとある。

    2000.10.20第1刷 図書館

  • 「沈まぬ太陽」を読み終え、友達のまりちゃんより貸されて読みました。
    主人公の恩地元のモデルとなった本人の生の言葉と対談者の考えなどを読んでいくと、熱く興奮していた頭が冷静になりました。
    興味深く読ませていただきました。

著者プロフィール

1945年山形県酒田市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、郷里の高校教師、経済誌の編集長を経て、評論家となる。憲法行脚の会呼びかけ人。
近著に『新しい世界観を求めて』[寺島実郎との共著]『小沢一郎の功罪』(以上、毎日新聞社}、『平民宰相原敬伝説』(角川学芸出版)、『佐高信の俳論風発』(七つ森書館)ほか多数。

「2010年 『竹中平蔵こそ証人喚問を』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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