相模原事件とヘイトクライム (岩波ブックレット)

著者 :
  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (64ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784002709598

感想・レビュー・書評

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  • この事件についてマジで1回心から向きあってみたいと思って読みました。今思ってることは確実に言語化して整理しておきたいのでこれを書きます。結論を言うと、少しでも生産性を上げるために日々何かしらを頑張っている僕たちと、生産性がない人間は生きる価値がないという理由で犯行に及んだ植松との間に本質的な違いはないんじゃないか、あるとしたらそれは一体何なのか、ということです。

    時間がある人は↓の動画も見てください。少し長いけど何回も見返せる素晴らしい動画です
    NPO法人「抱樸」理事長の奥田知志さんのインタビュー
    https://www.youtube.com/watch?v=KzhXPukmyhQ

    まず、植松の主張は首尾一貫していて、障害者=生産性がない、役に立たない(迷惑をかける)=生きる意味がない=抹殺されるべき という考えを持っていました。
    この考えは間違っています。なぜなら人はみんな生まれた瞬間に生きる権利があって、その権利は誰からも奪われることはないし、同時に人の命を奪える権利のある人もいないからですね。これがいわゆる基本的人権で、日本国民なら全員理解していると思います。

    では次に、僕らの普段の生活について考えてみます。
    僕らは大体毎日仕事したり、学校に通ったり、子供を育てたりして生産的な活動を行っていますよね
    生産的とは何かというと、何か価値のあるものを生み出したり、昨日できなかったことを今日できるように頑張ったり、資格をとって能力を開発したりそういうことです
    もっと言うと、みんな年収の高い仕事に就きたいと思っていたり、医者とか弁護士みたいな能力の高い人が社会的に高い地位や信頼を得ていたり、短い時間でたくさんの仕事を効率的にこなそうと自己啓発本を読んだり、これらも全部僕らみんなが生産性を高めたいと思っていることの現れですよね。

    つまり何が言いたいかと言うと、今僕らが生きている資本主義社会の中においては、生産性が高いこと=良いことなわけです
    短い時間でたくさんのお金を稼いだり、たくさんの仕事や趣味を効率的にこなしたり、質の高い製品を大量に生産することができるようにみんな毎日何かしらを頑張っているわけで、僕らが日々やっていることはこのどれかに当てはまっているわけですね

    社会全体が生産性というものさしで動いていて、僕らもそのシステムの恩恵を享受して生活をしているという現状を踏まえたうえで、植松の主張に戻ります
    つまり、障害者に生きる意味はあるのか、という問いです
    例えば周囲の人と意思疎通ができなくて、自分で食事や排泄ができなくて介護士や保護者の助けを得ないと生きることができない人がいるとして、その人達に対して、あなた達にも生きる意味はありますよ、命の価値はみんな同じですよ、って日々生産性を追い求めてる僕らの口から言えるのか?って思ってしまうわけです 自分たちが毎日していることと矛盾しないか?ということです

    もちろん植松のように積極的に障害者の命を奪うこととは明らかに違うけれど、生産性が高い=良いこととみなしてる僕らは間接的に生産性が低いこと=意味のないこと・価値のないこと を認めていることにならないか?という疑問がずっと自分の中にあるんですよね つまり、僕らの中にも植松はいるんじゃないかということです

    ここで、考えられる反論として障害者にだって家族がいて、その人たちは障害者がいることで救われてる・役に立っているという考えがあるかもしれないんですが、この考えも危険なんじゃないかと思っています
    結局誰かの役に立っているから生きている意味があるという「価値を生み出しているベース」で考えている時点で植松と一緒なんです 家族も親戚も誰もいない天涯孤独な障害者の人がいて、誰もその人から救われてないとしたら、その人は生きる価値がないということにつながってしまうからです

    植松の考えと真っ向から対峙するには、「生産性があろうがなかろうが、たとえ誰かの役に立ってなかったとしても、すべての命には平等に価値がある」という考えを持つ必要があります。でもこれはとてもむずかしい。
    なぜなら僕らは生産性という呪縛にとらわれているからです 小さい頃から短い時間で高い点数を取れるように学校で教育を受けて、誰かの役に立つためだけに一生懸命頑張ってきた僕らにとって、誰の役にも立ってない人の存在を心の底から認めてあげることが果たして本当にできるんだろうかって思うのです。例えば自分に子どもができたとして、出生前診断を受けたら重度の障害があると判明したとき、僕らは堕胎手術を受けずにその子を生んであげることができるか?という問いに対してどれだけの人が胸をはってYESと答えられるでしょうか

    この本で綴られているブラウネ牧師の考えに、生産性のない人間を無価値とするならば、高齢者や病気にかかった人など、いずれ自分も無価値になる可能性がある、というのがあります
    本当は価値があろうがなかろうが命の価値は平等という、「積極的な」平等意識を持つべきだと思いますが、今の成熟していない社会(自分も含めて)では、あなたもいつ生産性のない側の人間になるかわからないんだから、生産性と命の価値をわけて考えようよ、そうしないと自分がそうなった時に辛いよ っていう「消極的な」平等意識にならざるを得ないのかな、というのが今の結論です

    最後に本書の中で一生心に刻んでおきたい言葉で終わります
    「生産性や労働能力に基づく人間の価値の序列化、人の存在意義を軽視・否定する論理・メカニズムは徐々に拡大し最終的に大多数の人を覆い尽くすに違いない。つまり、ごく一握りの「勝者」「強者」だけが報われる社会だ。すでに、日本も世界も事実上その傾向にあるのではないか」

  • 世田谷区長の保坂氏の著述。岩波ブックレットは初めて
    読みました。
    去年の相模原事件の破門や、報道のされ方。ナチスのT4
    作戦など。心が震えるような話もありました。
    被害者の家族のうち、匿名を希望される家族も少なくなかったとか。
    いろいろな事情があるのであろうから、一概には当然
    言えないし、言ってはいけないことだと思います。
    優生思想が復活してきそうな風潮のなか、本当に奪っていい
    命など存在しない。
    何をいうべきかわかりませんが。みんなに考えてほしい。
    自分ももっと考えるべきだと思います。
    障害者(あえてそう書きますが)の方々は社会のセンサー
    だと思っています。彼らが暮らしにくいということは、
    社会がおかしくなっているということ。
    手帳はとっていませんが、非常に軽度な高機能広汎性発達障害と
    言われている私の息子は、本当に宝物です。
    自分自身ももしかしたらADHD系ではないかと思うところもありますし、
    彼の友達や、自閉傾向のある仲間のみんなは、
    私たちにとっても、かわいい仲間なのに、家族にとっては
    本当に宝物のはず。
    もしこの子達が、優生思想のもとで、だれかに非難される
    ことがもしあれば、頭がおかしくなりそうです。

  • ドイツのT4作戦についてはNHKで放送されたものをなぞっただけなので、ちょっと物足らない。


    「障害当事者の人々が真っ先に表明したのは施設の問題でした。私は、事件の特異性が成立する条件として、多くの障害者が施設に入所しているという点にすぐに気づきませんでした」
     ここは重要だ。この点についてもっと詳しく知りたかった。
     重度障害者の多くが施設でなく地域で生活していれば、事件は起きなかったのだろうか。

    「事件の特異性にとらわれるだけでなく、事件なき日常性を考え直していくこと」
     

著者プロフィール

1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり16年間の内申書裁判をたたかう。新宿高校定時制中退後、数十種類の仕事を経て教育問題を中心に追うジャーナリストに。子どもたちの間で広がった「元気印」は流行語に。1980〜90年代、世田谷区を拠点に教育問題に取り組むプロジェクトを展開。1996年衆議院初当選。衆議院議員を3期11年務め、総務省顧問を経て、2011年、世田谷区長となる。著書多数。

「2018年 『親子が幸せになる 子どもの学び大革命』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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