魯迅評論集 (岩波文庫 赤 25-8)

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  • 岩波書店
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  • Amazon.co.jp ・本 (275ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003202586

作品紹介・あらすじ

魯迅(1881‐1936)には小説のほかに数多くの評論・随筆があり、寸鉄人を刺す筆を揮った。その中から自己の心境を述べた「『墓』の後に記す」、3.18事件に抗議した「花なきバラ」、林語堂との論争記録「『フェアプレイ』はまだ早い」、講演「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」、遺言を記した「死」など17篇を収録。

感想・レビュー・書評

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  • 儒教倫理や伝統文化・因習に閉塞する清朝末期の中国で、国民の自立と人間性の回復を呼び覚ます魯迅の小説や評論には格別な意義があった。彼の韜晦の表現に込められた辛辣な諧謔は平易な文体で読む人の感性を刺激し何度でも読みたくなる不思議な魅力がある。意表をつくテーマを口語体で淡々と綴り、人を刺す寸鉄のような言葉も国民大衆の心を震わせた。
    魯迅は七年間の日本留学で医学生から作家に転身し、帰国後教育者・作家・評論家として革命期の中国で学生や民衆に最も影響力のある存在になる。その時々の論考を取り上げて構成した評論集(彼はこれを雑文・雑感といっている)である。
    上海で特に親しく交流していた柔石が突然逮捕され誰にも知らされずに処刑された、その悲嘆と怒り、それを知らずに息子は元気に活躍していると信じている両目盲いた郷里の母親・・・印象的な話である。
    「水に落ちた犬は大いに打つべし」という箴言、「ちん」(犬か猫かわからない二股膏薬だから)はことに水中に打ち落としてさらに追い打たねばならぬという。日本留学から先に帰国して革命運動に身を投じた秋瑾女史のことで、彼女を密告し殺害した首謀者を同志王金発が温情で延命させるが体制が変わって逆に彼に殺されるということがあった。又、実直な人が自分で墓穴を掘ることへの戒めとして「失脚した政客にも善玉と悪玉があるのを見分けられずに一律に見て、そのためにかえって悪をはびこらす錯誤である」という。
    これらのことを「私の血で書かれたものではないが、私の同輩および私より年下の青年達の血をみて書かれたもの」であるという。
    自らの死後のことについて、「身内に望んだこと七箇条」(葬式で金は貰うな、さっさと片付けろ、記念はするな、早く忘れて自分の生活をしろ、二代目の空疎な文学者や美術家にはなるな、他人を当てにするな、寛容を言う人に近づくな)は魯迅の衒わない人となりを表していると同時に文筆を武器に厳しい環境を生き抜いた切実さが滲んでいる。
    翻訳した竹内好の編纂が出色であり、評論の選別や並べ方はもとより解説文から彼に心腹する思いが伝わってくる。彼は武田泰淳とともに偉大な「中国の紹介者」だったと思う。
    自分は魯迅について、藤野先生の温情を振り切って医学から文学に転身した経緯がよくわからない。又彼は共産主義者というよりも主体性を重視する自由主義者であり、いわゆるプロレタリア文学者ではない、にもかかわらず死後毛沢東など中国共産党に高く評価された。政治的な思惑に利用されたのであろうが、生きていれば本人が一番「良し」としないであろう。彼は混沌とする革命期の中国にあって、日本における福沢諭吉と夏目漱石を足したような存在であったのだろうか。

  • 読んでてふと、芥川龍之介に似てるなと思った。作品通して今ひとつわからんのが多いのと、洞察力、観察眼が鋭いと評価されるのと、皮肉や嫌味は表面に全開で押し出されてるのと。
    それと何より、面白くない。笑

  • 阿Q正伝に続き、魯迅のエッセー集を読んでみた。阿Qは小説集だったが、こちらは訳者が選んだ魯迅のエッセー集といったところか。そういう意味では、小説より魯迅の人となり、考え方がよりストレートに書かれている。高い理想を持っていながら、非常に現実的な人だったことがわかるが、文芸論になるとちょっと面倒くさそうな人物ではある。随分とペシミスティックだったんだなと感じる一方、当時の混沌や社会の乱暴さを想像するに致し方ないような気もする。先に読んだ小説同様、昔の日本の小説(大正時代頃かな?)の雰囲気がある気がする。

    P.10
    私は今でも、自分が何をしてきたのか、結局わからない。たとえば、土木工事だとする。精出してやってはいるが、台を築いているのか、穴を掘っているのか、わからない。わかっていることは、たとい台を築くにしても、所詮は自分をその上からころげ落とすか、そこで老死をさらすためだということである。もし穴掘りのほうなら、むろん、自分を埋めるためにちがいない。要するに、過ぎ去ることだ。一切のものが、光陰とともに、すで過ぎ去り、まさrに過ぎ去り、やがて過ぎ去るーーただそれだけが。だが、それだけで私は十分に満足である。

    P.17
    古人は、書を読まなければ愚人になる、といった。それはむろん正しい。しかし、その愚人によって世界は造られているので、賢人は絶対に世界を支えることはできない。

    P.66
    われわれ中国人は、舶来のいかなる手技によっても動かされることは絶対にない。それを抹殺し、撲滅する力があるのだから。(中略)私の考えでは、わが中国は、もともと新しい主義の発生するところではなく、また新しい主義を受け入れるところでもない。たまに何か外来しそうがあったとしても、たちどころに色彩を変えてしまう。しかも、そのことを誇りに思っている人が意外と多い。翻訳書の序盤や、外国事情に関する解説や批評をのぞいただけでも、われわれの思想とかれらの思想とは、いく重の鉄の壁でへだてられていることが発見できる。(中略)したがって、了解もできなければ、同情もできず、感応も生まれぬのである。極端な場合は、彼我の間で、是非や愛憎でさえ、反対の結果になりかねない。(中略)中国の歴史の整教のなかには、実際、いかなる思想、いかなる主義も含まれていない。その整教は、ただ二つの物質から成るーー刀と火と。(中略)火が北から来ると、南へ逃げる。刀が前から来ると、うしろへ退く。

    P.72
    人類の滅亡ということを考えるのは、非常に寂しい、悲しいことである。しかし若干の人々の滅亡は、少しも寂しい、悲しいことではない。
    生命の道は、進歩の道である。たえず無限の精神三角形の斜面に沿って登ってゆく。何ものもそれを阻止することができない。
    自然が人間に賦与した不調和は、かなり多い。人間のほうでも、萎縮し、堕落し、退歩したものが相当ある。しかし、生命は、そのために後もどりはしない。いかなる暗黒が思想の流れをせきとめようとも、いかなる悲惨が社会に襲いかかろうとも、いかなる罪悪が人道をけがそうとも、完全を求めてやまない人類の潜在力は、それらの障害物を踏みこえて前進せずにいない。
    生命は、死を恐れない。死の直前で、笑いながら、踊りながら、滅亡した人間を踏みこえて進んで行く。
    道とは何か。それは、道のなかったところに踏み作られたものだ。薔薇ばかりのところに開拓してできたものだ。
    むかしから道はあった。将来も、永久にあるだろう。
    人間は寂しいはずがない。なぜなら、生命は進歩的であり、楽天的であるから。

    P.81(林語堂が語絲でフェアプレイの重要性を説いたことについて)
    では結局、われわれには「フェアプレイ」は一切無用なのかと。私はただちに答えよう。もちろん必要だ。だが時期が早すぎる、と。(中略)相手がきみに「フェア」ではないのに、きみが相手に「フェア」にふるまう結果、自分だけがバカを見てしまって、これでは「フェア」をのぞんで「フェア」に失敗しただけでなく、かりに不「フェア」をのぞんだとしても不「フェア」に失敗したことになる。それゆえ「フェア」をのぞむならば、まず相手をよく見て、もし「フェア」を受ける資格のないものであれば、思い切って遠慮せぬほうがよろしい。相手も「フェア」になってはじめて「フェア」を問題にしても遅くはない。

    P.83
    誠実な人がよく口にする公理についても、それは今日の中国では、けっして善人を助けることにならず、かえって悪人を保護する結果になる。なぜなら、悪人が志を得て、善人を虐待するときは、たとえ公理を叫ぶ人があろうとも、かれは絶対に耳に入れない。叫びはただ叫びだけにおわって、善人は依然として苦しめられる。ところが、なにかの拍子に善人が頭をもたげた場合には、悪人は本来なら水に落ちなければならないのだが、そのとき、誠実な公理論者は「報復するな」とか「仁恕」とか「悪を持って悪に抗する勿れ」とか・・わめき出す。すると、この時ばかりは単なる叫びではなくて、実際の効果があらわれる。善人は、なるほどそうだと思い、そのために悪人は救われる。だが救われた後は、してやったりと思うだけで、悔悟などするものでない。のみならず、兎のように三つも穴を準備してあるあし、人に取り入ることも得意だから、間もなく精力を盛り返して、前と同様に悪事をはじめる。

    P.100
    むかし景気のよかったものは、復古を主張し、いま景気のよいものは、現状維持を主張し、まだ景気のよくないもは、革新を主張する。

    P.109
    ジローはサント・ブーヴの遺稿を編集して、その一部『我が毒』(Mes Poisons)と名づけた。私は、日本語訳で次のような一説を見た。
    「はっきり誰かを軽蔑するというのは、まだ十分の軽蔑ではない。沈黙のみが最高の軽蔑だーー私がここに言うのも、よけいなことだが」

    P.132
    ある外国人たちは、中国人はひどく死を恐れる、という。しかし、これは正しくないーむろん、いつでも何が何だかわからずに死んでしまう、ということは避けがたいとしても。
    人々の信じている死後の状態が、死にたいする無関心をいっそう助長している。誰でも知っているように、われわれ中国人は、幽鬼(ちかごろでは「霊魂」ともいう)の存在を信じている。幽鬼が存在するとすれば、死んでからも、人間ではないにしても、幽鬼になれるのだから、まったく何もなくなるということはないわけだ。ただ、空想されている幽鬼たる期間の長短は、その人の生前の貧富によって、同じではない。貧乏人はたいてい、死後ただちに輪廻がはじまると思っている。その出所は仏教にある。もちろん仏教でいう輪廻は、手続きがめんどうで、こんな簡単なものではないが、貧乏人はとかく無学のために、知らないのだ。(中略)幽鬼の服装は、臨終のときと同じだと伝えられている。いい服装をもたない貧乏人は、幽鬼になったところで、あまりうれしくないわけだ。すぐさま受胎して、まる裸の赤ん坊に生まれかわったほうが、ずっと割がいい。(中略)ときに人間ではなく畜生に生まれかわるかもしれないが、それでもこわくないか、と。しかしかれらはけっしてそう考えない、と私は思う。自分は畜生道におちるような罪は犯していない、とかれらは確信するだろうし、畜生道におちる地位も権勢も金銭もかれらとは縁がなかった。
    もっとも、地位と権勢と金銭のあるものもまた、畜生道におちようとはけっして思っていない。かれらは、一方では居士となって成仏の準備をするが、他方では、読経復古を主張して、聖賢になろうとするのを忘れない。かれらは、生きているときに人理を超越できたとおなじように、死んでからも、輪廻を超越できるものと思いこんでいる。(中略)たいていの貧乏人はすぐ生まれかわるのが得だし、中流のものは、長く幽鬼でいるほうが得である。中流のものがよろこんで幽鬼でいたがるのは、幽鬼の生活(この二字はすこぶる語弊があるが、適当な名詞を私は思い当たらない)が、かれがまだ厭きていない人間の生活の延長だからである。(中略)かなり多くの人々が、なげやりな考えで、臨終でさえ、たいして気にかけないらしい。

    P.137
    熱があったとき、西洋人は臨終の際によく儀式のようなことをして、他人の許しを求め、自分も他人を許す、という話を思い出したことだ。私の敵はかなり多い。もし新しがりの男が訪ねたら、なんと答えよう。私は考えてみた。そして決めた。勝手に恨ませておけ。私のほうでも、一人として許してやらぬ。

    P.142
    人生でいちばん苦痛なことは、夢から醒めて、行くべき道がないことであります。夢を見ている人は幸福です。もし行くべき道が見つからなかったならば、その人を醒さないでやることは大切です。(中略)もし道が見つからない場合は、私たちに必要なものは、むしろ夢であります。
    しかしながら、決して将来の夢を見てはいけない。(中略)私たちに必要なのは夢であるが、それは将来の夢ではなく、現在の夢なのであります。(中略)夢がいい。そでなければ、金銭が大切です。(中略)人類には、ひとつの大きな欠点がある。絶えず腹が減ることです。この欠点を補うためには、傀儡にならぬようにするためには、現在の社会にあっては、経済権がもっとも大切なものとなります。第一に、家庭内において、まず男女均等の分配を獲得すること、第二に、社会にあって、男女平等の力を獲得することが必要です。残念ながら、その力がどうやったら獲得できるか、ということは、私にはわかりません。やはり闘わなければならない、ということがわかっているだけであります。(中略)戦闘は好ましいことではないし、私たちは、誰でも戦士になれ、などとはいえません。とすれば、平和な方法も大切なわけであります。それは何かというと、将来、親権を利用して、自分の子女を解放することです。中国では、親権は絶対であります。そのときになって、財産を均等に子女に分配してやり、それぞれ平和に、衝突を起こさずに、平等の経済権を獲得するようにしてやることは、できるのであります。それからあとは、学問をしようと、金儲けをしようと、自分の享楽に使おうと、社会のために何かしようと、ただ使ってしまおうと、勝手にさせて、自分に責任を持たせる。

    P.207
    これまでの支配階級の革命が、古いイスの奪いあいに過ぎなかったことを物語るものであります。ひっくりかえすときは、いかにもそのイスを憎んでいるようだが、いったんそれが手にはいると、今度は宝物のように見え、おまけに自分までその「古いもの」と同類だと気づきます。いまから二十年あまり前には、朱元璋(明の太祖)のことを民族革命者だといって騒いだものです。じつはそんなものではありません。かれは自分が皇帝になると、モンゴル朝のことを「大元」と尊称したし、漢人を殺すことモンゴル人のときよりひどかった。

  • 文の持つ「重さ」。
    作家自身、作品自体が読み手を拒んでいるとは思いません。
    こちら側の構えというか、気後れというか。
    戦いの間合とは異なった、ある「領域」に足を踏み入れる覚悟。
    何だかそんな情景が浮かびます。

  • 「魏晋の気風および文章と薬および酒の関係」しか読んでない。宮城谷先生の三国志読んだ後でとても興味深かった。

  • 歴史上の、特に日中間の事件や人物の名前がたくさん出てくる。確か学生時代に覚えたな~くらいの、あやふやな記憶しかない。駄目だ。勉強しなおそう!

  • 『『墓』の後に記す』他。<br>
    難しくて頭痛い。

  • \105

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著者プロフィール

本名、周樹人。1881年、浙江省紹興生まれ。官僚の家柄であったが、21歳のとき日本へ留学したのち、革新思想に目覚め、清朝による異民族支配を一貫して批判。27歳で帰国し、教職の傍ら、鋭い現実認識と強い民衆愛に基づいた文筆活動を展開。1936年、上海で病死。被圧迫民族の生んだ思想・文学の最高峰としてあまねく評価を得ている。著書に、『狂人日記』『阿Q正伝』『故郷』など多数。

「2018年 『阿Q正伝』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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