カンタベリー物語 下(完訳) (岩波文庫 赤 203-3)

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  • Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003220337

作品紹介・あらすじ

修道僧による、一七人の悲劇。尼僧付の僧は雄鶏の寓話を、第二の尼僧は聖女セシリアの殉教譚を語る。そこに後から追いついた錬金術師とその徒弟。だが、徒弟にいかさまぶりを暴露されて錬金術師は大あわて。話はなおも続くが、カンタベリーにはまだ着かない。

感想・レビュー・書評

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  • 中世イギリスの詩人ジェフリー・チョーサー(1343?-1400)による物語群、1380年代末頃から晩年にかけて執筆か、未完。

    チョーサーはロンドンの裕福な市民階級出身で、宮廷に仕えながら外交官として大陸へも渡っている。そこで、ダンテ、ボッカチオ、ペトラルカなど当時のイタリア・ルネサンスの詩人たちの文芸に触れ、その影響をイギリスにもたらすことになる。同じ時期にダンテの『神曲』(1321年完成)が当時の知識層の共通語であったラテン語ではなくトスカーナ地方の世俗語で書かれたことでイタリア語形成の基盤となったように、チョーサーが『カンタベリー物語』を当時のイギリスの教養語であったフランス語やラテン語ではなく市民的なロンドンの英語で書いたことがそれ以後の英語による文芸の芸術的な水準を高めることに貢献したと云われる。同時代のこうした文化史的並行関係は興味深い。



    物語の構成は、カンタベリー大聖堂への巡礼中にたまたま同宿した様々な身分や職業の者たちが旅をしながら一人ずつ物語を披露していくというもので、ボッカチオ『デカメロン』(1353年)と同じ「枠物語」の構造をもつ。

    登場するのは、騎士、聖職者、知識層、ブルジョア、下層市民など、上下あらゆる階層に渡る。14世紀後半は、中世的な騎士道精神の文化から近代的なブルジョア的文化へと転換していく時期であり、ロンドンは新興市民階級によって商工業都市として発展していった。チョーサーが『カンタベリー物語』で当時のあらゆる社会階層の人間に話をさせる構成をとった背景には、旧来の騎士階級とは異なる新興の市民階級の存在感が社会において増してきたという事情があるのかもしれない。

    そこで語られる物語は、騎士道物語、説教、寓話、恋愛悲劇、ファブリオ(下世話話・滑稽譚・艶笑譚)など、話者の身分や教養の程度に「ふさわしい」物語が割り当てられているという。この「ふさわしさ」という美意識は、中世の身分制秩序が同時代人の意識に反映したものであろうか。



    読んでいて面白かったのは「粉屋の話」「家扶の話」「召喚吏の話」で、いづれも下品かつ卑猥なファブリオにあたる。特に「粉屋の話」「家扶の話」は他の物語に比べてテンポもよく、そのドタバタぶりが楽しめた。「召喚吏の話」は、老人による子どものような抵抗が笑える。どの話にも、庶民の図太い生命力から来る何事にも構わぬ突き抜けるようなおかしさがある。

    「手短に申しますと、二人は一つになっちまったのです」

    これら"下衆な"話が、"上品で教訓的な"話と同列なものとして並べられているということ自体が痛快だ。物語の配列が云わば"民主化"されているとでもいおうか。ファブリオのような社会的劣位者の憤懣や遣る瀬無さを笑いに転化して紛らわす憂さ晴らしの文化はこの時代に始まったものではないだろうが、新興階級出身の宮廷人であるチョーサーが敢えて騎士階級や聖職者など支配階級の物語と同列にしているところをみると、これは(先ほどとは逆に)封建的な身分制秩序が少なくとも同時代人の意識の中では揺らぎつつあったことの徴候ではないかと想像してしまう。

    さらに「バースの女房の話の序」でバースの女房が語る性的奔放さには、中世的な禁欲から解き放たれて現世的な快楽を味わい尽してやろうとする高笑いが響いているように感じられる。イタリア・ルネサンスの「世界と人間の発見」という時代精神が、ここにも現れていると云えないか。

    「いったい何の目的で生殖器が造られているのかわたしに話して下さらないこと?」

    「お前さんはわたしをお前の金櫃の中に閉じ込めておきたいんだろうよ!・・・わたしたちは自分の行く所を疑い深く見張っているような男は愛さないのです。わたしたちは自由に解き放たれていたいと思うんです」

    「いつもわたしはわたしの欲望に従っていました」

    しかし残念ながら、その他の物語は退屈で説教臭いものが多く、読んでいて楽しくない。特に、女は男の奴隷であり所有物であることを前提としていたりするものなど、フェミニズムによる文化批判を経験している現代の感覚からするとまともに読めない代物も含まれる。それだけフェミニズムが現代人の意識に対して成し遂げてきたこと(いまも成し遂げつつあること)の大きさを感じることができるとも云える。以下の引用は上のバースの女房の引用と同じ者が書いた科白とは思えないが、チョーサーの中では女性や結婚に対してどのような意識だったのか。

    「あなたはわたしたちの領主です。あなたご自身のものに対してあなたのお望みになるようになさいませ。わたしから忠告などお求めなさいますな。というのも、わたしが初めてあなたのもとに参りましたときに、家にわたしの衣類を全部残してきましたようにわたしの意志も、わたしの自由もすべて残して参りました。・・・。わたしはあなたのご意志に従うだけでございます」

    「あなたのもとにわたしは、疑いもなく、忠誠と裸のままの身体と処女とだけを持って参りました」



    詩人チョーサーは、当時の教養に則って、その文章には修辞技法を凝らしている。神やキリストやその他への呼びかけ、神やキリストやその他を持ち出してする誓言、何を如何なるニュアンスで喩えようとしているのかがよく分らなくなってしまうほどに冗長な比喩、修飾句の執拗な並列、神話・聖書・賢者の言葉からの引用の羅列などなど。これらは、文学史や修辞学に興味のない現代の読者にとっては殆ど無意味にしか機能していないのではないか。徒に繰り出される修飾句に妨げられてその向こう側にあるはずの意味にまで到達するのに手間取り、読書のテンポが著しく損なわれてしまう。古典の翻訳文となれば、なおさら文意が頭に入ってくる速度は遅くなる。「メリベウスの物語」などは、始点と終点がなくその中間が修飾句で不格好に膨れ上がっている文字の集塊のようにしか思えなかった。

    神学という形而上学的な観念体系は、キリスト教の無数の抽象概念によって大伽藍の如く厳格かつ複雑精緻に構築されていながら、その実は中心の一点に空虚を抱え込まざるを得ないという不可避の論理的矛盾を内包している。逆に云えば、その空虚な中心を隠蔽し粉飾するためにこそ、神学という大伽藍が必要とされた。修辞学の冗長さは、神学の空虚さを補完する役割を担っていたのではないか。

  • 作中にキリストから見放されたとしてカインの名があげられていました
    当時のイギリスではキリストと神が同一だったのか、キリストは預言者として時代を超えた存在だったのか、どっちだろう?
    時代的に前者かな?

  • 下巻では修道僧の物語、尼僧付きの僧の物語、第二の尼僧の物語、錬金術師の徒弟の話、賄い方の話、教区司祭の話、の計6話を収録。

    どちらもルネサンスを代表する文学作品といえるデカメロンとカンタベリー物語。前者は人間賛歌の色調を常に感じる作品でしたが、後者カンタベリー物語は、上巻こそデカメロンに似ていた雰囲気ですが、最後の下では宗教関係者の話が多く、トリは教区司祭の話で締めくくられました。この点は著者チョーサーのキリスト教的価値観が強く反映されているのかなと感じました。人は罪を避けて生きるべき、と。

    なお、教区司祭の話は、主に7つの大罪(高慢、妬み、怒り、怠惰、貪欲、貪食、姦淫)についての説教について延々と133ページに渡り語られるものです。…大罪のラインナップを見ると、つくづく人間の本性は変わらぬものだなあと感じます。例えば姦淫なんぞは著者の時代である600年も前からやめとけと言われているのに、今でもそれで叩かれる人が多いわけです。こうした『罪』には各々に潜む蜜の味があるのかもしれませんね。

    で、この話はなかなかに退屈なのですが(説教ですからね)、私は我が事として反省しながら読みました。キリスト者ではありませんが、上記のような『罪』が心を乱し、判断を狂わせることがあると感じます。やはり業務遂行をフラットな心で行うためには(不動心が欲しい!)、こうした『罪』は避ける方がよろしいのでしょう。特に私はすぐにキレるし、自分より処遇のいいひとにはルサンチマンをメラメラと燃やしてしまいます。反省です。

    ・・・
    最後に訳者の桝井氏の解説でチョーサーの意図が語られており、それがなかなかに興味を引きました。曰く、巡礼行というフレームの中に多くの階層の人物とそれにふさわしい話を用意した一大集成を企図していたのではという旨です。ちょっと民俗学チックですね。

    こうしてみると、キリスト教的価値観が色濃いながらもやはりルネスサンスの息吹を感じないわけにはいきません。このような神へのまなざしから人間へのまなざしへの転換が見え隠れしてくるところに、私は非常な興味を感じた次第です。

  • 下巻は伝記や説話的な教訓のある話と、司祭のありがた〜いお説教でゲンナリ。構想の5分の1で未完とのこと。

    <修道僧の物語>は人物列伝で軽く歴史のお勉強。<賄い方の話>はからすが黒い理由が非常に教訓的。実用性という意味でこのあとの司祭の話とは対称的だ。

    名言・格言集にでもしたいのか?と思わせた中巻の<メリベウスの物語>よりひどかったのが<教区司祭の話>。物語になっておらず、懺悔にまつわる説教が延々と続く。これには参った。信仰者以外には正直、用事のない話である。と思ったら、これは巡礼行の物語だった。それに、全体が本来の構想では5倍あるはずだった総合的な読み物集だと仮定すると、バリエーションとしてこういった内容のものがいくつか入っていてもおかしくはないのかもしれない。とはいえ、今回はこの部分はパス。3分の1ほど真面目に読んでいたが、最後までこの調子だと気付き、以降は適当に読み飛ばした。新訳が2021年に出ているので、そちらを読む機会があれば挑戦してみよう。

    説教から艶笑談や殉教譚、騎士ロマンスなど、内容の幅の広さ・豊富さから、完成していたらとんでもない超大作になっていただろう本作は、それでも中世の香りを堪能するには十分な傑作だと思う。

  • 修道僧の物語
    尼僧付の僧の物語
    第二の尼僧の物語
    錬金術師の徒弟の話
    賄い方の話
    教区司祭の話

    『カンタベリー物語』について

  • なんか最後でどっと疲れた。説教臭いどころか、説教そのものでくるとは。

  • 最後の話が長すぎ。キリスト教の素養がないとよくわからない。

  • 上・中と順調に読み進んでいたが、下巻は途中まで読んで放置していた。その理由はこの巻の大半を占める「教区司祭の話」が原因。
    カンタベリーに向かう道中に色々な立場の人がそれぞれ話し手となり、物語を述べる、というのがこの作品の趣向。巡礼メンバーそれぞれの関係性や、話そのものの面白さもあって読み進んでいたのだが、最後の最後、「教区司祭の話」の内容は、それまでの他の人々と話の性質が大きく異なる。
    はっきり言ってしまうと、司祭としての「説教」なのだ。
    道徳として見た場合に現代でも見る部分は多いし、解説から想像するに、チョーサー自身が一番力を入れて書いたのはこの話なのではないかなと思う。ただ、「物語」というか「お話」を読みたくてページを繰っていた私は面食らってしまった。
    結局一度間に別の本を挟んでから再度取り掛かり、何とか読み終えた。
    まあ説教の合間から、当時の人々の生活が見える部分もあるので、そういった点は興味深かった。
    例えば、「告解はすべて同じ司祭にしなければ意味がない」という教えには、裏を返せばそうしない人が多いということなんだろうなと笑ってしまった。
    罪を犯した後ろめたさから、別々の相手を選んでそれぞれに小出しに告解したいというのは、人間心理だよなあと思う。合計すれば全部の罪を告解してるから!という理屈なんだろうな。その気持ちはよく分かる。
    などと共感してしまうと、チョーサーには叱られてしまいそうだが。

    下巻で面白かったのは「尼僧付の僧の物語」。あらすじだけを書き出すとイソップ童話等にありそうな内容なのに、表現がやたら格調高く、そのギャップが楽しかった。

  • 6篇を収めている。「修道僧の物語」はひたすら英雄や偉人が栄光のあとに悲惨な死を遂げたという話で、聞いている人はがっかりする。「尼僧付の僧の話」はきれいな雄鳥の話だが、悪い夢をみてそれが現実となり、狐にさらわれるが、狐が最後に追っ手を罵るために口を開いたので、雄鳥を取り逃がす話である。夢についてのいろいろな引用がある。「第二の尼僧の物語」はローマ時代の殉教者セシリアという聖女の話で信仰を貫いて処刑される。「錬金術師の徒弟の物語」は錬金術師の仕事がいかにインチキであるかという話、炭に穴をあけておき、銀のやすりこなが流れ出てくるとかそういう話である。多少化学の話もある。「賄い方の話」は太陽の神の妻が不倫をして、その不倫を当時は真っ白で人間の言葉をしゃべることのできたカラスが告げ口したので、太陽の神に今の姿と声にされたという話である。不倫などは真実でも告げた者が恨まれるという教訓である。最後は「教区司祭の物語」だが、これは説教で、「改悛」について語られており、とくに「七つの大罪」(高慢・妬み・怒り・怠惰・貪欲・貪食・姦淫)という罪とその救済について詳しい。貪欲では「天国は労働する者に与えられる」など、共産主義みたいなことを言っている。名誉毀損や殺人、重婚などの現代では「犯罪」とされる者にも「罪」として説明が与えられており、興味深い。懺悔なども虚栄のためになされることがあり、鋭くそういう人間心理を見ぬいて戒めている。

  • 最後のキリスト教の教説がかったるい。最後でいきなり活力がなくなる。その前の話までは実に楽しい。

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