愛されたもの (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003227749

作品紹介・あらすじ

高度な遺体修復術に、どんな死に方でもお任せください-ハリウッドの葬儀産業を舞台に、青年詩人・遺体化粧師・修復師が繰り広げる"愛"の物語。「神経のタフな読者へ」とウォー(1903‐66)が贈る「死を忘れることなかれ」は、古典と暗喩を巧みに織り込み、鋭い諷刺の奥に深い余韻を残す。

感想・レビュー・書評

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  • 仕掛けが多いのでできるなら最初の方を忘れないよう一気に読んだ方がいい。グロテスクな話を事務的に処理してゆく葬儀屋の場面では別役実の戯曲を思い出し、新聞の悩み事相談は『孤独な娘』を思い出した。註釈がネタバレっぽいのがやや不満か。

  • 今日、死んでる蝉を道中で見た。
    ぴったり寄り添ったまま二匹で死んでた。
    互いの肩で眠るように頭をくっ付け合うその姿が、何だかどうしても羨ましかった。

  •  回想にはお誂え向きの時だった。それで、サー・フランシスは沈黙している番のときに、四半世紀以上も昔に還り、ツェッペリン飛行船の恐怖から永久に解放されて間もない、霧深いロンドンの街を彷徨っていた。
    (p16-17)
    物語の場所はロンドンではなくハリウッド。アメリカのイギリス人三人が話している。サー・フランシスとサー・アンブローズ、それに若い詩人でもあるバーローが給事している、そんな場面から始まる。二人のサー、フランシスが「老人」でアンブローズが「初老」とある。この二人が交互に何かを話している。
     仕事の中には、イギリス人なら絶対にやらないというのがある。
    (p18-19)
    サー・フランシスは若いバーローを家に泊めている。バーローは映画社を飛び出し、別の仕事に就いた。それをここでサー・アンブローズに暗に咎められている。
     シュルツ氏は給料を上げてくれ、青春の傷は癒えた。ここ静かなる地の涯で、彼はそれまで一度しか味わったことがない静謐な喜びを経験した。
    (p35)
    うちの会社にもシュルツ氏いないかなあ…
    それはともかく、「静かなる地の涯」というのはテニソンの「ティトーノス」という詩から。詩人であるバーローは空軍の生活で「詩の愛好者から、詩の中毒患者に変えてしまっていた」。p25の注からすると、不死の元で最後には蟬に変えられてしまったティトーノスは、サー・フランシスの運命を暗示している、のだそうだ。
    というわけで、バーローの今の職場、サー・アンブローズが「イギリス人は絶対にしない仕事」と言っていた仕事とは葬儀社のこと。でも、ペット専門の葬儀社みたいなのだが。一方、長年勤めていた映画社をクビになり、ハリウッドのイギリス人社会の創始者のような存在のサー・フランシスは自死したみたいで、サー・アンブローズの指示によりバーローが葬儀を取り仕切る(バーローがサー・フランシスの首吊り遺体を見た)…という幕開けの展開。
    (そ言えば、シュルツ氏は最後まで給料上げなかった。ま、そんなものか)
    (2021 01/22)

    (昨夜読んだ分)
     デニスがメガロポリタン撮影所に初めてやって来て、スタジオの中を見回ったとき、よほど想像力を働かせないかぎり一見立体的に見える、あらゆる時代のあらゆる地方の街や広場が、実は裏で支えている広告板まがいの、漆喰を塗った薄板だとは見抜けなかった。ところがこの囁きの森では、まったく逆の錯覚が働いた。デニスには目の前にあるのが立体的でがっしりとした恒久的な建物だと信じるのにかなり努力を要した。
    (p54-55)
    デニス・バーローはサー・フランシスの葬儀の為に葬儀社囁きの森へとやってきた。彼のペット葬儀社の隣にある。
     彼女は規格品なのだ。ニューヨークの食料品店でこういう娘と別れたとする。飛行機で三千マイル飛んでサンフランシスコの煙草屋の店先でこの娘と再会ということになる。お気に入りの漫画が地方紙でかならず見つかるように。
    (p71-72)
    …という中で、この次に出てきた遺体整形係?の娘はそうではなく、バーローは気になる…

    (ここから今日読んだ分)
     園主のケンワージー博士はいつも一流好みで、ジョイボイ氏は囁きの森にたいへんな前評判でやって来た。中西部で遺体修復学の学士号をとり、囁きの森に着任する前は何年間か、由緒ある東部の大学の葬儀学部で教鞭をとった。全国葬儀師会の大会実行委員長を二度務めたことがある。ラテンアメリカの葬儀師たちとの友好視察団の団長になったこともある。
    (p87)
    なんらかのパロディであることは確かだけど、なんだろう。ウォーを通して考えるならば葬儀というのを文学に変えるといいのかな。
     そして見えない目をじっとデニスに注いでいる顔-その顔はまったく身の毛のよだつばかりだった。亀みたいに不老で、非人間的で、彩られたにやにや笑いを浮かべる淫らな戯画-これに比べれば、デニスが首吊り縄にぶら下がっているところを見つけた、あの悪魔の仮面めいた顔など、お祭りの仮面、おじさんがクリスマスパーティにかぶる仮面も同然だった。
    (p97-98)
    遺体修復処理されたサー・フランシスを見たデニス・バーローの感想。
    その後、サー・フランシスのオードを作ろうと囁きの森を歩く。湖の島に渡ったデニス(p110のこの島に墓所を求めた「果樹王」カイザーの商品の何か、「ぐしゃりとした甘い綿の玉のようなもの」というのも何かの象徴か)。そこで先述の遺体整形係の女性エイミーに、ここでは私的に出会う。
    エイミーという名前に関する二つの鍵。
    1、エイミーの父は宗教で破産したという。フォー・スクエア・ゴスペル教という、1920年代実在したアメリカ福音派の宗教で、教祖がエイミー・マクファーソンという。エイミーはこれに因んだ名前なのだが、破産後、父母も本人も名前を変えたがった…が、何故かエイミーのままになった。
    2、エイミーのフルネームはエイミー・サナトジェナス…ギリシャ語のタナトス(死)とゲノス(種族)を掛け合わせた姓。名のエイミーはフランス語で「愛された(もの)」の意味。なんだ小説のタイトル(に通じる)じゃないか…
    ということで、エイミーとデニスの間が動き出しそうなのだが、詩引用中毒者?デニスが「いくたびか/安らけき死に半ば恋しつつ…」と引くキーツの「夜鳴鶯に寄せるオード」がエイミーの運命を予兆している、と注にはある。前のティトーノスもそうだったけど、この小説、詩が作品の重要な蝶番的役割をしている。
    (2021 01/23)

     東の空が明るくなった。地球の一日の回転の中で、この最初の新鮮な時間だけが人間の汚れを免れている。この地方では、人々は遅くまで寝ている。エイミーは無数の彫像がほのめき、白くなり、輪郭を露わにするのを恍惚として見ていたが、芝生は銀灰色から緑に変わった。彼女の心は感激に震えていた。それから突然、あたり一帯、目の届くかぎり、丘の斜面は光と無数の虹と点々と灯った炎の、揺らめく表面と化した。
    (p190)
    エイミーの自死の直前から。この前に古代ギリシャの情景が夢想され、もうエイミーの中ではデニスもジョイボイ氏も関係しなくなっている、ということから、彼女は現代ではない、どこかを目指していたのではないか。
    それは、前にエイミーに贈られ、エイミーの葬式(というか遺体処理…囁きの森ではなく幸せの園(ペット専用))で一人デニスが引くこの詩にも呼応している。
     いにしえのニケの小舟か-(彼は繰り返した)
     優しくも 薫りの海を
     疲れたる旅人のせて
     ふるさとの岸に澪入りぬ
    (p209 ポーの「ヘレンに」から)
    しかし、彼はこれを再出発の基点とする。p136で、エイミーより詩のミューズに応えることが重要と言っているように、彼は(ジョイボイ氏から分捕った千ドルを元に)イギリスへ帰還し、作品を書く。多分それは「愛されたもの」というこの作品自体だろう。作品冒頭でこの作品が掲載された「ホライズン」誌と編集長コノリーの名前がそれを示している(というのは解説読んで知る)。
    というわけで解説。
     作品は、デニスを通してスノッブ意識のさもしさ、厭らしさを見せつけた後、同じ構造のヨーロッパの優越意識のまやかしを示そうとしているかに見える。
    (p217)
    デニスとエイミーの関係は「ヘンリー・ジェイムズ問題」(作品内で直接言及あり)の図式だが、サー・フランシス、そしてデニスの経歴は裏返された「ヘンリー・ジェイムズ問題」と言える。そして、この作品書いたウォーとデニスが重ねられていることから、ウォー自身もそこから逃れられない、自分を含めた全体を嘲笑しようという意識があると思う。
    (逆向きの「ヘンリー・ジェイムズ問題」についての作品は、この後1960年代に多数書かれたと、初版で出淵氏が書いているのだが、オリエンタリズムやポストコロニアル思想が全面展開している今日、それらに吸収されている、とこの文庫の解説で中村氏は述べている)
    (2021 01/24)

  • イギリス人のデニスは詩人として本国でそこそこ評価されていてハリウッドに出てきたものの、ぱっとせず映画会社をクビになる。そこで彼はペット葬儀師として働き始めるのだが、英国人社会からは卑しい職業と顰蹙を買っていた。同じくイギリスの出身で、映画会社を解雇されて自殺したサー・フランシスの葬儀をきっかけに、デニスは遺体化粧師エイミーと親しくなるが…。アメリカ式の過剰な葬儀ビジネスに対する皮肉が痛烈。最初はデニスの人でなしぶりを笑っていられたが、読後はサイコパスにしか見えなくなってくる。ウォーの露悪的な所は嫌いじゃないけど「ヒッチコック劇場」的オチに笑っていいのか、胸クソと憤慨すべきか悩んでしまった。対アメリカ版オリエンタリズムがいやらしいというか「いけず」というか。副題に「英米悲劇」とつけるセンスがまた黒い(1948)

  • 高度な遺体修復術に、どんな死に方でもお任せください――ハリウッドの葬儀産業を舞台に、詩人の卵・遺体化粧師・修復師が繰り広げる〈愛〉の物語。「神経のタフな読者へ」とウォー(1903-66)が贈る「死を忘ることなかれ(メメント・モリ)」は、暗喩と引用を巧みに織り込み、鋭いユーモアの奥に深い余韻を残す。

  • イーヴリン・ウォー の作品を読める幸せ!

    主要登場人物のひとりである詩人でペット葬儀社に勤務するデニス・バーロー。彼の残虐な愛(というか愛していない)と、“人の死”を極上にセレブレイトする「囁きの森」の遺体修復師ジョイボイ氏の見せかけだけの愛、そして、哀れな化粧師エイミー・サナトジェナスの未熟な愛——
    主要登場人物三人の愛は、果たしてどこに向けられたものだったのか?
    『愛されたもの』とはとんでもなく皮肉なタイトルなんじゃないだろうか?
    あまりに救いのない物語に対して、光景や場面描写の美しさがかえってグロテスクに思えてくる。

    ペットと人間の違いこそあれ対照的な二つの葬儀社の、そこで働く従業員の人となりを通じて浮き彫りになるのは、当時の英米の社会構造の対比? 宗教的な意味合いについては、残念ながらあまりよく理解できないけれど……。

    「メメント・モリ」が、上皮を一枚ひっぺがされることと同義とは思わなんだ(笑)

  • 葬儀屋の女性に英国人の青年が恋をし、そこからスラップスティックな展開が繰り広げられる。登場するのは死を扱う職業の人物ばかり、且つ作中で亡くなる人や動物もいるのだが、そこを笑いに変えてしまうユーモアはいかにも英国である。例えば、ヒロインの女性の名前は"Thanatogenos"。これはギリシア語で「死」を意味する"Thanatos"からとっているようであり、作者の遊び心が感じられる。
    原題は"The Loved One: An Anglo-American Tragedy"であるが、"Tragedy"と"Comedy"の折衷である"Tragicomedy"のほうが適切かもしれない。
    ハリウッド映画の黄金期(スタジオ・システムが活発な時代、名作が大量生産された)の終焉の頃に書かれた作品で、アメリカの商業主義を痛烈に批判をする一方、そんなアメリカへの憧れも感じられる。解説によると英国のオリエンタリズムの対象が東洋からアメリカに移行したということらしい。
    アメリカ滞在の際、そこでの待遇に不満を持ったウォーのMGMへの違和感が1948年頃からのスタジオ・システムの終焉に影響した(?)と考えるのは深読みのしすぎかも知れない。(因みにこの作品の初出は1948年。)
    メメントモリというと、17世紀のフランドル絵画に頻出の骸骨を思い出すばかりである。

  • 葬儀屋の女性が壇蜜に脳内変換。黒い髪、赤い唇。

    光文社訳は親切丁寧ライトにわかりやすく、岩波の訳は上品で格調高い。岩波のほうが好み。

  • 原題は“The Loved One: An Anglo-American Tragedy”。イーヴリン・ウォーの新刊が出ると聞いていて脳内キープしていたら、ほぼ同時期に光文社古典新訳文庫からも発売されたのを知って驚いた。同じ作品がこれだけ近い期間にバージョン違いで発売されるというのは珍しいと思うので、どっちも読んでみたいとは思ったものの、とりあえず、順番としてまずこちらを手に取った。

    舞台はアメリカ。イギリスからアメリカへ渡って仕事をしている男性2人の会話から始まる。片方の、年上の男はそれまでそこそこ成功していたらしいが、年下のほうはそうでもないらしい。そもそも、当時、そこそこの身分のあるイギリス人がアメリカで働くということは「都落ち」に近いらしく、決して愉快な会話ではない。そんな会話が延々と続き、文庫の惹句などでぼんやりと情報を得ている読み手としては、どこで物語の本筋に持ってくるのか…と少々やきもきする。でも、ある瞬間でそこにすうっとつなげていく巧みさというか、展開を読ませない序盤は見事だと思う。

    皮肉に富んだ作品といわれるが、あちこちに地雷のようにまかれている(と思われる)皮肉にまったく気付かずに、ストーリーを追って読み進むだけでも面白い。主人公・デニスの出入りする業界というのはかなり特殊で、彼と接点を持つ数人も、特殊なキャラクターだと思う。デニスが詩人の経歴を持つため、キーツやテニスンなどを引用しながら進む、繊細な芸術家ともいえる職業人たちの繊細な感情のやりとり…と思いきや、その方向が徐々に狂ってきて「えええっ?」となり、「お前ら、そういうヤツか!」という黒さでくるんで一気に盛り上げてばさっと切るという、もう衝撃の作品ですよ、これ。いやあ、ひさびさにびっくりしたし、笑っちまったよ、あたしゃあ。

    訳については、出淵博氏の訳をできるだけ残した、中村健二氏による改訂ということで、クラシカルな文章運びだと思うけれど、決して読みにくくはない。訳注に少々ネタバレ感が漂うものがあるものの、それが呼び起こすイメージを知っていたほうがいい、という訳者さんの配慮であるから、そこは許容範囲かと。この感想を書いている時点で、光文社古典新訳文庫版をまだ読んではいないけれど、タイトル訳などの点からなんとなく、こちらのほうがいいのではないかと思っている。短い作品なので、原著を読んでみても面白いかな?と…ただし、私に根性があればの話。

  • 光文社古典新訳文庫からも同じものが『ご遺体』のタイトルで出ている。
    読み比べてどちらが好きかというと、岩波だなぁ。

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著者プロフィール

Evelyn Waugh(1903-1966)
イギリスの著名な出版社の社主で、文芸評論家でもあったアーサー・ウォーの次男として生まれ(長兄アレックも作家)、オクスフォード大学中退後、文筆生活に入る。デビュー作『衰亡記』(1928)をはじめ、上流階級の青年たちの虚無的な生活や風俗を、皮肉なユーモアをきかせながら巧みな文体で描いた数々の小説で、第1次大戦後の英国文壇の寵児となる。1930年にカトリックに改宗した後は、諷刺の裏の伝統讃美が強まった。

著作は、代表作『黒いいたずら』(1932)、ベストセラーとなった名作『ブライヅヘッドふたたび』(1945)、T・リチャードソン監督によって映画化された『ザ・ラヴド・ワン』(1948)、戦争小説3部作『名誉の剣』(1952-61)など。

「1996年 『一握の塵』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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