- Amazon.co.jp ・本 (282ページ)
- / ISBN・EAN: 9784003362327
作品紹介・あらすじ
かつて人間は不平等のほとんど存在せぬ自然状態にあったが、歴史的な進歩という頽落の過程をへてついには「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけをもつ存在に堕する。それが専制社会における人間の悲惨なのだ、とルソー(1712‐78)は論じ、同時代の社会と文化を痛烈に批判した。いまも現代人に根元的な思索をうながしてやまぬ書。
感想・レビュー・書評
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18世紀フランスで活躍した哲学者ルソーが、同時代の社会と文化を痛烈に批判した書。氏は言う。かつて人間は不平等のほとんど存在せぬ自然状態にあったが、歴史的な進歩という頽落の過程をへて、ついには「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけをもつ存在に堕ちた、と。
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自然状態から社会ができると不平等が生じ、富と権力の差が僭主制に帰着する。
◯理性に先立つ二つの原理
自己愛、われわれの安寧と自己保存とについて、熱烈な関心をわれわれにもたらせるもの
憐みの情、あらゆる感性的存在、主としてわれわれの同胞が滅び、または苦しむのを見ることに、自然な嫌悪を起こさせるもの
◯個々の人間が同一の社会に結合されて、いやおうなしに相互に比較し合い、また、たえず相互に利用し合わなければならない関係のなかに見い出す差別を考慮に入れざるをえなくなると、たちまち個々の人間の間に信用と権威との不平等が避け難いものとなる -
人間不平等起原論→ジュネーブ草稿→社会契約論
と進んでいくルソーの歩みの中で、往々にして軽視される作品だが、ホッブス批判から始まるその論理の精巧さには目を見張るものがある。個人的には、三本の指に入る本。 -
かつて人間は不平等のほとんど存在せぬ自然状態にあったが、歴史的な進歩という頽落の過程をへてついには「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけをもつ存在に堕する。それが専制社会における人間の悲惨なのだ、とルソー(1712‐78)は論じ、同時代の社会と文化を痛烈に批判した。いまも現代人に根元的な思索をうながしてやまぬ書。
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金大生のための読書案内で展示していた図書です。
▼先生の推薦文はこちら
https://library.kanazawa-u.ac.jp/?page_id=28924
▼金沢大学附属図書館の所蔵情報
http://www1.lib.kanazawa-u.ac.jp/recordID/catalog.bib/BN0091301X -
不平等がなぜ生まれたのか、熟考すれば分かることだが、本書は原初の人類まで遡って、不平等の歴史を丁寧に述べている。
分かりやすい内容だっが、推論の域を超えていないとも感じる。
不平等の時代をどう生き抜いていくのかは、自分で考えねば。
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人類が実現したあらゆる進歩は、人類を原初的な状態からたえず遠ざけつづけているのだ。わたしたちが新しい知識を獲得すればするほど、もっとも重要な知識を獲得するための手段がますます失われていくのである。こう言ってもいいだろう、人間を研究すればするほど、人間を知りえなくなるのだ、
人間の魂の原初的でもっとも素朴な働き について考察してみると、理性に先立つ二つの原理を見分けることができるということである。一つの原理は、わたしたちにみずからの幸福と自己保存への強い関心をもたせるものである。
もう一つの原理は、感情をたあらゆる存在、とくに同類である他の人間たちが死んだり、苦しんだりするのをみることに、自然な反感を覚えることでわたしは人類には二種類の不平等があると考えている。
一つは自然の不平等、または身体的な不平等と呼びたいものである。
利己愛を作りだすのは理性の力である。
そして省察がそれを強める。省察においては人間は自己のうちに閉じこもるのである。人間は省察しているあいだは、自分を苦しめ悩ませるものから遠ざかる。哲学こそが、人間を孤立させるのである。
ある広さの土地に囲いを作って、 これはわたしのものだ と宣言することを思いつき、それを信じてしまうほど素朴な人々をみいだした最初の人こそ、市民社会を創設した人 なので
奴隷たちに残された唯一の美徳は、批判せずに服従することだけである。 新たな自然状態 これが 不平等のゆきつくところ、究極の場所で野生人はみずからのうちで生きている。
社会で生きる人間は、つねにみずからの外で生きており、他人の評価によってしか生きることが
自分が生きているという感情を味わうことができるのは、いわば他人の判断のうちだけなので
この主題について研究できるのは歴史的な真理ではない。仮定と条件に基づいて推理できるだけである。真の起源を明らかにするのではなく、事態の本性を解明することがふさわしいので人間が自然状態(エタ・ド・ナチュール)から出たあとでなければ考えることのでき知識、すなわち社会状態についての知識を自然状態にもちこんでしまうのでその法についての知識もった上で、その法にしたがうという意志をもつことが必要である」。それが 自然の 法であるためには、「 その法が自然の声をもって人に語りかけるものでなければならわたしが、自分に似た存在者にはいかなる害もなしてはならないという義務を負う」この種の不平等はさまざまなから生まれるもので、一部の人々が他の人々を犠牲にして、この特権を享受する。
たとえば他の人々よりも豊かであるとか、尊敬されているとか、権力をもっているとか、何らかの方法で他の人々を服従させているとかで人民が現実の幸福を捨てて、観念のうちで休息を 贖うことを決意できた彼らのすべての権力と強さを、一人の人間または人々の一つの合議体に与える( 20)」ことでこのホッブズの自然状態と社会の成立の理論にたいして、ルソーはホッブズが「 権威や政府という語の意味が人間のあいだに生まれるようになるまでに、長い時間が経過する必要があったことは、まったく考慮にいれなかった」と批判これらの自然状態の論者はいずれも、還元が不十分であり、真の自然状態に溯ることができていないとルソーは考える。
「 結局のところ誰もが、欲求について、貪欲さについて、抑圧について、欲望について、驕りについて語りながら、社会のなかでみいだした考え方を、自然状態に持ち込んだのだった」。
誰もが「 野生人(オム・ソヴァージュ)について語りながら、社会のなかの人間を描いていルソーは人間が老齢とともに「 自己改善能力によって獲得したすべてのものを失ってしまう」のであり、「 動物よりも劣った存在になってしまう」と考えるのでさまざまな技術と知識を開発して、輝かしい文明を築くことができる。
そしてこの能力こそが「 人間を自己と自然を支配する暴君」に変貌させてしまったものなので自然に帰るのではなく、自由で道徳的な生き物として、美徳を学び、「 永遠の報奨をうけるにふさわしい存在となる」ことを目指すというものだった。
ルソーがこの論文を書いた目的の一つが、人が自然状態から社会状態に移行していった理由を解明することにあったからで自然状態は、「 わたしたちの自己保存の営みが、他者の自己保存の営みを害することのもっとも少ない状態であり、この状態こそが、ほんらいもっとも平和的で、人類にもっとも適した状態だ」とルソーは主張している。
最後にルソーは人間が自分の自由を放棄できるというグロティウスやプーフェンドルフの理論を三つの観点から批判する。
第一に、人間が自由を放棄した場合には、他人がその相手に命令することで悪事をさせることができる。そしてその悪事にたいして責任を負うのは命令した人ではなく、実際に悪事をなした人で
第二に、自由は財産のようなものではなく、「 自然から与えられた貴重な贈物」である。この自由は人間の品位を保つために絶対に必要なものであり、これを放棄することは「 自然をも理性をも冒瀆する」ものであり、いかなるものによってもこれを償うことはできない。
第三に、ローマ以来の法律では、奴隷の子供は奴隷となることが定められている。その場合に、ある人が自由を売って奴隷となった場合には、その子供たちもまた奴隷になることを意味する。 -
ルソーの想像力・論理思考力・そして倫理観に感服。250年以上も前に書いたものがまるで去年書いたかのように通用する、その普遍性に驚く。