天体による永遠 (岩波文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784003422519

作品紹介・あらすじ

19世紀稀代の革命家ブランキ(1805‐1881)は、パリ・コミューン勃発の前日に逮捕される。トーロー要塞幽閉中に書かれた最後の著作が本書である。それは革命論ではなく、宇宙の無限から人間を考察したものだった。想像力を広大な宇宙に飛翔させ、そこでブランキが見たものは?ベンヤミンを震撼させたペシミズムの深淵。

感想・レビュー・書評

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  • 19世紀フランスの革命家オーギュスト・ブランキ(1805-1881)による宇宙論的形而上学的著作、1872年。

    ブランキは、1830年七月革命、1848年二月革命、1871年パリ・コミューン蜂起など、19世紀フランスの殆ど全ての革命運動に指導的に関与していたとされ、あらゆる政治体制下で延べ33年ものあいだ獄中生活を送った(本書巻末に5ページに及ぶ「〈付録〉ブランキ監獄年表」あり)。『天体による永遠』もトーロー要塞の土牢の中で執筆されている。「武装蜂起」「陰謀家」「秘密結社」といった印象が強烈なブランキであるから、天文学に関する科学的考察を通してそこから形而上学的帰結(同一物の永劫回帰)を導き出すような論文を書いていたことに、意外の感を抱く。尤も、訳者解説によると、彼はアナキスティックな無秩序よりも寧ろ数学的な秩序を志向する傾向があったという。

    ブランキは、当時の天文学の標準理論であったラプラスの太陽系生成論(所謂カント=ラプラスの星雲説)を参照しながら、彗星の正体や太陽系の起源について疑問を提示し、ラプラスの理論を批判継承して、彼独自の理論を展開していく。

    □ 無現/無際限、巨大数

    まず、宇宙が空間的にも時間的にも無限であることが論じられる。なお、本書後半に示される「永劫回帰」の思想も、有限と無限の関係から導き出される。

    「その[世界の境界面の]実体が何であれ、それは直ちに、それが限るものあるいは限っていると称するものの延長になってしまう。仮にこの境界面が、固体でも液体でも気体でもなく、エーテルでさえもないとしよう。すると、そこには空虚な、暗黒の宇宙空間があるばかりだ。しかし、だからといって、その空間が三次元を持つことに変りはない。それは必然的に境界として、ということは延長として、別の新しい、同じ性質の空間を持つだろうし、その向こうにもまた一つの空間が広がり、さらにその向こうにも次々と新しい空間が継起して、際限もなく続くのである」(p8)。「物質は無から生じたのではない。したがって、それが無に帰することは絶対にない。物質は永遠で不滅なのだ」(p9)。

    人間理性は、宇宙の無限性を無際限という形でしか捉えられない。こうして、宇宙の無限性を無際限として表現するために、「地球から秒速七万五〇〇〇里の光速で一〇〇〇年以上かかる彼方の星まで届く数字の列」というような、有限数ではあるが途方もない大きさである巨大数が持ち出されることになる。

    「こうして我々は、知性の枠を踏み越えることなく、しかし同時に無限を傷つけることもなく、自由に無際限を拡大することができる。たとえ一つ一つの言葉が、いかに戦慄すべき距離の標識であったとしても、そしてその言葉を、一秒に一回の割合で一〇億の何十億倍世紀しゃべったとしても、こと無限に関する限り、結局、何ほども表現したことにはならないだろう」(p14)。

    ここでブランキは、日常感覚的に把握可能な有限数と理性によっては把握不可能な無限との中間に位置付けられる巨大数の特徴を、はっきり捉えている。

    □ 革命のイメージ

    彗星の正体や太陽系の起源に関する科学的な考察(それが現代科学の立場から見てどこまで正当なものかはここでは措く)の中に、ときおり、ブランキが天体現象に自らの革命のイメージを重ねているかのような記述があり、興味深い。

    「今日では誰もが彗星をひどくばかにしている。彗星は優越的な惑星たちの哀れな玩具なのだ。惑星たちは彗星を突き飛ばし、勝手気ままに引きずりまわし、太陽熱で膨張させ、あげくの果てはズタズタにして外に放り出す。完膚なきまでの権威の失墜! かつて彗星を死の死者としてあがめていた頃の、なんというへり下った敬意! それが無害と分かってからの、なんという嘲りの口笛! それが人間というものなのだ」(p32)。

    あらゆる政治権力によって弾圧され続けた自身の遍歴を、この彗星に重ねたのか。

    「共に生まれ、大空をめぐり、そして死んだ星たちの巨大な渦巻の一つが、何百万世紀経って、ようやく自分の前に開かれた宇宙空間を渡り終えようとする時に、そこへやってきた別の燃えつきた星の渦巻き群と、双方の境界線上で衝突する。猛り狂った乱闘が一〇億の何十億倍里以上の広大な戦場において開始され、果てしない歳月にわたって続くのだ。宇宙のこの一角は、今や、恒星や惑星を瞬時に蒸発させてしまう猛火の稲妻が、絶え間なく切り裂いて走る炎の海と化す」(p60)。

    「衰弱してまもなく分解する、このいわゆる調和の乱れが、常時発生していないような場所はどこにもない。重力の法則は、こうした不測の派生現象を何百万と抱えている。そこから、ある時には流星が生れ、またある時には太陽=星が生れるのである。それならばなぜ、全体的な調和の世界から、そうした派生現象だけを追放するのか? なるほど、このような偶発事は我々を不快にする。だが、我々はそこから生れたのだ! それらは死の対立物であり、普遍的な生命の、常に開放された源泉なのである。重力が天体を再創造し、そこに生物を住まわせることができるのは、良き秩序を目指す重力の、永続的な挫折のお蔭である。人々が称賛する良き秩序は、天体が虚無の彼方に消えてゆくのを放置するだけであろう」(p71ー72)。

    死した旧体制は、そのままでは何も生みださない、死した秩序を惰性的に維持し続けるだけだろう。そこから新しい生命が生み出されるためには、そうした静的秩序を逸脱し攪乱しそこに動的混沌をもたらす「反-秩序」の契機が、安定した同一性を不安定化させる「差異」の契機が、必要である。これがブランキの革命家としての信念だったのではないか。これはちょうど、デモクリトス原子論の決定論的世界観にエピクロスの「逸脱」の契機を対峙させてそこに人間の自由意思の可能性を救い出そうとした、若きマルクスの発想と相似的であると云える。

    □ 永劫回帰

    天文学上の科学的な考察の帰結として、ブランキは「同一物の永劫回帰」の思想を語り出す。論理は以下のように整理されるだろう。①物質を構成する元素の種類は高々有限である。そうした有限種類の元素の有限個の順列組合せから成る物質の種類も、やはり高々有限である。②一方、宇宙の時空間は無限である。③高々有限の種類の物質が、時間的にも空間的にも無限の広がりをもつ宇宙において到る所で永遠に生成されている以上、同一物が時間的にも空間的にも無限に反復されることになる。則ち、同一物は、無限に延びる時間軸上の無限個の時点毎に回帰するだけでなく、無限に広がる座標空間中の無限個の地点毎に回帰する。こうして、元素の有限性と宇宙の無限性とから、有限物の無限の反復が導き出される。ここには、無限というものが、有限のあらゆる可能性を全て必ず実現させられるほどに豊かなものである、という前提がある。「永劫回帰」思想は、有限に対する無限の超越性に依存している。

    「その結果、全天体は、それがどのような天体であろうとも時空の中に無限に存在する。そのさまざまな位相のうちの一つが存在するだけでなく、誕生から死までの生涯の一瞬ごとの天体が無限に存在する。大小を問わず、生物も無生物も、天体上に分配されたすべての存在は、この永続性の特権を分かち合っているのである」(p131)。

    「一九世紀の人間である我々の出現の時は永遠に固定されて、我々はいつも、同じ経験を繰り返させられる」(p134)。

    「新しいものはいつも古く、古いものはいつも新しい」(p132)。

    「もしも誰かが、宇宙の幾つかの地域にその[永劫回帰の]秘密を尋ねるべく問いを発したら、彼の何十億という瓜二つ人間も、同じ考えと同じ疑問を持って同時に空を仰ぎ、目に見えない彼らのすべての視線は交差する。そしてこの沈黙の問いかけが宇宙をよぎるのは一度きりではなく、常時なのである。瞬間ごとの永遠が今日の状況を、すなわち、我々の瓜二つ人間を載せた何十億という瓜二つの地球を眺めてきたし、これからも眺めるであろう」(p123)。

    この「永劫回帰」の観念は、当然のことながら、進歩の否定が帰結される。

    「ところが、ここに一つ重大な欠陥が現われる。進歩がないということだ。ああ! 悲しいことに、それは事実なのだ。なにもかもが俗悪きわまる再版であり、無益な繰り返しなのである。過去の世界の見本がそのまま、未来の世界の見本となるだろう。ただ一つ枝分かれの章だけが、希望に向かって開かれている。この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい」(p133)。

    「永劫回帰」は、生の無限の反復を含意する。そこでは、生の方向性と一回性という二つの観念が否定される。これは、キリスト教終末論に代表される目的論的歴史観に対するアンチテーゼとなる。なぜなら、目的論的世界観では、生は唯一の目的=方向=意味に向かって直線的にただ一回限りで進行するものとして捉えられるから。①生には如何なる方向性もない。則ち無意味である。②ただ一回限りの生というものは在り得ない。則ち生は、無限に延びる時間軸上の過去において既に反復されてきたし、未来においてこれから反復されるだろうし、現在においても無限に広がる座標空間中のどこかの地点でいままさに反復されている。以上二点は、現状の生を肯定できないでいる者にとっては絶望でしかなく、まして現状の変革を目指す革命家にとっては致命的な形而上学に違いない。「永劫回帰」という観念には、否定だとか超越だとかいう契機が入り込む余地がない。ぺシムズムとするのも尤もではある。

    しかし、一回の生の上に無限に課せられた意味の荷重が、無限の反復のたびに軽められていく、と考えればどうだろうか。一回の歴史の内にその痕跡をべったりと粘着質にこびりつかせるような生ではなくて、無限の反復の内にさらさらと透明に霧消していってしまうような、そんな生のイメージは不可能だろうか。どうせいつかどこかで/いつでもどこででも繰り返されているのだ、それが一人の私であるということに如何ほどの意味があろうか。個人 individual という観念の唯一無二性と分割不可能性とが、無限の反復可能性の裡に無化されてしまえばいい。そう考えれば、オプティミズムの響きも聞き取れるかもしれない。

    いずれにせよ、ブランキは「永劫回帰」思想を抱きながら、その上でなお10年近く革命家として活動を続け、革命家のまま死んでいった。以下の個所で、革命家としての生成変化の世界観と、自らたどり着いた「永劫回帰」思想とが、「改造と内在性の世界」として結びつけられている。

    「宇宙は同時に、生と死であり、破壊と創造であり、変化と安定であり、喧騒と休息である。それは、果てしなく結び、またほどけ、絶えず生れ変る存在を擁しながら、常に同一である。その絶えざる生成にもかかわらず、宇宙は鉛の版となって、休む暇なく同じページを印刷し続けている。全体も部分も、宇宙はすべて、永遠に改造と内在性の世界なのである」(p125)。

    □ 補遺

    ベンヤミンは、「永劫回帰」の考えが19世紀後半に同時代的に出現したことに注意を促している。「永劫回帰の観念が、ほぼ同じ時期にボードレール、ブランキ、そしてニーチェの世界に入り込んでくるさまを、力を込めて叙述しなけらばならない」(ベンヤミン「セントラルパーク」『ベンヤミン・コレクションⅠ』)。ボードレール『悪の華』初版1857年。ブランキ『天体による永遠』出版1872年。ニーチェがスイスのシルヴァプラナ湖畔で「永劫回帰」の直感に襲われたのが1881年。ここに、1890年にポアンカレが天体力学の三体問題に関連して発表した「回帰定理」(一定の条件の下では、力学系は、十分長い時間が与えられれば、初期状態に限りなく近づく)を加えてもいいかもしれない(鈴木真治「歴史的に観た巨大数の位置づけ」『現代思想 巨大数の世界』)。

    以下、「永劫回帰」に対する現代科学の立場からの反論をいくつか。

    ①熱力学第二法則により、エントロピーは不可逆的に増大し続けるので、同一状態が回帰することは不可能。なお、ボルツマンが熱力学第二法則を分子論的に説明しようと試みた「H定理」に対して、ツェルメロがポアンカレの「回帰定理」を根拠に不可逆過程は不可能であると反論(「再帰性のパラドクス」)、またロシュミットが「時間対称的な力学から不可逆過程は導かれない」として反論(「時間の矢のパラドクス」)。

    ②熱力学第二法則により、宇宙はエントロピーが不可逆的に増大し続けて或る時点で最大となり、全てのエネルギーが均等に分布した状態に入りそこで熱的死を迎えるため、時間の無限性が成立しない。なお、膨張する宇宙ではエントロピーの不可逆的増大が必ずしも熱的死を迎えるとは限らない、という議論もある。

    ③ポアンカレの「回帰定理」に基づいて宇宙が初期状態に戻るまでの時間を計算すると、10^(10^(10^(10^(10^1.1))))年であり、現実の宇宙のスケールにおいて永劫回帰が実現可能であるか疑わしい。

    ④元素の種類は有限であるとして、その集合を E とおく。有限集合 E から重複を許して任意有限個の要素を取りその任意の順列を要素としてもつ集合を、P(E)とおく。時空間は連続体濃度の無限集合であるとして、その集合を R とおく。このとき、R から P(E) への単射が存在するか、則ち card(R) ≦ card(P(E)) であるか。yesであれば、ブランキの議論からは必ずしも「永劫回帰」の実現は帰結されない。noであれば、「永劫回帰」の実現の可能性は残される。いま、card(R)=ℵ、card(P(E))=ℵ0 であり、ℵ0<ℵ であるから、card(R)>card(P(E)) 。よって、「永劫回帰」の実現の可能性は残される。

    ※ 実在の連続性とは、極微小時間を周期とする「永劫回帰」の不連続的なつぎはぎとして捉えられないか。「永劫回帰」の周期は必ずしも巨大数スケールであるとは限らないのではないか。「永劫回帰」は物理法則を超越して不連続的に突如として起こり得るのか。

  • フランス史に名を成す著名な革命家が、40年を超す獄中生活で書き残した思想書。天文学に材をとっている。
    当時(19世紀)の先端的な天文学的発見を根拠にして、宇宙の運動法則を演繹し、あまたの恒星系の行く末を予測している。そこから論は人類におよび、繰り返されるだけで進歩のないペシミスティックな永劫回帰が語られる。
    革命家が悟る、進歩を伴わない永遠の反復は、そのこと自体が悲劇的だ。しかしながら、宇宙的全体性から引き下ろしてきた人類の悲劇的な姿を論ずるブランキの語調は、安息に近いものを感じさせる(諦念を伴いながら)。
    囚われの要塞という息詰まる閉塞状況下で、文字通り宇宙大に翼を広げるブランキの思考に、畏怖する。ある強靱な魂を極限状態におくと、ここまで血の滲んだ思考の膨張が起こりえる、という感動がある。

  • 人生の大半を牢獄で過ごした革命家が、最晩年の牢獄で書き上げたのは、宇宙論だった...。そこに籠められた含意を汲み取れたとは思わないが、目に止まったところを以下に。/宇宙は永遠であり、天体は滅びゆく運命にある。(略)我々の踏み締める一歩ごとのわずかな大地も、全宇宙の一部なのだ。しかし、それは沈黙した証人にすぎず、「永遠」の中で彼が見たものを語ることはない。/宇宙には始源がないのだし、その結果、人間にもまた始源はないのだから。/未来においても決して、何十億という別の我々自身が、生れ、生き、そして死ぬというサイクルを繰り返さないような時は来ないだろう/この地上で我々がなりえたであろうすべてのことは、どこか他の場所で我々がそうなっていることである、ということを忘れまい。/宇宙は限りなく繰り返され、その場その場で足踏みをしている。永遠は無限の中で、同じドラマを平然と演じ続けるのである。/「永劫回帰の観念がほぼ同じ時期にボードレール、ブランキ、ニーチェの世界に出現したことは力を籠めて言われねばならない」(ベンヤミン「セントラル・パーク」)

  • ナポレオンから第3共和制までの、フランス政治史の中でも激動の時代に生きた「革命家」である。
    半端じゃないよー!
    50回以上の通算40年を超える禁固刑にめげることなく、指導者として革命家であり続け。67歳で幽閉されたトーロー要塞はブルターニュ半島の先端近く、イギリス海峡の荒波に揉まれる岩礁の上に築かれた古い要塞。囚人独りに駐屯部隊がつく。映画「パピヨン(古いわー)」の世界だよ。
    そんな中で想いを馳せるのは無限の天体に循環思想だよ。幾らニーチェとの相似点があったって、この不屈の精神は「ペシミズム」じゃない。
    ノリは全然違うけど、現実からぶっ飛んで、ココロは宇宙に飛んじゃうトコ、足穂ちっくと言えなくもない。

  • 宇宙は無限であるのに対し、原子の種類は有限である。ゆえに無限の宇宙は有限の原子の組み合わせが繰り返されているだけだ。すなわちこの宇宙のどこかに、この地球と同じ星は存在し、そこには私たちと同じ人類が生息しているはずだ。しかもその数は無限なのである。その無限に存在する地球のコピーの星の中にはナポレオンが勝利を収めた星もあれば市民の革命が成就した星もあるはずだ。失敗に終わった企ても、どこかの星では成功しているに違いない……。19世紀フランスの革命家が獄中で構想した本書は、宇宙の無限性を語りつつやがてパラレルワールド論を展開するに至り、永劫回帰の思想にたどり着く。革命の挫折とルサンチマンと希望が織り成す稀有なる宇宙論(といってよければの話だが)。

  •  「宇宙は、いたる所に中心があり、表面がどこにもない1つの球である」と、パスカルをもじって本書で無限のイメージを表す著者は、天文学者でも哲学者でもなく、19世紀を通じた屈指の革命家だ。そのカリスマ性ゆえに時の権力が変わっても迫害を受け続け、獄中で過ごした日々は43年に及ぶ。彼は、19世紀のあらゆる体制を通じて囚人であった。
     本書は、著者が晩年に投獄された、文字通り地獄のようなトーロー要塞で書き綴った宇宙論だ。けれどもページを繰っていくと、最後の著作となった本書を書いているとき、彼は囚人ではなく、科学者であり詩人であったことがわかる。「知性の枠を踏み越えることなく、しかし同時に無限を傷つけることもなく、自由に無際限を拡大する」ことで永遠を描く、「地獄を対象とする真の神学的思弁」(訳者)。

  • 恥ずかしながら革命家たるこの著者の名前も知らず、タイトルに惹かれて(岩波だし間違いはないだろう)と買ったもの。生涯の長い時期を牢獄で、星を見つめながら、この本を書いたらしい。革命的な主張ではなく、かといって天体論でもないのだが、星と宇宙と自己を見つめ続けた内省の書で、深く思想の宇宙の中に下りていけるのがわかる。

  • なんだかSFを読んでいるようでした。

    そして所々、広大で真っ暗な宇宙の真ん中にぽつんと小さな点のように光る星の姿を思わせるような文章で、その奇妙な静けさが印象的でした。

    繰り返しと言う永遠の環。

    ブランキさんはただそれを諦めて眺めているんじゃなくて、「それでもどこかに!」と変化の道を探しているような気が、ほんのりとその奇妙な静けさから滲み出ているような感じがします。

  • これはその生涯の大半を監獄で過ごした「黒服と黒手袋のダンディな革命家」の思想を知る上で非常に興味深い1冊だ。ブランキ(1805-1881)は政治改革者であったのみならず当代一流の天文学者でもあり、有名な「革命論集」のほかに本書のような天文と宇宙についての詩と霊感に満ちた科学書を残してくれたことは嬉しい驚きである。

    美しい幻想と予言が宝石のように鏤められたこの不可思議な天文の書が綴られたのは1871年のパリ・コンミューンの翌年、監禁されていた倫敦のトーロー要塞の地獄のように劣悪な牢獄の真っただ中において、なのであるが、彼は当時の最新学説であったカント=ラプラスの「星雲論にもとづく太陽生成論」などを批判的に継承しながらも、いかにも革命家らしい大胆不敵な宇宙論を提起している。

    彼は全宇宙が無限だとしても、その内部の恒星系群はおよそ100の元素のみによって構成されていることから、その元素が生みだす化合物の組み合わせ(その中には地球やわれわれ人類も含まれている)は有限であるため、全天体はそれがどのような天体であろうとも時空の中に無限に存在すると考えた。

    その結果われわれ人間は、この瞬間にも自分と同じ人生を送っている無数の「自分」の分身をこの膨大な宇宙のあちこちに持つことになる。このような「地球&人間複数論」は、ほぼ同じ頃にボードレールやニーチェによっても唱えられて現在の宇宙物理学説に及んでいるが、ブランキのそれはきわめてメランコリックでペシミスティックな点がユニークである。

    けれども「宇宙は限りなく繰り返され、その場その場で足踏みをしている。永遠は無限の中で同じドラマを平然と演じ続けるのである」と本書のエピローグで述べたブランキは、しとしとと雨降る今宵も、遥かなる宇宙の彼方で永久に終わることなき彼の孤独な革命運動を遂行しているのだろう。

    死してまた蘇りつつ世直しを未来永劫続ける洒落者 蝶人

  • 永劫回帰のことは良く分かった。なるほど、それを考えていたのはニーチェだけでない。
    だが今を生きる私たちにとって、どのようにして永劫回帰という結論にたどりついたがが問われるべきではなく、どうして人は永劫回帰という結論を求めるのかを考えるべきなのだと思う。

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