- Amazon.co.jp ・本 (210ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004150312
感想・レビュー・書評
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堀田善衛氏が日本の作家を代表し1956年にインドで行われた第1回アジア作家会議に参加した際に考えたことをまとめた本である。正直に言うと、本書を読むまでこの著者を知らなかったのだが、とても興味深く食い入るように読んだ。
著者は3か月ほど現地に滞在し、主にインド、そしてそれ以外のアジアの国々から参加していた作家や詩人などと交流し議論を交え、近代および(1950年代当時の)現代の日本について考察をしている。
戦後の混乱が続いていたと思われる当時の日本から、よくこの著者が代表として選ばれたものだ、と感心する。彼の所感は率直であり、謙虚であり、深く共感できるものであった。
1950年代のインドのあらゆる意味でのすごさが描かれている。地理的な条件から外国の影響を何千年と受け続け、混とんとしていて、それでいてというよりだからこそパワーを秘めている。気候条件も厳しい。文化的な面、生活面では、長く搾取し続けた英国のしてきたことを忘れてはならない。宗教、言葉、一部のインテリ層が何を考えていたのかが良く分かる一冊である。
そして、この経験により、知識人である著者自身はどういう影響を受けたのか。一文が長くて読みにくい部分もあるが、機会があれば是非手に取ってもらいたい。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
1956年にインドのニューデリーで開催された第一回アジア作家会議に書記局員として出席した著者が、インド滞在中の思索をまとめたものです。
英国帝国主義による搾取の結果、貧困・飢餓に陥っているインドの状況から日本を含むアジア諸国の未来を考えます。
第二章のアジアがアジアをなんにも知らない、で書かれていることが非常に考えさせられたので簡単に要約します。
会議の一ヶ月前に準備のため5カ国(日本、中国、ビルマ、タジキスタン、インド)の作家・詩人7名(うち2名は英語とロシア語の通訳)が合宿をします。
一ヶ月もの間、寝食を共にしているのにも関わらず、それぞれの国の話題は出るものの文学の話題だけが一切出てきません。
というのも、お互いがお互いの文学についてなに一つ知らないからだというのです。
著者の堀田の例を取ると、中国の現代文学は少し知っている。
欧州の文学は中国のそれよりもより少し知っている。
これらを除くとアジアの文学をなに一つ知らないのだ。
私個人の話しをすると、アジア以外の海外作家の作品はいくつか読みましたが、アジアはおろか中国や韓国の文学もほぼ知りません。 -
近いはずなのに、欧米を通してでしか辿りつかないアジア。アジアの文学者で集まってみたら、共通言語がないため意思疎通ができなかった、という部分にハッとしました。ずいぶん前の本ですが、ここに書かれている問題意識や価値観は、今でも古びないです。
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初の堀田善衛の本。間違いなく当時の一大インテリだったはずだが、その飾らない文章に驚いた。もしくはわざと混乱した文体を使ったのかもしれないが。
そして、このような国際的な取り組みにも参加していたこととは、知らなかった。
アジアは生きたい、と言って、西欧は、死にたくないと言っている。金言だと思う。 -
堀田善衛作品2冊目である。インドで、いろんな場面に出くわしたときの感じ方と考えが深い。そのうち、堀田善衛の小説にも挑戦してみよう。
池澤夏樹さん、宮崎駿さんらが堀田善衛作品をどう読んで、今の自分にどう影響したのかということを書いている新書が出たので、その新書をガイドにしながら、堀田善衛を何冊か読んでみようと思う。 -
インドでアジアについて考える。
「日本人をふくめてアジアの各国人のつかう英語は、それがたとえ英語としてととのったものであっても、実は英語そのものを語っているのではない」「英語によって、各国人は各国語を語っているのである」
英語教育について考えさせられる。しかし、逆に見れば、母語が違っても英語で会話し、文化が違ってもドストエフスキーについて議論できる。まあ便利なものである。