- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784004314653
感想・レビュー・書評
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私はドイツ語の「denken(考える)」という動詞が必ずしも目的語を必要としていないことを不思議に思った。日本語なら、「何してるの?」「考えてるの」「何を?」ということになるだろう。「考え事をしている」なら「考え事」が目的語になっていて落ち着くが、目的語なしの「考える」は日本語では落ちつかない。そのへんに敢えて挑戦して、こんな会話を書いてみた。「わたしは今、考えているんです。」「何について?」「何について考えているかは問題ではないんです。考えることそのものに意味があるんです。」
「我思う、故に我あり」は名訳だが、目的語なしの「思う」が日本語の中に定着したわけではない。
ハイデッガーがトラークル論の中で、この詩人が「Im Dunkel(闇の中で)」という詩のの中で「schweigen(黙る)」を他動詞として使っていることに注目していることを思い出した。「青い春を魂が黙る」。「黙る」は普通、目的語をとらない。それは日本語も同じである。黙るとき対象がないと決めつけてもいいものだろうか。文法に思考を譲り渡してはいけない。「黙る」時、そして「死ぬ」時こそ、直接目的語を探した方がいいような気がする。
--多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書、2013年、59-60頁。
多和田葉子『言葉と歩く日記』岩波新書、読了。「外国語を勉強しながら外国語の文法書を不思議がり、面白がり、笑う、という遊びを意識的に実行している人はあまりいない」--。日独二カ国語で書くエクソフォニー作家による観察日記。各地を旅しながら、旅の如く、言葉と生活の「常識」をずらしていく。
著者が移動しながら、立ち止まりながらつづる日常はまさに「言葉と歩く日記」といえば間違っていない。しかしそれが中身ではないという「紹介」することの「もどかしさ」を抱えさせられた一冊w 非常に面白い。彼女の言葉に向き合うことものすげえ、おすすめ、☆5詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
感覚と思考と言語化、それぞれがそれぞれであること。
しっくりこないと自分で言葉を作り出してしまうこと。
連想・妄想があらぬ方向へ迷い込んでしまうこと。
外から日本語を眺めること。
嬉しくて声に出して笑ってしまうほど面白かった。 -
この人のエッセイが好きだ。感覚的に肌に合うというのかな、書き述べられていることに一々感心し納得する。ドイツ語と日本語と自由に行き来し新しい言葉やユニークな視点を提示してくれる。日記の側面からみると、毎日色々やることがあって、忙しそうだと思った。
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新着図書コーナー展示は、2週間です。通常の配架場所は、1階文庫本コーナー 請求記号:081//Ta97
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ドイツ語は大昔 大学の1年で習っただけなので完全に忘れているが、著者のように自由自在にドイツ語を駆使して小説を書けることが羨ましい.外国語を学ぶ利点の一つに母国語を再認識できる というのがあったと記憶しているが、まさに本書はそれを書き表したものと言えよう.ニヤリとできるエピソードが満載だが、寿司屋のメニューに関連して「本番」について述べている件が面白かった.
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ついレビューを書きたくなるほど、多くの人に支持されるのでしょう。
言葉にこだわることは特別に非凡なことではないのですが、著者の魅力は性向だけではないのでしょう。
こだわるから、おもしろいのではなく、文才がおもしろくさせているのでしょうね。
いつも通いなれている道に、こんな花が咲いていた、こんな虫が生息していた・・・と、語りかけてくれてるようだ。
見逃していた、見過ごしていた情景をひとつひとつ開示してくれているのが楽しい。 -
いゃーこれは面白かった。枕草子には「神経にさわるもの」がなく、「にくし」で表現されていることなど、興味深い考察がいっぱい。推敲について「深い眠りが良い推敲の条件」と記しだところも共感できる。
ドイツにいて日本を、日本語を考える。文章を物質として見る。単語一つ一つを物として観察すること、などなど、言葉について考え、言葉が好きな人なら、きっと面白く読めると思う。
ドイツの暮らしや空気感も、文章から感じられるのもまた楽しけり。 -
面白かったです。
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多和田葉子による多和田葉子の<自分観察日記>。ストイックに、だけど遊び心のある言葉への実験的精神。真摯で、ときに柔く毒舌。日本とドイツ、文化と言葉の峡谷を両面ナイフの右の刃左の刃を順繰りに見せながら、ゆっくりと渡っていく。そんな姿が見えた気がした。付箋をぺたぺた貼りながらの読書。
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ドイツ語と日本語の両方で作品を発表している作家ということで、もっと彼女に関心を持ってもいいはずなのに、長らく苦手意識を持っていたのが、「雪の練習生」から、彼女の「言葉」との真剣な向き合い方に関心を持つようになった。この本は、その「雪の練習生」を著者が自分でドイツ語に訳すという作業をしている過程で書かれたものとのこと。「自作の独訳もやるのか」と思ったが、実は初めてのことなのだそうだ。
意外に、エクソフォニー作家である彼女の目の付け所はシンプル。それだけに、普通の人なら見過ごしてしまうか、単に「へ〜」で終わってしまうようなポイント。そういう細々とした要素を丹念に集め、一語一語を吟味しながら紡いでいくという、彼女の創作活動の一端を垣間みることができるような内容だった。
ドイツ語でのコミュニケーションにただ必死だった時にはあまり気にならなかったが、ドイツ語の多様性にさらされるよう環境におかれている(気づくようになっただけか?)現在、そしてときとして英語とか日本語とかをいったりきたりせざるをえない状況に追い込まれることもある現在、自分のなかでのそれぞれの言語のあり方が変化してきた。だから彼女の作品をおもしろく読めるようになってきたのかも。