永遠のファシズム (岩波現代文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006003883

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  • 「移住、寛容そして耐えがたいもの」から、「1 第三千年紀の移住」より。

    「ヨーロッパが相変わらず移民の事例として扱おうとしている現象は、どれも実は移住の事例なのである。第三世界がヨーロッパの扉を叩いているのだ。そしてヨーロッパがどうぞと言わなくとも入ってくるのだ。問題はもはや、チャドルをつけた女子学生がパリで受け入れられるか、ローマにいくつモスクを建てなければならないかを決断する(と政治家たちが信じたふりをしているような)ことではない。問題は、次の
    千年間に(予言者でないわたしには、いつと断定でっきないが)、ヨーロッパが多民族大陸に、あるいはそう呼ぶ方がよければ、「有色」大陸になるだろうということだ。もしあなた方が望めばそうなるだろうし、望まなくても、やはりそうなるだろうということだ。
     こうした複数文化の対立(あるいは衝突)が流血の事態をもたらすこともあるかもしれない。ある程度それは起こるだろうし、それは不可避の事態であり、長期にわたるものになるだろうとわたしは確信している。しかしながら、人種主義者たちは(理論的にいえば)種族として絶滅の一途をたどるにちがいない。かつてガリヤ人やサルマーシア人や聖パオロのようなヘブライ人たちが「ローマ市民」となることに、またあるアフリカ人が帝国の王座に上ることを我慢ならないと考えた古代ローマ貴族がいたが、かれの身に結局なにが起こっただろうか? いまでは忘れ去られてしまったこの古代ローマ貴族はといえば、歴史に敗北を喫した人物にすぎないということだ。古代ローマ文明は混血の文明だった。人種主義者は、だから堕落したのだというかもしれない。だがそのためには五百年の歳月を必要としたのだ。わたしにはこれが、わたしたちが未来のための計画を実行可能にする時間のはばに思える。」

    「2 不寛容」より。

    「原理主義、教条主義、似非科学的人種主義は、ひとつの〈教義〉を前提とした理論的な立場である。不寛容はあらゆる教義の、さらに前提として置かれる。この意味で、不寛容は生物学的な根源をもち、動物間のテリトリー性のようなものとしてあらわれるから、しばしば表面的な感情的反応に起因する。わたしたちが自分と違う人びとに堪えられないのは、わたしたちが理解できない言語を話すからであり、カエルや犬や猿や豚やにんにくを食べるからであり、入れ墨をするからだ……といった具合に。
     自分と違うひと、見知らぬひとへの不寛容は、欲しいものをなんでも手に入れたいという本能と同様、子どもにとっては自然なことだ。子どもは、自分の括約筋を操れるようになる以前から、他人の所有物を尊重するようにと、少しずつ寛容性を教育される。だれしも成長につれ自分のからだはコントロールできるようになるが、不幸なことに、寛容は、おとなになってからも、永遠に教育の問題でありつづける。なぜなら日常生活の中でひとはつねに差異のトラウマにさらされているからだ。専門家が差異の教義を研究する頻度に比べて、野蛮な不寛容についてさして熱心でないのは、それがあらゆる批評的理解と定義を逸脱するものだからだ。
     しかしながら野蛮な不寛容を生み出すのは差異の教義ではない。逆にそれは、あらかじめひろく潜在する不寛容の背景を最大限に利用することによって生じるものだ。魔女狩りを考えてみよう。あれは暗黒時代の産物ではなく、近代が生んだものである。……刑法典がひったくり泥棒の存在を記録するように、日常の現実のひとつとして、魔女の存在は書き留められていた。こうした民衆信仰なしには、魔術の教義が、そして迫害の組織的実施が、流布することはなかったろう。
     十九世紀の途中に出現した似非科学的な反ユダヤ主義が、全体主義の人類学に、そしてジェノサイドという産業として実行に移されるのは今世紀になってからにすぎない。しかしカトリック神父たちの時代から何世紀にもわたって反ユダヤの論争が繰りひろげられていなかったとしたら、そしてゲットーのある場所ならどこでも世紀を超えて存在した貧民たちの反ユダヤ主義がもしも存在しなかったならば、それは生まれなかったにちがいない。反ジャコバン主義のユダヤ陰謀史観は、自分たちと異なる人びとに対するすでに〈存在していた憎しみを利用はしたが、前世紀初頭において大衆的反ユダヤ主義を創造することはなかった。
     もっとも危険な不寛容は、いっさい教義もなしに初発の刺激によって出現するものだ。それゆえ、批判も、理性的議論による抑制もかなわない。『我が闘争』の理論的基盤はかなり初歩的な論証を積めば論破できるのだが、そこに提示されたさまざまな理想はどんな反論にも堪え抜いたし、これからも堪え抜くことだろう。どんな批評にも持ちこたえられるのは、野蛮な不寛容に依拠しているからにほかならない。……
     この間イタリアでいままさに何が起こりつつあるか考えていただきたい。一週間あまりのうちに、一万二千人のアルバニア人がわたしたちの国にやってきた。受け入れを表明した正規の公式規範に対し、いずれ対処不能になると流入を拒もうとする人びとの大半は、経済的・人工統計学的論証を駆使している。しかしどんな理論も、日々占領地域を拡大していく匍匐前進の不寛容のまえでは無効でしかない。野蛮な不寛容は、やがてあらゆる未来に人種主義的教義を提供することになる。カテゴリーの短絡に基づくものだからだ。つまり、もしも過去数年イタリアに入国したアルバニア人が泥棒や娼婦になった(事実そうなのだが)とすれば、アルバニア人はみんな泥棒で娼婦になると考えるのである。
     これが、わたしたち一人ひとりをいつも誘惑しつづけるおそろしい短絡現象なのだ。どこの国でもいいが、その国の人びとを信用してはいけないと家に帰って主張するには、空港でスーツケースを盗まれるだけで充分、というのだから。
     さらに恐るべきは、差別の最初の犠牲者となる貧しい人びとの不寛容である。裕福な人びと同士に人種主義はない。金持ちは人種主義の教義を生み出したかもしれないが、貧しい人びとは、それを実践に、危険極まりない実践にうつすのである。
     知識人たちには野蛮な不寛容を倒せない。思考なき純粋な獣性をまえにしたとき、思考は無力だ。だからといって教養をそなえた不寛容と闘うのでは手後れになる。不寛容が競技となってしまってはそれを倒すには遅すぎるし、打倒を試みる人びとが最初の犠牲者となるからだ。
     それでも挑戦してみる価値はある。民族上の、宗教上の理由で他人に発泡する大人たちに寛容の教育を施すのは、時間の無駄だ。手後れだ。だから本に記されるよりも前に、そしてあまりに分厚く固い行動の鎧になる前に、もっと幼い時期からはじまる継続的な教育を通じて、野蛮な不寛容は、徹底的に打ちのめしておくべきなのだ。」

  • 卒論の参考になるかな程度で読んだ。そんなに参考にならなかった。指導教官の「道端に転がるナチズム」に似ている内容だった。

  • 原書名:CINQUE SCRITTI MORALI

    戦争を考える
    永遠のファシズム
    新聞について
    他人が登場するとき
    移住、寛容そして堪えがたいもの

    著者:ウンベルト・エーコ(Eco, Umberto, 1932-2016、イタリア、小説家)
    訳者:和田忠彦(1952-、長野市、イタリア文学)

  • 東2法経図・6F開架 B1/8-1/388/K

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著者プロフィール

1932年イタリア・アレッサンドリアに生れる。小説家・記号論者。
トリノ大学で中世美学を専攻、1956年に本書の基となる『聖トマスにおける美学問題』を刊行。1962年に発表した前衛芸術論『開かれた作品』で一躍欧米の注目を集める。1980年、中世の修道院を舞台にした小説第一作『薔薇の名前』により世界的大ベストセラー作家となる。以降も多数の小説や評論を発表。2016年2月没。

「2022年 『中世の美学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ウンベルト・エーコの作品

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