文学部唯野教授 (岩波現代文庫 文芸1)

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  • 岩波書店 (2000年1月14日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (384ページ) / ISBN・EAN: 9784006020019

みんなの感想まとめ

文学理論をわかりやすく解説する教授の講義を通じて、読者は文学の新たな楽しみ方を発見します。印象批評やロシア・フォルマリズム、構造主義など、多様な理論が紹介され、懐かしさと共に学生時代の思い出が蘇る方も...

感想・レビュー・書評

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  • 学生時代に買ってまだ本棚にあったのを再読。

    唯野教授の講義という形で文学理論が分かりやすく解説されている。
    印象批評からロシア・フォルマリズム、記号論や構造主義などが取り上げられており、文学理論概説として役には立つ。

    なにぶん30年近く前の本なので、今の最新の文学理論に言及している筈もなく、今はもっと色々な理論が出ているのだろうが、少なくとも今の私は文学理論よりも世界情勢や現代社会の仕組みの方に興味を引かれるみたいだ。

    前よりも小説を読まなくなったしな…。

    • ももりんかさん
      >森の賢者さん どうなのかね?あんまりそういう分析的な批評って日本ではないかもね^_^
      だいたいが印象批評だよね、小林秀雄を頂点とした…笑
      ...
      >森の賢者さん どうなのかね?あんまりそういう分析的な批評って日本ではないかもね^_^
      だいたいが印象批評だよね、小林秀雄を頂点とした…笑
      筒井康隆では私は「時をかける少女」を未だに読んでないんだよね。読まねばと思いつつw
      2024/12/25
    • ももりんかさん
      ベクデルテストっての、今調べた^_^
      そんなテストがあるんだねぇ!
      ベクデルテストっての、今調べた^_^
      そんなテストがあるんだねぇ!
      2024/12/25
    • 森の賢者さん
      >ベクデルテスト
      キャンセルカルチャーで畏怖の対象になってる某フェミニストさんが言及してて知ったんだ。いやぁ、フェアと言えばフェアなんだろ...
      >ベクデルテスト
      キャンセルカルチャーで畏怖の対象になってる某フェミニストさんが言及してて知ったんだ。いやぁ、フェアと言えばフェアなんだろうけどマジで首を傾げすぎてそのまま首の骨が折れそう…
      只野教授も今読んだら意味がもっと分かって面白いのかも知れない。
      2024/12/25
  • 今こんな人たちがいたらアウトだと思われるような、大学がゆるかった頃の文学部の研究者の様子をかなり大袈裟に面白おかしく描いた話。

    大学の組織やルール、作家の紹介など文学に関する注釈がついている。そして、講義部分は、文学部ではこんなことを学ぶのかと参考になったが、自分には向かないと再認識。

    学内でどうやって地位を得るために、日々、嫌な飲み会に付き合ったり、上司にさえも奢ったり、なんだかくだらない大変さがあることが延々描かれていてウンザリ。これを今の若い人たちが読んだら、益々研究者志望の人が減りそう、と余計な心配をしてしまった。

  • 構造主義ブームのなかで卒論や修論を書いたことが思い出される。文学って研究対象となるの?と嘲った某助教授の顔が衝撃的だった(私事)。
    しかし大学の権力抗争って醜いな。これじゃ政界と変わらんだろ。日本の大学は神聖な場というにはとんでもなく乖離していて、社会に出る前のモラトリアムを許されたところでしかない、哀れな一面がたしかにある。学生時代の専門に通じる内容で懐かしかった。デリダだのフーコーだのを使って文学を切り刻んでいたわけだが、唯野教授の講義を聴いて、文学批評なんて無視して、物語をひたすら愉しもうという気になった。米津玄師さんの書棚にあった本なので手に取った。接点が見つかり嬉しい。

  • 大学教授の知られざる世界と、小説内で展開される文学部唯野教授の授業を受けることができる本。この唯野教授の授業は、面白くかつ、わかりやすい文学理論なのだ。この教授の授業を生で受けてみたいと思った。
    本書を読了した今、最初のページに戻り、授業のところだけ拾い読みをして、文学理論を学び直そうと思っている。
    そして、斜め読みしていた注釈も、しっかり読み込み、宿題に出される課題図書も読み進めたら、唯野教授のような授業をまねることができるかな?

  • #2804ー99

  • 面白く読み通せたがどこまでがパロディでどこまでが真面目か分からなくなる

  • 90年代、学生時代に読んだ本。オーディブルで見つけて数十年ぶりに聞いた。学生当時、文学理論を理解したいと思っていたら、こんな面白く解説してくれる本があるんだ〜!とめちゃくちゃ感動して、付箋をつけて線を引きながら、一生懸命何度も読んで、宝物のように扱っていた本だった。オーディブルで数十年ぶりに聞くと、エイズネタとか、下ネタとかが多くて、時代の雰囲気の変化に驚愕、、、あの頃は、唯野教授に尊敬と憧れしか抱いてなかったけど、今はちょっと唯野先生をそんなふうには受け付けられんかった。時代もだけど、自分の感性も大きく変わったんだなぁ、、、。

  • 理論書ばかり読んで凝り固まった脳みそに、パロディ含む文学理論を通すのが良かった。
    大学って本当にこんなおじさんの集まりなんですかね?とてつもなくしょうもないコメディーでサクッと読めるのに読了後しっかり知識入ってる(唯野視点の文学批評だけど)

  • 文学部とはこういう所なのか!と素直に受け取って良いもの?ストーリーが面白すぎたから講義の部分も同じテンションで読み進めてしまったけれど、これはユーモアを利用した批評論の押し売りか!とても面白かったです。コミカルドタバタでした。

  • 現象学とか記号論とかを面白がっていた頃を思い出せた。講義パートは饒舌。大学教授の戯画化のパートはドタバタで、読んでいる間中、常に頭の中は喧しい。

  • こんな人がいる大学に通ってみたかった。

  • 筒井康隆の本は、学生の頃によく読んだ。友人達とドタバタの短編を読んで話のネタにしたものだ。この本も、ベースは大学教授の裏事情やドタバタのストーリー。但し作者が考える文学論・思想を主人公に真面目に語らせており、創作部分とアカデミックな部分のギャップが凄い。面白い小説を読みながら、勉強にもなるという大変凝った本になっている。こういうアイデア、それも筒井康隆らしいと思った。

  • その当時のアカデミアの人事というか人間関係はこういうところなのだろうか、、、と考えざるをえなかった。。。本当かウソなのかはこの小説を貸してくれた教授に聞いてみよう。
    授業形式で前半にアカデミア界隈の人間模様、後半に授業が盛り込まれ、知識も増やせた一冊であったように思う。

    以下読書メモ
    ーーーーー
    ・ひとに例外を許さない、個性を認めず独自の行動をさせない、そのかわりその人が自分のものとして負うべき苦しみや悩みや責任を忘れさせてくれるような存在を「世人」という。こういう世人と話すときの普通の会話や雑談や無駄話のことを『空談』といいます。これは『語り』の日常的な、非本来的なありかたで、語りというのは、人間それぞれが、自分は他の道具的なモノやモノ的なモノではなくて、そういうものを理解したり照らし出したりできる、そして自分も照らし出せる、この世に生きている存在だと自分でわかっているということ、それを了解し、解釈している場面なの。この場面ではじめて言語が可能になる。だから本来の語りなら、われわれは話している相手がわかっていることを聞いて相手と同じようにわかることができる筈だけど、空談はそうじゃない。直接的な出会いじゃないんだよね。話が話し手からひとり立ちして、内容は薄くなって、語り広められて真似される。マスコミの発達でそれはますますひどくなって、聞く方は了解するという面倒なことをしなくていいわけ。さらにこの語りということの中には、聞くことや焼熟することも含まれています。人間の『語り』というのは、語る存在として自分を示すこと以外にも、世界に耳を傾けるということでもあるの。

    ・人間の非本来性の中には、自分の死をまともに見ようとしないってのがあったね。では、まともに見るとはどういうことか。他人の死というのは経験できないし、代わってやることもできない。ところが自分の死は、それがやってくれば人間は現存在でなくなっちまう、しかも、いつやってくるかわからない。つまり死はそのたびごとの可能性で、人間はそのたびことに自分の終りにかかわっている存在だ。そのたびごとといったって、やはり死はいくら早くても一瞬先にあるわけだから。つまり本来的に死を見るというのは、自分に先んじて死とかかわり、それを本来的に了解することで、これを『先駆的了解』といいます。おおいやだいやだ。おれなんか自分の死を了解したくないね。あたしゃ自分が死ぬ時なんぞは、もう、そこにいたくありませんよ。しかしハイデガーは、常に先駆的了解のために自分に先立って、自分が先へ投げこまれるのではなく、自分を先へ投げこめと言っています。それが自分の全体性をとらえ、新たな可能性に向けさせるのだと言っているわけで、ハイデガーの場合、人間的な知は、常にこの先駆的了解から始まるの。と同時に、その中から出られないところがこれまた限界なの。ハイデガーに言わせるなら、人間の存在というのはいつでも新たな可能性の問題なのだから、つまり完成なんてことはあり得ない。どんな科学も理論も、先駆的了解を行った結果を部分的に抽象化したものに過ぎないっていうの。
    11:29 田村まり ハイデガーの著作は『存在と時間』だったよね。では人間にとって時間とは何か。ハイデガーは、人間の存在している意味、それから、人間が存在することを可能にしているもの、それが時間性だと言います。あのう、歴史、と言わないで、時間、と言ってることにご注目ください。人間が全体的に、本来的にこの世界に存在するには、死という可能性をめざしながら自分を見る、つまり未来を見ると同時に、過去を見て自分の非力なことを知り、同時に現在を見て自分を解放する。つまり『過去を見つつ現在にある未来』というのが人間存在の意味、つまり時間性だっていうの。


    ・文学作品の意図というのは、ただ作者の意図というだけでは説明できないものがあって、その時代、その文化が、われわれの時代、われわれの文化へやってくる時、そこには作者が意図することのできなかった新しい意味が生まれてくる筈だ。この不安定性こそ文学作品の特質だとガダマーは言うの。たしかに不安定だよなあ。作品から問いかけられるわれわれ現代の読者の方は、何百人も、何千人もいるわけでしょ。そしたらその答えは同じじゃない筈だよね。で、これをガダマーに言わせると、作品を了解するのは常に、別のかたちの了解なのだ、その意味をずらせることだ。だからこそ、現代でほんとの了解をするのは、現代だけにしかない意味で作品を了解することだ。つまり新しい現代的な意味をひっさげて故郷へ帰るみたいなもんだって言うの。

    ・フッサールってのはほら、意味というのは意図された事象だ、その中から絶対不変のものを発見すればそれが本賞だ、イデアだって言いましたね。だからハーシュがそう言うのも当然といえば当然。意味というのは言葉以前にあるものだ。意味が言葉によって固定されるのはそのあとのことだっていうんだけどさ。じゃあ君たち、ちょっと、言葉を使わないで、頭の中で何か意味することを考えてくれるかい。できましたか。そりゃまあ、あんな感じ、こんな感覚、言葉で言いにくいものはあるだろうけど、それはまだ意味ができていないからだよ。では一方ハイデガーはどうかというと、『存在と時間』の中で彼は、言語が可能になる『語り』というのは、世界に耳を傾けることでもあると言ってたよね。そもそも人間は、時間によって構成されているのと同じで、言語によっても構成されているのだってわけ、つまり言語はコミュニケーションの手段でもないし、意味を表現する手段でもない、それ以前に世界を生み出し、人間を生み出したのが言語だっていうの。言語によってはじめで人間は人間になれる、言爵は、人間が自分の全体性をそっくりそのまま提示するたの場所として、ひとりひとりの人間よりも先に存在していて、それによって人間は成長するにつれ人間らしくなっていく。

  • 唯野教授個人は饒舌な小男、モラルも低くて女子生徒に手を出したりする俗っぽさ。周りのキャラクターも小便を漏らしたり、小狡い性格だったり、全然立派な人物はいない。
    大学教授たちの世界は政治根回し、足の引っ張り合いばかりで期待ほど勉強していない。
    でも講義はとても面白い。欄外に及ぶ知識の深さ、紹介される本は膨大で、文学理論は全てはわからないけど、読みやすく砕けた表現になっている。難しいから参考文献をもっと読んでもう少し知識が増えてから読んだらまた面白いかもな。
    毎章唯野をめぐるドタバタしたエピソードで始まり、講義で終わる話の型も決まっている。
    斉木が蟇目と衣服を調えながら研究室から出てきたあたりから特に面白かった。

  • 講義の部分は「文学ってこういうことなのかぁ」などと感心したが、全体的にはあまり楽しめなかった。登場人物の日常が殺風景で、普段何を考えてるのかわからない、というか、そもそも何かを理解したり整理したりすることが習慣として全く身についていない人たちの恨み言とか、泣き言が並んでいるだけだったからだ。(文学部の)大学教員はこういうつまらない人間の集まりなんだよ、という点では優れた著作といえるのだが、どこが笑いどころなのか私にはわかならない。

  • 濃厚な文学批評論の講義と軽快な大学教授のコメディーが合体している。コメディーの方は語り口が軽いのでとても読み易い。講義の方はある程度文学や哲学の知識がないと全部理解できないであろうと思った。メタ的な描写が入ってくるのが面白い。

  • 早治大学文学部の弱小教授、唯野仁は、魑魅魍魎が跋扈する学部内政治に翻弄されながらも、ペンネーム野田耽二で密かに小説を書いている。しかしてその志は、「新たな文学理論の確立」。

    本書では、唯野教授が立智大学で非常勤で受け持つ「文芸批評論」の第1回から第9回までの小難しい講義の進行と共に、嫉妬が渦巻く幼稚でドロドロした学内政治ドラマが展開していく。

    学内政治のパロディはリアリティがあって面白かった。残念ながら、現象学、解釈学、記号論、構造主義、ポスト構造主義など、唯野教授の講義は難解でちんぷんかんぷん。フムフムと分かればカッコいいんだろうけどなあ。

  • もうこんな大学ないと思うのだが、それでも少しあってほしいと思うし、
    こんな教授いはしないと思うのだが、それでもいてほしいと思う。
    惜しむらくは、読者には前期の聴講しか許されていないことだ。

  • 本気の実験的な小説って好きなんです。
    作家の教養がビンビンに伝わってきて、それでいて知識のひけらかしになってないから、作品に緊張感が保たれています。

    「もっと勉強しましょうね」

    唯野教授の学生に向けたこの言葉は、作家、批評家、ひいては我々のような読者にも向けられた言葉なのだと思います。

  • 面白かった。流石筒井康隆。大学では英文学の教授、裏では小説家として文学理論を体現するような小説を書いている唯野教授の目を通して、ドロドロの大学内部の権力闘争とそれにまつわる珍事を描く。また各章のラストは唯野教授による文学理論講義で締めくくられているため、本作を読むだけで文学理論の概観を知ることができる入門書のようなものにもなっている。
    ウィットに飛んだ言い回しも教養に支えられた作中で披露される文学知識も全て素晴らしい。サクサク読むことができる口当たりの軽さと裏腹に読むと本当に大学の講義を一期分聞き終えたかのような満足感も得ることができる。大学の内部事情に関してはかなり悪意的というかコメディ的に誇張・脚色はされているだろうが、「ここまでじゃなくとも近いことはあるのだろうな」と思わせるリアルさ。小説としてもある種の暴露本としても理論の入門書としても、色んな面で楽しむことができる作品である。
    ……のだが。現代に復刊は絶対できないだろうな、という問題作でもある。時代を反映しすぎている。悪い意味で。言ってしまえば差別表現がすごい。特にひどいのがエイズ差別とゲイ差別。読んでいるだけでぎょっとするような言説がポンポン出てくる。が、そういえば一昔前の日本ってこんなだったわ、ということをすぐに思い出してしまう。そう言う意味では歴史的な資料ではある。この本の発刊当時の日本がどのような空気感の中にあったか、このような公然とした差別が『差別』とすら認識されずにまかり通っていたか、ということの何よりもの証左だからだ。内容に改変を加えて差別表現を抑えれば……と考えたくなるが、正直ストーリーの根幹にそれらの差別要素ががっちり組み込まれてしまっているから無理そう。
    本作は非常に面白く読む価値のある本だ。すでに様々な人が触れている通り文学理論の概観を知るにはうってつけ。おまけに小説としても読んでいて面白いのだから素晴らしい。が、それはそれとして内容表現は現代からみると非常に問題がある。往時の小説を読むときはままあることだが、差別問題の是非は一旦置いておいて、『そういう時代であった』事実をきちんと念頭に入れたうえで楽しむ作品であろう。

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著者プロフィール

筒井康隆……作家、俳優。1934(昭和9)年、大阪市生まれ。同志社大学卒。1960年、弟3人とSF同人誌〈NULL〉を創刊。この雑誌が江戸川乱歩に認められ「お助け」が〈宝石〉に転載される。1965年、処女作品集『東海道戦争』を刊行。1981年、『虚人たち』で泉鏡花文学賞、1987年、『夢の木坂分岐点』で谷崎潤一郎賞、1989(平成元)年、「ヨッパ谷への降下」で川端康成文学賞、1992年、『朝のガスパール』で日本SF大賞をそれぞれ受賞。1997年、パゾリーニ賞受賞。他に『家族八景』『邪眼鳥』『敵』『銀齢の果て』『ダンシング・ヴァニティ』など著書多数。1996年12月、3年3カ月に及んだ断筆を解除。2000年、『わたしのグランパ』で読売文学賞を受賞。

「2024年 『三丁目が戦争です』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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