時間 (岩波現代文庫)

著者 :
  • 岩波書店
4.04
  • (9)
  • (8)
  • (6)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 154
感想 : 13
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784006022716

作品紹介・あらすじ

殺、掠、姦-一九三七年、南京を占領した日本軍は暴虐のかぎりを尽した。破壊された家屋、横行する掠奪と凌辱、積み重なる屍体の山。この人倫の崩壊した時間のなかで人は何を考え、何をなすことができるのか。南京事件を中国人知識人の視点から手記のかたちで語り、歴史と人間存在の本質を問うた戦後文学の金字塔。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 読書会「怖い本」というテーマで発表予定だが、確かに怖い本であった。
    第二次大戦におけるいわゆる「南京大虐殺」問題を題材とする話。中国人の知識人で、裕福な家庭の次男の手記(日記)に擬して書かれている。
    印象に残っているのは、冒頭の紫金山と、南京に日本軍が進行してくる直前の「鼎」の描写。日本では自然と人間とが調和する方向性であるのに対し、この語り手が言うには、中国の自然とは人間がどんな歴史を繰り返していても厳然としてそこにあるものとして、つまりそれだけ人間の作り出す世界に対立するものとしてあり、その不動の存在は、これから起こる壮絶な人間世界の擾乱を予感させるものである。「鼎」は人工物だが、同様に、血なまぐさい人間の本能のむき出しになる状況下での、それとの対比での「美」の考察は、一種知識人の凄惨な有様を描き出しているようであった。
    まさしく、恐ろしい物語であるが、あとがきにあるように人口に膾炙している小説作品ではない。確かに、中国の側から見た歴史的なリアリズムを追求するなら、ノンフィクションの中国の人の証言録などがより良いのかもしれない。また、中国人の知識人(上流階級といっていいと思う)を語り手にすることによって、あるいは彼が軍人で、諜者のリーダー的な任務を担っているからかもしれないが、彼の日記の理性的で、地獄のような状況の中で平静さを失っていないとさえ思え(時に、読点のなくなる箇所など、冷静さを失っているような箇所もあるが)、観念的なこと、叙事的と言うより叙情的と言える文章は、妻子を失っている人間の精神状態で書かれる手記としてはいささか醒めていすぎはしないかとも思った。
    しかしまた、逆の見方をすれば、この語り手の知識・教養、経済状況などが高水準であることがうかがえる分だけ、今を生きる現代人の私たちの感情に近い動きをしているとも言える。それに本作品の重要な意義は、日本人が、中国人の立場から小説を書いたそのことにあるだろう。それぞれの国の人が自分の身に起こったことを語る方が真実らしいとも言えるが、堀田善衛がこのような形で小説を描く時、それは彼がこの事件をどのように受容していたかを当然、反映するものである。石川達三の「生きている兵隊」や大岡昇平の「野火」も優れた戦争小説と思ったが、私は、「侵攻された側」の人の立場になって描こうとした堀田善衛の試みと姿勢は、もっと取り上げられるべきと思う。
    私自身恥ずかしいことに南京での日本軍の振る舞いについてこれまで関心を高く持っていたとは言い難いし、今ももちろん十全に理解しているとは思わないが、大虐殺があったか、なかったかには今もそれほど重要性を感じない。本書にあったように、被害にあった民間人がゼロとは決して言えないだろうし、そうであるならば、それが1人であっても何万人であっても、あまり違いはなく、その1人が例えば自分の息子であったら、自分にとって何十万人の死とは比較することもできないからである。自分はこの語り手のように、家族を殺されてなお、任務を遂行していくことができるか?生きる意志を持って、何かを考えていくことができるのか?かなり怪しい気がした。
    とまれ、同郷の素晴らしい作家の作品をようやく読むことができて嬉しく思った。

  • 初読。辺見庸さんの『1★9★3★7』で繰り返し取り上げられていたので、ぜひ読んでみなくてはと手にとった。辺見さんも解説で触れているが、「死んだのは、そしてこれからまだまだ死ぬのは、何万人ではない、一人一人が死んだのだ。」というのが印象的。政治家でもなく学者でもない普通の私は、死者が多いか少ないかといった外交的駆け引きの道具となり果てた論争に振り回されることなく、戦争で人が殺し、殺されることの本質を忘れてはならないと再認識させれらた。

  • 1937年の南京事件に遭遇することになった、中国人・陳英諦の手記というかたちで書かれた作品です。

    妻の莫愁、息子の英武をうしない、日本軍の蛮行が収束したあとのことを冷静に見つめていた従妹の楊嬢も、身体と心に深い傷を負うことになります。

    そんな状況にもかかわらずみずからの利己心を満たすために奔走する陳の叔父や、知識人の弱さを見せる陳の家を接収した桐野中尉などの人物が脇役として登場し、イアン・ブルマが「人間の想像力の限界が試される事件」のなかで、彼らがどうしようもないほどに「人間」であることを、そのふるまいによって示します。

    「いまわたしは鬼子という言葉をつかった。が、もう使うまい、……この逆立ちした擬人法は、長い時間のあいだには、必ずや人々の判断を誤り、眼を曇らせるであろう。彼等は鬼ではない、人間である」と、著者は主人公に語らせています。そして主人公自身も、妻子を殺され、世界の蝶番がはずれてしまったような当時の南京において、「人間」的な思惑から逃れることはできません。本作の最後で著者は、登場人物の一人である「K」に、「そうか、非人間的、なんてあまり口に出すべきじゃないな」と語らせていますが、そのことにかえってこの世界に対する絶望の深さを読者に教えるとともに、そのような絶望をくぐり抜けたことでようやくかいま見える希望が暗示されているのかもしれないと感じました。

  • 4/107
    内容(「BOOK」データベースより)
    『殺、掠、姦―一九三七年、南京を占領した日本軍は暴虐のかぎりを尽した。破壊された家屋、横行する掠奪と凌辱、積み重なる屍体の山。この人倫の崩壊した時間のなかで人は何を考え、何をなすことができるのか。南京事件を中国人知識人の視点から手記のかたちで語り、歴史と人間存在の本質を問うた戦後文学の金字塔。』


    冒頭
    『一九三七年十一月三十日
    兄を下関の海軍碼頭までおくりにいって来た。
    甲板の上にまで溢れ出た多数の船客のなかには、兄のつとめ先である司法部の役人とその家族が多勢まじっていた。政府の移転する漢口へと落ちてゆくこれらの人々の顔は、いずれもみな埃にまみれ、平生は法服に威儀を正し、司法官としての威厳を保つことに心を砕き、人を死刑にする時にもとりみだしたりはしない筈なのに、今日は、鼻の両脇に黒いものをためて平然としている。』


    『時間』
    著者:堀田 善衛(ほった よしえ)
    出版社 ‏: ‎岩波書店
    文庫 ‏: ‎288ページ

  • ショッキングな内容ですが、受け入れなければいけない本です。この時代に書いたことがすごいです。日本人の堀田さんが、中国人の目線で事件を描いています。

  • 1945年5月、武田泰淳とともに南京に旅した堀田善衛は、
    夕陽をあびて紫や金色に照り映える紫金山をのぞみつつ、
    <到底筆にも口にも出来ない蛮行―南京大虐殺>―
    「いつかはコレを書かねばならないであろうという、不吉な予感にとらわれた……」と、
    自身あとがきで記している。
    それにしても「時間」というタイトル……
    断絶された過去の川と、現在の川を結ぶこと――「悪夢に包囲された世界=南京にも、人間の世界全部に通ずる時間が存在していたのだ」と、堀田は言う。
    或いは「人間の時間、歴史の時間が濃度を増し、流れを速めて、他の国の異質な時間が侵入衝突してきて、瞬時に愛する者たちとの永訣を強いる……」とも。
    とまれ、「古代ギリシアでは、過去と現在が前方にあるものであり、したがって見ることができるものであり、
    見ることのできない未来は、背後にあるものである、と考えられていた」――という。
    ホメロスの「オディッセイ」の訳注を指して、「これをもう少し敷衍すれば、われわれはすべて背中から未来へ入っていく、ということになるだろう」――と。
    然れば、
    未来は背後=過去にあるのだから、可視的過去と現在の実相を見抜いてこそ、不可視の未来のイメージを掴むことができる――という訳だ。

  • 辺見庸の「1★9★3★7」を読んで以来読まねばと思っていた1冊。歴史修正主義の動きがあまりにひどい昨今こそ、こうして被害者側の目線になって当時を日本人を描いた本書の意義は大きいだろう。本書が書かれた1950年頃は東京裁判の後で南京虐殺の存在が国際的にも知られていたことから現代の感覚で想像するほどセンセーショナルなものではなかったと辺見庸はあとがきで書いているが、それでも「戦時中のことで仕方なかった」と片付けたがる日本のメンタリティの中で、行為と向き合うのは勇気のいる執筆だったはずだ。今の時代こうした作品が発表されることはほぼ不可能と思うと、なんと日本人は歴史から何も学ばず、事件を矮小化しようとすることで直視を避ける情けない道を選んでしまったかと俯かずにいられない。

  • まず思ったのは、昔の日本のインテリの男性がいかにも書きそうな文章だな、ということ。
    物語自体は、南京大虐殺を、知識階級にある中国人が語るという斬新なもので、ちょっとしたどんでん返しもあるし、ぐっとくる場面もあるのだが、いかんせんインテリ語りが長いので、物語が寸断されたように感じてしまうし、内容の衝撃度が薄まって、非常に観念的なものを読まされているように感じる。辺見庸みたいな、昭和のインテリ男には面白いのかもしれないが。
    1955年に刊行されたが、かなり売れたにもかかわらず、マスコミから無視され、話題にもならなかったというようなことが解説に書かれているが、それは「大声で論ずるのはためらわれた」からだけでなく、通読した人が少なかったからではないかなんて邪推をしたくなる。
    衝撃的なテーマを、まだそれを実際に知る人たちが生きている時代に発表することは、勇気があるとも思うし、日本人でありながら、中国人を語り手にしてこれだけ書けたのだから成功と言えるかもしれないが、まあ、もうちょっと読みやすく、物語自体にパワーを割いてくれたら、と、インテリでない私としては思わずにはいられない。
    とはいえ、竹内好とも交流のあった著者なので、主人公が周作人(魯迅の弟)を尊敬していたり、結びの文章が、なんとなく「故郷」の文章に似ていたりするし、そもそもインテリの中国人が政治と戦争に翻弄されるという物語自体が、「阿Q正伝」の裏返しのようにも思える。そういう意味では非常に意欲作だったのだろう。
    こういう分野に興味のある人にしかすすめられない本ではあるけれども。

  • 自分の浅学菲才ということもあるのでしょうが、多分・・・時代に無視されたのでしょうね。
    それだけ、1955年にはまだまだ生々しく、関わった人たちも多かったのでしょう。無かったことにしたかったのでしょうね。

  • 辺見庸『1★9★3★7』で知り、読むと決めた矢先の復刊。南京大虐殺をなかったとする歴史の改竄が平然と罷り通ろうとしている今、この復刊の意義は大きい。「到底筆にも口にもできない」ほどの蛮行を書かずにいられなかった堀田の決意を素通り躱してはならない。主人公に被害側である中国知識人を据え、戦争だから仕方がなかったなど勝手な言い分は許されぬことを知らしめる。「自分自身と闘うことのなかからしか、敵との闘いのきびしい必然性は、見出されえない」記憶の恥部を暴き出し自身に問いかけ考え続けること。何をなすことができるのか。

全13件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

1918年富山県生まれ。小説家。1944年国際文化振興会から派遣されて上海に渡るが、敗戦後は中国国民党宣伝部に徴用されて上海に留まる。中国での経験をもとに、小説を書き始め、47年に帰国。52年「広場の孤独」「漢奸」で芥川賞を受賞。海外との交流にも力を入れ、アジア・アフリカ作家会議などに出席。他の主な作品に、「歴史」「時間」「インドで考えたこと」「方丈記私記」「ゴヤ」など。1998年没。

「2018年 『中野重治・堀田善衞 往復書簡1953-1979』 で使われていた紹介文から引用しています。」

堀田善衞の作品

この本を読んでいる人は、こんな本も本棚に登録しています。

有効な左矢印 無効な左矢印
ミヒャエル・エン...
三浦 しをん
トマ・ピケティ
又吉 直樹
有効な右矢印 無効な右矢印
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×