- Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
- / ISBN・EAN: 9784006023096
作品紹介・あらすじ
多くの人に惜しまれつつ2018年にこの世を去ったアニメーション監督・高畑勲。『太陽の王子ホルスの大冒険』から『かぐや姫の物語』にいたるまでの自らの仕事や、影響を受けた人々や作品、苦楽をともにした仲間たちについて縦横に語り、綴ったエッセイをまとめる。巨匠の人間像に幅広く迫る生前最後のエッセイ集、待望の文庫化。
感想・レビュー・書評
-
「パクさんの教養は圧倒的だった」と、博識の宮崎駿に言わしめた高畑勲の最後のエッセイ集。昨年の「高畑勲岡山展」の時に購入していたが、未だに完読できない。あの圧倒的な「岡山展」の内容をふた回り三回り理論化したような内容で、まとまり切らないからである。高畑勲はアニメの周辺を語っているのだけだけれども、その範囲だけでも古代から現代まで、日本から遠く世界の芸術まで語っていて、しかもかなり専門的で濃い。私の手には負えないかもしれない。しかし、日本の文化を考える上で重要な指摘が多く含まれていて、とても大切な書物です。とりあえず私の関心あるトピックだけピックアップしたい。
「加藤周一『日本 その心とかたち』をめぐって」
加藤周一がNHK TVシリーズで展開した「日本文化の文法」は「1.彼岸性 2.集団主義 3.感覚的世界 4.部分主義 5.現在主義」であると分析し、それに全面的に賛同したうえで、それに付加する形で古代絵巻物からアニメに至る特徴と日本文化との関連を述べている。
日本のアニメの特徴
・セルアニメ‥‥アメリカで開発された技術。最初から目標は立体的に動くことだった。しかし日本は動きよりも「きめポーズ」を大事にする。それでも面白いと感じさせるのはカット割りがうまかったから。リズム、テンポが生まれ、物語も作れた。絵で時を刻み、時間の流れを感じさせる。辿れば、紙芝居、江戸時代の幻冬芝居「写し絵」があり、12世紀の連続式絵巻に至る。
・線の絵‥‥動きが少ないから主人公に強い個性は要らない。たいていは凡人で、追い詰められると強い力を発揮するが、線と平面のキャラクターは、それを頭の中で想像出来る。観客は我がことのよように入り込む。加藤周一の言う「文楽」に近い。西洋のように陰影があれば、かえって絵が「おれは本物だぞ」と主張し始めて、すぐに本物らしくないことがバレて見るのも嫌になってしまう。日本アニメで3Dが成功しないのはそういうわけではないか?それでも「ドラえもん」が作られ始めた。これは日本アニメの「バロック化」です。
・闇と光‥‥日本の伝統絵画には、闇と光の表現がほとんどない。絵画だけでなく、蛍光灯が普及すれば一挙に闇を追い出した。「しかし、ここにきて実写やアニメがぎらつくCGに夢中になっている。おそらく、人々のこの世で生きている現実感がどんどん薄れていって、現実以上に生々しく強烈な現実感を映像に求めている現れではないかという気がします」(18p)←アニメ「鬼滅の刃」で使用されるCGはそういうわけで、見事な効果をあげていると思える。
・強い主観主義‥‥「現在だけが問題」で、「その現在は、いわば予想を超えて、次々と出現する」、そして「状況は〈変える〉ものではなく、〈変わる〉もの」だから、「そこで予想することのできない変化に対し、つまり突然あらわれた現在の状況に対し、素早く反応する技術ー心理的な技術が発達する」というようなあり方が『千と千尋の神隠し』をはじめとする日本のアニメの一大特徴だ。(「」内は加藤周一の『日本文化のかくれた形』から)最近のアニメは、主人公が素早く反応し危機を乗り越えますし、観客はそれに喝采を送りますが、主人公が物事の因果関係を探ったり原因をつきとめる行動に出ることはほとんどありません。(←「鬼滅の刃」が正にそうです!!)主人公の良い心情は、必ず良い結果を生みます。因果関係の客観性・論理性は問われません。よってアニメは「建て増し主義」になる。豊富な細部のリアリティを、保証して全体を作り上げる。(←「鬼滅の刃」が正にそうです!!)
・「おたく的文化」の「集団主義」‥‥技術を、それを生み出した精神風土とは切り離して器用に受け取ったり、「遊び」として採り入れてしまったりする傾向。絵巻物(平安サロン)も浮世絵(黄表紙)も、マンガやアニメもそういうところから出発しながら、ほぼ自力で(留学もせず、外国の先生にも学ばず)独創的なところまで到達できた数少ない例。「集団主義」はそれを助ける。「そこには感覚の無限の洗練が起こるだろう」。(←大英博物館マンガ展図録を見ても、漫画家が世界を意識していた者は1人もいなかった)
「この世を力いっぱい生きたかった宮沢賢治」
宮沢賢治のことならおもしろい。と始まる高畑勲の賢治ミニ評伝。たった4頁に、賢治の言葉を換骨奪胎しながら、賢治の本質を述べる。
「タエ子の顔のいわゆる「しわ」について」
高畑勲は「日本のアニメの特徴」は「立体的に描かない」「単純な線にする」と自覚していたのにもかかわらず、近藤喜文という稀有な描き手を使って『火垂るの墓』『おもいでぽろぽろ』でリアルな立体的な主人公を描かせた。『ぽろぽろ』の27歳のタエ子にシワを描いている。高畑勲は筋肉の問題だとする。笑う時に見えるシワは、彼女の人格・意思の表れなのである。それは「成功した」と監督は感じた。一方で、この「しわ」を「醜いものとして感じて嫌う男たちがいる」と監督は述べる。アニメに自らの理想を投影して見たい人にとって、タエ子は夢想の対象となり得ない。実は私も「せっかくの美人が台無しだ」と思った男の1人である。女性はどう思ったのだろうか?(2000年記事)
「『竹取物語』とは何か」(2009年の未発表論文。映画企画書の一部)
←私はかつて何度もこのアニメ(「かぐや姫の物語」)の映画評を書いた。その本質をある程度は掴んでいたつもりだった。けれども、監督による28頁の解説を読んで、それが如何に浅かったかを思い知った。
←高畑勲は常に革新を求めた。
←高畑勲は常に仲間を大切にし、尚且つ活かした。
←高畑勲は常に総合「作家」だった。
←高畑勲は常に教養の塊だった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
高畑監督の「かぐや姫の物語」について、本書の最後の方にようやく登場します。高畑監督の竹取物語の深い考察、さすがでした。
日本人なら誰もが知っている「かぐや姫」。オチは知っているのに、私は映画を観て涙した1人でした。(平安時代の男たちの強欲さと対比された、嫗の愛情が涙を誘いました)
本書で高畑監督の竹取物語の考察を読んだことで、もう一度映画を観たくなりました。
本書はジブリオタクではなくとも楽しく読める内容です。特に、アメリカと日本のアニメを比較した内容は面白かったです。
・言語で口の動きが異なるので、セル画の枚数が違う。日本語は3枚程度で表現。
・アメリカのアニメは立体的な陰影がある。
(→感想:西洋絵画は立体的、日本の浮世絵は平面的。古くからのお国柄が関係しているのかも)
・日本のアニメは止め絵、決めポーズを重視。歌舞伎の殺陣や見得と同じ考え。
(→感想:キャラクターの必殺技のシーン、たしかに決めポーズが多い!ディズニーアニメで確かに決めポーズの印象ない‥) -
エッセイや評論集。戦後のアニメ製作黎明期から興隆期の、技術的あるいは創作・芸術的な課題とその克服の話は特に興味深く、質の高い作品を世に送り続けてきた著者ならではの観点やこだわりが伝わってくる。子供の頃我々が何気なく享受してきたあの場面あのセリフ等々が、明確な意図を持って綿密に設計され(アニメには偶然の要素は一切無い)、大勢のスタッフの共同作業によって築き上げられた事に、畏敬と感謝の念を覚えた。一方、アニメ大量生産時代に対しての批評は、論拠は確かではあるものの、老人の繰り言の観が無いでもなかった。今日は、アニメ作家のスタイルが確立しにくい時代なのかもしれない。
-
すさまじいインプットと、それを自分で解釈する力。
たとえば、東映にはいった当初の研修期間の学び。
ここまで、すべての学びを言語化し、覚えているって、なんだろう。
で、どの学びも作品に反映されているんだよね。
いわさきちひろの絵本にでてくる子どもは、悲しそうな顔をしている。
それは子どもは単純ではなく、傷ついたり、悲しむものだと表現しているようだ。
この人の映画の子どもってそうだなぁと。
こういう人たちが、新しい価値観をつくってきたのだなぁと思った。 -
絵巻物からアニメへの流れ、日本語の音声論、
ものすごいインプットのもとに創作していたことが
うかがえる。
日本文化における光の表現、
どこまでも受け身な主人公論など、
刺激的な論考が多かった。 -
禁煙に踏み切るまでの経緯や心情を詳細に書いている辺りなど、鈴木敏夫氏などが伝える高畑勲のイメージとぴったりと重なって、ニヤリとしながら読んでしまった。もちろん、過去の作品についての証言は貴重だし、『ほしのこえ』への批判や宮崎駿への距離感にも、高畑勲の映画観が表明されている。
-
高畑さん、もっとあなたの作品を観たかった。
言葉を聞きたかった。