今回の物語も、とても読みやすい内容でした。
受け入れやすく、わかりやすい、それがこのシリーズのいいところですね。
もっと重々しい内容が好きな方にはライトすぎる部分もあると思いますが、テーマになることには、考えさせられることがたくさんあります。
ここからネタバレです。
拐かされた天青が、隷民街で、民の現状を知り、自分ができることとして濾過桶を必死で作ること。
鶏冠が隷民街の子供たちに施しをしていること。
違う立場、違う状況で行っている行動が、とても似ているように感じ、
2巻で、2人が「似ている」と2度言われることがあったけど、今回は行動としてそれが感じられました。
『違う立場』であるからこそ、周りからの目線は違っていたりもして、そこに大人になることや権力や妬みなどの縮図も感じてしまいました。
どちらも「自分ができることを」「他意なく」「心からの(本人は善意であると意識していない)善意として」行っていることです。
読者は2人の性格を知っているし、離れた場所で見ているから、2人の行動をただ好ましく思います。
例えばこんな2人が現実世界にいたとしたら、それを好ましく受け取れる人がどれだけいるだろう?
鶏冠の周りの他の神官のように、陰口を叩いてしまう人はどれだけいるだろう?
その善意が、何か裏がある行動だと捉えたり、妬ましさから穿った考えで評価したり。
残念ながら、そういう人が世の中にはいる。
そして、行動をする場合にも、天青や鶏冠のように、「自分ができることを」「他意なく」「心からの(本人は善意であると意識していない)善意として」行うことができる人って、どれだけいるのだろう?
私自身でも、他意なく相手の気持ちを考えて行った行動に対して、偽善だと言われることが何度かありました。
『偽善』と言えば、
真心から行動した天青や鶏冠のこれらの行動に対して、
藍昌王子が貴族に穀倉を開かせる命令を発布したことに関して…
その中で、笙玲の父である桑慶義は『当然として受け入れるだろう』と王子自身も言っており、それは受け身での善意の行為ではあるけど、偽善ではありません。
反対に、側室・蝶衣の祖父である景羅は、『穀倉開きの発令を試している』と見抜き行動しています。
(描写はありませんが)、それにより景羅が穀倉を開くことは偽善でしかありません。
困窮した民から見れば、桑慶義が穀倉開きすることも、景羅が穀倉開きすることも、同じ「穀倉開き」で優劣がつかない事実なんですよね。
そのような『善意』に関するそれぞれの違いを感じた今作ですが、『なりすます』に関しても3つの差が楽しかったです。
鶏冠がまたも女装を披露したのは、毎回女装ネタがあるのはちょっとチープになりすぎないか?とは思いながらも、ファン心理としてはウキウキするものがありました。
話が進むにつれ、鶏冠は天青の姉に『なりすまし』、天青は笙玲に『なりすまし』、櫻藍は慧眼児に『なりすまし』。
その対比が、重たいテーマの中でメリハリになってました。
さて、そんな対比や物語のメリハリがあり、1冊もさほど長くないので分かりやすい構成で楽しく読んだ1冊ですが、ラストでまたまた分かりやすい悪者の登場。
正体は明かされることなく登場しましたが、この1冊を読んだ人は賢母ではないかしら?と想像してしまいますよね。
引き続きのシリーズが楽しみです。