- Amazon.co.jp ・本 (352ページ)
- / ISBN・EAN: 9784043707041
作品紹介・あらすじ
日本の大学は今や「冬の時代」を迎え、私立大の40%が定員を割っている。この危機の中、多くの大学は「市場原理」を導入し、過剰な実学志向と規模拡大化に救いを求めている。この現状は学生を真の「学び」へ導くのか?大学の社会的使命とは何か?最も信頼できる論客が、大学の原点に立ち帰り放つ、画期的教育再生論。文庫化に際し、文科省国立大学法人支援課長・杉野剛氏との「大学の行方」をめぐる新対談も追加収録。
感想・レビュー・書評
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少子化到来で存亡の危機に瀕している大学。著者は、大学人として危機感を抱き、大学を「ダウンサイジングせよ」と警鐘をならしている。また、学生の学力低下、ひいては日本全体が知的に地盤沈下していることをも嘆いている。収録されているのは15~20年くらい前に書かれたエッセーだが、今はどうなんだろう。状況は更に悪化しているのかな?
著者は、大学のあるべき姿として、「社会の支配的な価値観と乖離していていい」、「象牙の塔」でいい、「ある程度非常識な空間であっていい」と言っているが、これには素直には頷けない部分もある。思い返すと、酷い内容の講義を毎年繰り返すだけの体たらくな教員が結構いたからなあ(著者はこの点について、ダメ教員は放置してエクセレントな教員の自由度を高めた方が、全体のパフォーマンスは確実に上がる、と仰っているが…)。
大学の存在意義が、キャリア教育ではなく「成熟した市民を育てる」ことにある、「大学で教えるのは、自分自身を上空から鳥瞰できるような視座に立つ力、それだけで十分」、とい言い切る切れ味良い主張には納得した。
という訳で本書、内容そのものより、著者の切れ味の良い文章を堪能できた。
第8章を読んで、著者が全共闘世代だったことを知った。しかも、一時は学生運動に足を突っ込んでいたとは! 著者の論説が筋金入りであることの理由が分かった気がする。 -
本書の一番面白いところは、「あとがき」なのではないかと思う。筆者である内田樹氏は本書の「あとがき」で、文庫化される以前に書かれたテキスト(『狼少年のパラドクス――ウチダ式教育再生論』収録のテキスト)と現在の考えに乖離があることを率直に述べている。
その乖離は、大学の自己評価に対する考え方の変化の中で生じている。本書に収録されたエッセイの中で、内田氏は大学および大学教員の自己評価を積極的に推進しようとしている。しかしそうして自己評価が始められるようになってすぐに、「評価コスト」の問題――大学の自己評価は、コストに比してパフォーマンスが低くならざるを得ないこと――に気づく。そうした気づきのあとに行われた文科省の担当者との対談では、「評価コスト」の問題について内田氏から批判的な意見が提示され、それについて議論が行われている。
このように本書には、さまざまな時期に書かれたさまざまなテキストが掲載されているので、事情を知らずに読む読者は「なんだか支離滅裂だ」という印象を持つかもしれない。しかし、現時点で大学に在籍し、大学教育に携わろうとする私にとっては、このような思考の筋道が見えることがありがたかった。
自己評価ばやり、FDばやりの大学において、何をどのように考えていったらいいのか――本書に示された内田氏の思考と模索の過程を見つつ、この先のありようについて考えていければと思う。 -
2000年から2006年にかけてブログに書かれた
内容を採録したというだけあって、ウチダ節が冴え
わたった一冊。
“学校というのは子どもに「自分が何を知らないか」を
学ばせる場である。一方、受験勉強は「自分が何を
知っているか」を誇示することである。”
“定期的に「頭の中身」を満天下に明かして、批判の
矢玉に身をさらすのは、学者の責務であると私は思う。”
縦横無尽の炸裂ぶりに、いつもの通り胸がすく。
でも、この本を読んでいていつものウチダ本と少し
趣が違うなと感じたのが、母校・日比谷高校と全共闘
について描かれた第8章と第9章。
正直、全共闘と言われてもピンとこないワタシには、
この部分はウチダ本としては珍しくあまり”入って”
こなかった。 -
世間一般で言われている大学論とち違う。考えさせられるところが多々ある。内田教授の授業を受けてみたかったなぁ〜。
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街場の大学論
内田樹24冊目
・学ぶことそれ自体がもたらす快楽
「こうやってバリバリ勉強していればいつかいいことが経験できるという未来の確実性ではなく、こうしてばりばり勉強が出来るのも今だけかもしれないという未来の不透明性によって勉強していたのである」後者がまさしく勉強することそれ自体の快楽である。これが根源的な人間の学習へのモチベーションであるし、並行して読んでいた「グーグルの働き方とマネジメント」にも、潤沢な資金や時間ではなく、一定の制限によってもたらされる制限にこそ、イノベーションの種があると言っていた。
・狼少年のパラドクス
狼が来たというそれ自体は村落の防衛システムの強化を求める教化的なアナウンスを繰り返しているうちに「狼の到来」による村落の防衛システムの破たんを無意識に望んでしまうこと。
組織の自己評価は難しく、「欠陥はない」という言い逃れで問題点を隠蔽して責任を回避しようとする人間と、「欠陥がある」という己の指摘の正しさを証明するために、組織的欠陥を露呈するような状況を待ち望むような人間の二種類を生み出してしまうからである。
・学術性の本質は「贈与」。論文は、自分を同じ主題で論文を書こうとしている5年後、10年後の人間を想定し、その人がその研究をしやすいような道筋を整える、まさしく地図を贈与することである。だから、贈与ではない論文、つまり、未来の読者を想定していない論文は、今の読者にとっても非常に不親切で読みにくい。
・大学は、大学外の組織や階層にとらわれない「アジール」「駆け込み寺」であることが本義であるのにもかかわらず、資本主義的な淘汰の波にさらされることによって、付属の高校や中学をつくったり、その人間のまさしく階層を作り出す側の機能を持ち始めていることが問題である。 -
10年前のものだけど、未だにリーダブルなのは大学に関する日本の流れが変わってないからだろうなぁ。下っ端ながら大学に関わるものとして、暗澹たる気持ちになる。研究者に必要な資質として「非人情」というのは、全くもって同意します。
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著者のブログや雑誌記事のまとめ。
著者の考えは私とは違いますが、ビジネスに傾く高等教育に危機感を持っている事では一致しています。
これは教育だけでなく日本の産業にも思っている事ですが。
少子化なんだから無理に定員を維持せずにダウンサイジングすればいいと言う意見には同感です。
企業の一斉採用の動きが、学びが足りない場合の留年や進学を阻み、教育の場を就活予備校状態にしている元凶だと考えているのだが、これは高等教育と産業界との関係から変えないと教育業界だけでは、今の危機を脱せないのではなかろうか。と思うのは私だけだろうか? -
著者のブログで発表された文章を中心に、大学教育をめぐるエッセイを収録しています。また、著者の勤務校である神戸女学院大学での取り組みについても触れられています。
「文庫版あとがき」で著者は、本書に収録されている文章が書かれていく中でみずからの立場は変化していったと言います。当初は大学教員にあまりにもビジネス・マインドが欠如していることに批判的な立場に立っていた著者は、しだいにビジネスの枠組みで大学教員を評価することの問題点に気づいていったとのことです。
しかし、大学を取り巻く環境の厳しさをはっきりと見据えながら、時代に安易に迎合するのではなく、大学の役割を根本から考えなおそうとする著者の態度は、揺らいでいないように思います。リアルでクールな認識を貫きながら、けっしてペシミズムに陥ることのない著者の精神の強靭さが、本書全体を貫いているという気がします。 -
アンダーアチーバーを働かせようといて,オーバーアチーバーの邪魔をする改革。ミッションの明確化は区別化のリスクを引き受けること。
論文を書くこと→学生と一緒に読もう