- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784044006525
作品紹介・あらすじ
エロ、暴力、心の傷、ホラー、ゾーニング、変態、炎上、#MeToo、身体、無意識……
「欲望」をテーマにこの世界を読み解けば、未来の絶望と希望が見えてくる――。
「現代人は、かつての、つまり二〇世紀までの人間から、何か深いレベルでの変化を遂げつつあるのではないか、というのが本書の仮説なのです。」―「序」より
【目次】
序
第1章 傷つきという快楽
第2章 あらゆる人間は変態である
第3章 普通のセックスって何ですか?
第4章 失われた身体を求めて
終 章 魂の強さということ
文庫判増補
感想・レビュー・書評
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【はじめに】
哲学者の千葉雅也、AV監督の二村ヒトシ、彫刻家の柴田英里による複数回に渡る対談をまとめたものである。
千葉雅也の性的嗜好がゲイであること、二村ヒトシが主に女性が主導権を持つようなタイプのAV作品を手掛けていること、柴田英里がフェミニズムの論者であることから、ある意味ではラディカルで、また話題というよりも観点が多岐にわたることになる。本としてのまとまりという意味では欠点するものがあるかもしれないが、「欲望」の本質からするとそのまとまりのなさもまた必要なものなのかもしれない。
【概要】
先に本書はまとまりに欠けるところがあったと書いたが、それでももし本書をまとめるとすると千葉雅也による序文が適切なまとめかもしれない。いわく本書は「欲望」に関わる会議であるが、そこで語られる「欲望」とは、明確に「性的欲望」のことであるとされる。また副題にも挙げられた「ポリコレ」は三人の間で「マジョリティからマイノリティに向けられる偏見や抑圧に抵抗し、マイノリティをエンパワーするもの」と定義される。そして、三人は「現代の我々はどのような主体であるのか」を性の観点から考察することになり、したがって自然に議論のテーマはよって主にフェミニズムやLGBTQにまつわる話となっている。また、ひとの心は歴史的条件に規定されており、時と共に「人間の本質」は変化するという考えをとることで、あくまで「現代」における性的欲望についての議論であり、それは過去とは異なるものであり、また将来変わっていくであろうことを示している。
話題は三人のカバーする範囲の広さから多岐にわたる。性的学習における少女漫画の役割、映画『マッドマックス』のジェンダー論的分析、少年漫画におけるポリコレ問題としての『ゆらぎ荘の幽奈さん』事件、インターネット時代における忘れられる権利と中動態、性暴力の映画表現、まなざしとエロスと罪、妊活セックスの変態性、ゾーニングの必要性と十分性、ゾーニングとバイセクシャルによる侵犯、ポルノと傷つくということ、痴漢冤罪の問題、痴漢に遭うことを性的客体とみられることとして自慢する女性の存在、#MeToo運動の非合理性、伊藤詩織さんとはあちゅうさんによる代表の不幸性、LGBTQの社会的包摂への違和感、サイコパスしか映画の中で悪役になれない、フェミニズムの戦闘民族化と保守化、LGBTが婚姻制度に含まれることの違和感、ポリティカルコレクトネスの過激化、簡単に不幸であると言えるようになったこと、主知主義と主意主義、エロティック・キャピタル、フェミニズムの再発見、などなど。
文庫版で追加された二回を含めて計七回の対談は、それぞれ「傷つきという快楽」「あらゆる人間は変態である」「普通のセックスって何ですか?」「失われた身体を求めて」「魂の強さということ」「<人類の移行期>の欲望論」「個人と社会のあいだで」という魅力的なタイトルが付けられているが、必ずしも各回で統一されたテーマが設定されて話が展開するというものではなく、複数回に渡って話題にされるテーマも多かった。三人の多彩なポリフォニーを楽しむのが薦めることができる鑑賞の仕方ではあるまいか。
【所感】
あまりにも多面的であるからこそ、何をここから読み取ったのかということによって、読者のこの問題に対する価値観や思い込みが析出されるのではないだろうか。
「自分自身の揺らぎを自己再帰的に捉えることをすごく嫌いますよね」と千葉さんが語るのも印象的だし、「自分の考えは間違っていないと疑いなく信じているように見える人と怒っている人が生理的に嫌いという、それは僕の心の穴のかたちなんです」と自己認識に仮託して社会を批判する二村さんの言葉が、自分にはこの本での著者たちの立場を象徴的に示しているように思えた。正義に寄りかからない新しいポリティカル・コレクトネスが必要なのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
この本を読んで思い出した事があります。
もしかしたら何かの偶然で千葉さんや柴田さんの目に止まる事もあるかもしれないとも思い書いておきたいと思いました。またどうか一人でも多くの方の目に止まればなと思っています。
ジェンダーやトランスジェンダーという言葉を聞くようになったのは、2000年の初めの頃でした。
当時、自分はファッション業界で仕事をしていて、ゲイの多いファッション業界とその周辺ではとても身近な話題となっていました。当時のマルタン・マルジェラやジャン・ポール・ゴルチェなど多くのメゾンがコレクションのテーマにしていたシーズンがあった事も記憶にあります。ゴルチエ本人の口から聞いた事も覚えています。また当時のフランスではファッションデザイナーと哲学者の距離がとても近く、ジェンダーという超えられないものを超えていくという事はどういう事なのか?という哲学の命題足りえるトピックは当然、フランスの哲学者の興味を惹いていましたし、そんな哲学者からの影響がパリのファッション業界にも伝播したのは間違いない、そんな印象でした。
そして当時の議論はどういうものだったかというと、ジェンダー・性差というもの確かに存在するものである、また変えられないものである、でもだからこそ、それを超えていくという事には価値があるのではないか?…というものでした。
なるほど哲学的でもありファッションデザイン的でもあり、議論する価値のある事だと思いました。しかしながらその後自分はファッション業界からも哲学からも遠ざかり、ジェンダーやトランスジェンダーについて議論する事もなく話題にする事もなく暮らしてきました。
そしてこの本を読んで思い出したのです、昔、哲学者やファッションデザイナーが議論したりコレクションで作り上げたジェンダー・トランスジェンダーの議論はどう紆余曲折したり、または決着などがあったりしたのだろうかと。
ところが……調べても調べても何も出てきません。
フェミニズムやゲイの歴史はインターネット普及以前の事であってもネットでもいくらでも調べれば出てくるのに、ジェンダーやトランスジェンダーについて問題提起をしたパイオニアである彼らの議論をネットで記事にしていたり、または出版されているものに書かれている事もありませんでした。
ただ一つ分かった事はありました。
僕がそこを離れてから間もなく、2000年代初頭にアメリカからジェンダーフリーなる運動が始まったそうです。
前述のとおり、認識問題を解明する哲学者達や世界を作り上げるファッションデザイナー達が、ジェンダー・性差というもの確かに存在するものである、また変えられないものである、でもだからこそそれを超えていくという事には価値があるのではないか?…という議論をしている所に土足で上がり込んできて、ジェンダー?そんなものねぇよバカじゃねぇの!という暴言暴論をいきなり展開したわけです。これがジェンダーフリーの正体です。
またこの運動は日本でもあったらしく、なんとあの香山リカという人がその言葉を盛んに口にしていたという事も知りました、もうだいたい話の行き着くところ想像つきますよね…
2000年代初頭の二階堂奥歯さんの日記の中にジェンダーやトランスジェンダーという言葉があるのを知った、というような記述があったのでその頃おそらく、日本でも何かしらの話題や議論があったのだと思います。そして呼んでもいないのにやって来た、デカい声で叫ぶだけのジェンダーフリー運動家が議論も反論も受け入れるはずもなく、キレたりゴネたり厄介者扱いされたりしてタブー化して、触らぬ神に祟なしで言い分が通った格好になったのは、昨今の自称フェミニストや自称アクティヴィストを見れば想像にかたくないでしょう。そして今日、一企業などまでもがジェンダーフリーなる言葉を当たり前のように使う時代・現代になってしまったのだと、心の底から残念な気持ちになりました。フランスでもきっと同じような事があり当時の哲学者達が興味を失ってしまったのだとも思いました。
ジェンダーという議論する価値のあることを台無しにしたブチ壊した張本人達が確かに存在する事実に怒りで震えます。そして都合の悪いことは無かったことにするあいつらのいつものやり口です。
全ては僕の知る事実からの推測に過ぎませんが、当たらずとも遠からずといったところではないでしょうか。
ジェンダーフリーを受け入れられるアメリカが先進的なのだと言う自称知識人や自称米国在住の方もいらっしゃるでしょう。しかしNYマンハッタントライベッカに暮らしていた自分から言わせると、アメリカ人は人種に関わらずブスにはブスとデブにはデブとはっきり本人の前で言うし、だからこっちには来るなとも言う、それから自分と違うクラス・階級やカテゴリの人間はたとえ目の前に居たとしてもそこに存在しないものとして振る舞える人達です。黒人奴隷にもそうしていましたね。目の前の人間とは議論どころか会話もしない、拒絶するのが当たり前、ジェンダーフリーとはアメリカ人らしい言葉だと思います。もちろん全く褒めてはいません。
ジェンダー・性差というもの確かに存在するものである、また変えられないものである、でもだからこそ、それを超えていくという事には価値があるのではないか?
この議論を千葉雅也さんのような新進の哲学者や柴田英里さんのような才気溢れるアーティストに復活させてもらいたいのです。あの頃のパリでなされていたように。そしてジェンダーのトピックスや問題を正しく導いて欲しいです。
お二人とも若くていらっしゃるので、昔々そのような議論があったことはご存知ない事だと思いました。そして読書の感想としては間違ったものかもしれませんが、この本を読んで書かずにはいられなくなった事でした。
はっきり言って昨今のジェンダーやトランスジェンダーの話題には違和感しかありません。そもそも何の話をしているのかも理解できない。
女装をすれば女になれる?
性器を切り取れば異性になれる?
クリトリスを切除するということはそういう意味ではないでしょう?
ジェンダーとフェミニズム、何の関係がありますか?
あなたたちのオリジナルマルクス主義は絶対に認めません。
フランス革命は失敗して恐怖政治が始まった、あなたたちのせいで。
アーレントならきっとそう言う。 -
性に関するテーマを堂々と語りあうこの本はとても面白い。
まだまだ世の中には知らないことがいっぱいありますね。 -
ゲイの哲学者とアダルトビデオ監督とフェミニスト論者の彫刻家の鼎談
2017〜2018年のトークイベントでの5回のディスカッションと2020年と2021年の鼎談。 -
単純な二元論では割り切れない両義性、そしてそれゆえの苦しみを身体をもって受け容れること
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第1章 傷つきという快楽
少女マンガという恋愛ポルノ
SNSの柴田さんは欲望を映し出す鏡
ホラーとポルノの並行性
イキすぎて怖い
受け身的自己破壊
オーガズムはボストトゥルース
社会彫刻としての「炎上」
ろくでなし子批判の背景にあるもの
ジェンダー本質主義とジェンダー構築主義
ゾーニソグとマイノリティの欲望
『マッドマックス』とフェミニズム
傷つきという快楽
第2章 あらゆる人間は変態である
『ゆらぎ荘の幽奈さん』問題をめぐって
エロティシズムと偶然性
ボルノと原発
権力とエロス
「愛のあるセックスがエロい」と言い続けたい
欲望は男女二元論で語れない
プライバシーをどう考えるか
料理没画のオーガズム
人体改造のエロさ
ハラスメントをどう考えるか
あらゆる人間は変態である
性暴力に対する批判
第3章 普通のセックスって何ですか?
#MeTo oをどう考えるか
『デトロイト』と『スリー・ビルボード』
もうエロいAVは撮れない
祝祭の日常化
戦闘民族としてのフェミニスト
サイコバスとの交換可能性1
普通のセックス?
アンチソーシャル・セオリーのゆくえ
不愉快による禁止の怖さ
社会的包摂への違和感
第4章 失われた身体を求めて
ポリティカル・コレクトネスによる表象批判
変身する勇気がないと、傷つきから回復できない
性自認が本当の性か?
「私は不幸です」と簡単に言えるようになった
「強くなれ」と言えない時代
同性愛とペドフィリア
ゾーニングの本質
エロティック・キャピタルをどう考えるか
デフォルト状態の偏り
ネガティプな経験による享楽
エンターテインメントのゆくえ
当たり前の相対主義を言わなければならない
身体の喪失
終 章 魂の強さということ
「ペドフィリア=絶対悪」が表すもの
未来を複数化する
禁じられるとよりヤバくなる
傷の交換
森のある場所をどこに残すか
グローバル資本主義とボリコレ
魂の強さ
もっと引きこもれ
文庫版増補1 〈人類の移行期〉
コロナ禍のなかで
交尾化するセックス
くまクッキングの炎上
感術の時代
複雑化する対立圏式
偶然性への忌避感
#MeTooの暴力性
安心•安全なセックスと安心•安全なビジネスはつながっている
物語と身体の分裂
倒錯を忘れるな
文庫版増補2個人と社会のあいだで
フェミニズム・メディア・スクディーズの問題
本質主義をどう理解するか痰
VRのなかのエロティック・キャビタル
超ポリコレ的なコンテンツとは?
個人的なことを安易に政治にしてはいけない -
冷静な現状分析!