自分をみつめる禅問答 (角川ソフィア文庫)

著者 :
  • KADOKAWA
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784044089023

感想・レビュー・書評

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  • 恐山の副山主・南直哉師による対話形式の仏教入門書と言えば聞こえがいいですが、プッダや道元禅師を超えて、縁起を基軸に非己があるからこそ自己があるとする仏教理解に沿って世間を再構築する試みには難解さがつきまといます。
    ここまでの理解にたどりつけるか、私自身に問われている気がします。

  • 己とは何であるかという問いかけが「仏教」なんだそうだ。
    哲学的な内容で難しく、読んでいる瞬間は分かったような気になるのだが、読み過ぎていくに従い、さらさらと行間から流れて落ちていくように忘れていってしまう。
    その中で、「自殺」について触れられているところがあったので、少し端折りながら書き写しておきたいと思う。

    ---------------------

    ブッダは「人生はまるごと苦しみだ」と言い切ったが、命は大切だとは言っていない。ならば、早く死んだほうがよい、自殺したって構わないと言ってもおかしくない。

    しかし、彼はそう言わずに、困難な伝道の旅を野垂れ死ぬまで続けた。ブッダは苦しくとも生きるべきだと決断した。自殺を禁じる理屈はない。本当に死にたい人間は、どう理屈を説かれようとそれで説得されることはない。しかし、ブッダは苦しくとも生きていけと言う。理屈抜きでそう決めたそのとき、命は初めて大切なものになる。

    「自分が愛しい」という感覚を持った人間は、たとえ困難な中にあっても、そう簡単に自殺するはずがない。「命の大切さ」の認識の根底には「自分の愛しさ」があるはずなのだ。

    自分を愛しく感じることができるのは、自分の存在を大切にされ、肯定された確かな記憶があるかどうかによるだろう。自分の存在に根拠が欠けているにもかかわらず、自分を肯定し、愛しく思う気持ちがあるとすれば、それは他者からくる。

    後に「親」となる存在との理由なく出会い、誰であるか、あらかじめ知ることのできない「非己=己でなはない存在」によって、無条件に受容され、慈しまれること。この事実のみ、自分の存在を肯定する感覚は由来するだろう。

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  • 「問いからはじまる〜」の文庫版だった!けど、折角なので再読。

著者プロフィール

1958年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、大手百貨店に勤務。1984年、曹洞宗で出家得度、同年、大本山永平寺に入山。以後、約20年の修行生活を送る。2003年に下山。現在、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代。著書に、『語る禅僧』(ちくま文庫)、『日常生活のなかの禅』(講談社選書メチエ)、『「問い」から始まる仏教――私を探る自己との対話』(佼成出版社)、『老師と少年』(新潮文庫)、『『正法眼蔵』を読む――存在するとはどういうことか』(講談社選書メチエ)、『出家の覚悟――日本を救う仏教からのアプローチ』(スマラサーラ氏との共著、サンガ選書)、『人は死ぬから生きられる――脳科学者と禅僧の問答』(茂木健一郎氏との共著、新潮新書)など多数。

「2023年 『賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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