日本に古代はあったのか (角川選書 426)
- KADOKAWA/角川学芸出版 (2008年7月10日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
- / ISBN・EAN: 9784047034266
作品紹介・あらすじ
私たちの歴史観は、時代区分の位置づけにより大きく左右される。日本では明治以後、武家の台頭が中世の起点となるが、中国の中世は日本より数世紀先んじている。一方、西洋には古代がない国もある。ユーラシアの東端にある列島は世界史のなかにどう位置づけられるのか。律令制、荘園制、封建制など、さまざまな観点から時代の変わり目を考察し、従来の歴史観にとらわれず、ユーラシア史との関わりのなかで日本史に新たな光をあてる。
感想・レビュー・書評
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2015.10.2
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日本史に古代はなかった、邪馬台国から中世だと説く。中国史の時代区分との比較など、根拠も面白い。
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めっちゃ面白い
ただひたすら古代史が平安時代まである違和感を多方面から論証している -
面白かった。
時代区分をよくよく考えたことがなかったから、なるほどなぁ…という感じ。 -
関東史観と関西史観。
中世を鎌倉時代からとみるか、平安時代からとみるか -
歴史学者ではなく、建築が専門である著者の初歩的な疑問、つまり、外国人から聞かれた法隆寺の建設時の時代区分から出発し、その疑問点を書き綴っていくのだが、関西人であり、京都人である著者のユーモアあふれる書きぶりがとっても面白かった。内容は以下のとおり。
1宮崎市定にさそわれて
2内藤湖南から脈々と
3ソビエトの日本史とマルクス主義
4弥生に神殿はあったのか
5キリスト教と、仏教
6応仁の乱
7鎌倉時代はほんとうに鎌倉の時代だったのか
8江戸から明治の頼朝像
9ゲルマニアになぞらえて
10平泉澄と石母正
11東と西の歴史学
12京都からの中世史
13ライシャワーの封建制
14司馬遼太郎よ、お前もか
15梅棹忠夫のユーラシア
となっている。
歴史と接するとき、如何にバイアス、色眼鏡をかけずに真実に迫れるか、そこがキモであるが、マルクス主義史観、皇国史観、著者の言う「関東史観」、歴史の専門家ではない視点からのお話し、とにかく、読書は楽しいものであります(笑)。
最後に、関西人である、司馬さんも、関東に寝返った(笑)、そして、洛内人である梅棹氏も同罪であるとのお話し、とっても愉快でした。 -
スリリングな謎解きで歴史をたのしむ!
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今の日本史観は関東中心に作り上げられており、それゆえ大陸の歴史、世界史的区分と不整合を起こしている。史実における東西の勢力関係を再検討すれば、日本に古代がなかったのではないかという疑問が生まれてくる。
以上のようなことがこの本の主張である。戦前日本での古代概念がマルクス主義でいうところの原始と混同されていたことには言及していないなど、通俗的な論にしても多少難のあるものではあるが、戦後日本史批判としては非常に面白い一冊。また、ざっくりとではあるが、戦前日本史の研究史に触れており、渡辺義通と早川二郎の論争、内藤湖南から宮崎への道筋など、重要だがまだ研究が進んでいない側面に光を当てている。
近代日本の思想史をやっている私が考えるに、外部からの視点ゆえというべきか、かなり鋭い指摘である。また、前提知識がなくとも読み物として楽しめる一冊である。 -
原勝郎の「東国武士」=「古代へ一撃を加えた革新者」という図式は、
高橋昌明 『武士の成立 武士像の創出』 の冒頭にも批判すべき言説の一例として、掲げてあったことを思い出した。
やはり只者ではなかった宮崎市定! -
微妙だ。
すごく面白いところと、あまりにもおかしいところが同居している。
応仁の乱で日本史を二分するのはいいだろうし、東洋史(中国史)の一部として日本史を扱うのもいいだろう。
その結果として、ある種の思考実験として、中世を邪馬台国までさかのぼらせてみるというのもありだと思う。
だけど、そこに関東史観のようなものを出すから話がややこしい。
ちょっとした余談にするか、もしくは脱亜入欧や明治の東京奠都正当化という話への枕として用いるのならばともかく、本当にここどまりだった。
作者の正気を疑う。
「平安京」に生きた人は、自分自身を「平安京に住んでいる」と認識していただろうが、「古代」に生きた人は、自分自身を「古代に生きている」とは認識していない。
古代、中世、近世、近代は、定義があって初めて成立する概念だ。
マルクス主義的な定義、ヨーロッパ中心主義的な定義、歴史進歩主義、その他いろいろあるのだろう。それらを解きほぐしたうえで、妥当な古代や中世の定義を提唱し、それにのっとり、日本には古代はなかったというのが適当だと思う。
著者が古今の歴史学者を批判するときの論点は、「定義が妥当ではない」なのか「定義の適用が妥当ではない」なのか、はっきりしない。都合よく取り換えているように思う。
マルクス的スコラ主義でもなく、歴史進歩主義でもヨーロッパ中心でも、自閉的国粋主義でもなく、まして「関東史観」でもなく、かなりいい線まで迫っているのが、京大の黒田俊雄氏の「蒙古襲来」の説明だと私は読んだ。
私もそう思ったし、著者もそのように評価していると思う。
なのにそれを、関西人の酒の席の軽口程度のレベルに落として、「いよお、黒田屋、ええぞええぞ」では、読んでいるほうが情けない。
テーマも内容もいいし、考察も視点ももっともだと思う。
古今の研究をよく踏まえていると思うし、視野は横断的だ。
本人としても、ずっと温めてきたテーマのようだ。
それなのに、なぜ? という気持ちになる。