中国文明の歴史 (講談社現代新書)

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  • 講談社
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  • Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784061497610

作品紹介・あらすじ

もっとも平易でコンパクトな中国史の入門書。中国とはどんな意味か、そしていつ誕生したのか? 民族の変遷、王朝の栄枯盛衰や領土拡大を軸に、中国の歴史をわかりやすく教える。まったく新しい中国史の登場。(講談社現代新書)

感想・レビュー・書評

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  • 2020.07―読了

  • 後半は歴史的事実を事細かに書き並べるだけで味気ないが、前半(古代~南宋・五代十国時代)は面白い。
    古代から洛陽盆地は、黄河の性質とあいまって、水陸両方において交通の要衝として栄えていた。それより上流になると流れが急すぎ、下流だと氾濫に悩まされる。
    夏は東夷の王朝で、龍(水神)を祀るのは東南アジアとの繋がりもある(続く殷、周ではこの風習は見られない)
    殷は東北の狩猟民の王朝。
    周、秦は西方の遊牧民の王朝。
    また、漢字はもともと商人が使っていたする点も興味深い。
    各民族それぞれの読みで読んでいたのを次第に一つの漢字に一つの読みへと整理された人工的な言語だった。
    孔子などの各教団のそれぞれ独自のテキスト、読み方、文法が子弟相伝の閉鎖的なものだったのを、国家が文字の使い方を教えるというオープンな形にしたという点で、始皇帝の焚書坑儒は評価できる。
    (後漢末の黄巾の乱で漢人は激減、北方異民族が大量に流入し、発音も北方由来のアルタイ語化する)
    表音文字を使用する種族は情緒を表現する語彙が大量にあるが、表意文字である漢字はそもそも抽象的表現に向いていないので、『紅楼夢』のような小説でさえ感情を表現する文字はほとんど見られず、具体的な事実と行動の描写に終始している。

  • 授業に合わせて

  • ずいぶん前に買って本棚に眠っていた(積ん読になっていた)こちらを読了。
    久しぶりの故・岡田英弘先生節を堪能しました。岡田史観がとてもコンパクトにまとまっており良書かと。専門が満州・モンゴル史だけありその部分が相対的に詳しく叙述されているところが他の中国史概説書との大きな違い。
    「中国」とは何か?を知る入門書かと。

  • 読破。
    かなりの知識が教科書的にひたすら詰め込まれているため、人名、地理、民族、言語等々の固有名詞が多すぎて正直なところ、読み物としてはあまり面白いとは感じられなかった。とはいえ、所々興味深い分析等があるため、おそらくそれぞれの時代の知識がある程度ある人達にはなかなか面白い本となるのではないか?という気もした。

    中国の歴史の流れを幾つかのポイントを元にまとめており、それぞれの継続性・断続性への明記が多々あり、それをベースに分けている。その分け方もわかりやすいが、断続性を持ってして本来の中国か否かというのもやや乱暴な気がする。どちらにしろ、どこかの時代により詳しくなったら、またその次代の箇所を読み直してみたい本ではある。

    P.13
    そもそも「国」の本字の「國」は、もとは「惑」だった。外側の「くにがまえ」の四角は、すなわち城壁をあらわし、内側の「惑」の音の「ワク」「コク」は、武器を持って城壁を守る意味をあらわす。つまり「国」は「みやこ」なのである。
    ただしのちに「国」は「邦」とおなじになった。「邦」は「方」と同じで、「あの方面」「この方面」を指し、「国」よりは広くて、日本語の「くに」にあたる。これは、紀元前二〇二年に皇帝の位にのぼった漢の高祖の名が「劉邦」といったので、「邦」を発音すれば失礼に当たる。それで「邦」を避けて「国」ということになったのだ。そのために「国」が「くに」の意味になったのである。
    それで「国」が「みやこ」だとして、いったい「中国」とはどこなのか。
    紀元前六世紀末に哲学者・孔丘(孔子)が自ら編纂したという『詩経』の「大雅」の『生民之什』に、「この中国を恵み、もって四方を綏んず」という詩があり、そこの注釈に「中国とは、京師である」といっている。京師とは、首都のことである。まんなかの「みやこ」だから、首都の意味になるのは当然である。

    P.17(イタリアの宣教師ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティが日本布教時に捕まった)
    新井白石は、シドッティの語ったことをもととして『采覧異言』(一七一二年)、『西洋紀聞』(一七二五年)を著し、ヨーロッパ人の知識に基づいて世界の形状を描写したが、そのなかに日本人が「漢土」とか「唐土」とかいうものを、ヨーロッパ人は「チーナ」といっていることに注目し、古い漢訳仏典出「支那」と音訳されているものを探し出してこれに当てた。それから日本では、「チャイナ」などの訳語として「支那」が定着し、だれもかれもが「支那」を使うように成った。
    一八五四年から翌一八九五年にかけて、日清戦争が起こった。これに破れた清国は大いに衝撃を受け、日本を手本に西洋化に乗りだし、翌一八九六年、第一陣の留学生を日本に覇権してきた。それ以降年々増加した留学生は、日本人が自分たちの故郷を「支那」と呼んでいることを、留学してみてはじめて知った。これまで清国には、皇帝が君臨する範疇を呼ぶ呼称がなかったので、はじめは日本人の習慣に従って、自分たちの国土を「支那」、自分たちを「支那人」と呼んだ。
    しかし、「支那」は意味をあらわさず、表意文字である感じに乗せるには都合が悪い。「支」といえば「庶子」、「那」といえば「あれ」のことになってしまう。そこで「支那」に代わって「中国」を、意味を拡張して使うように成った。これは一九世紀の末から二〇世紀はじめにかけてのことだが、ここにいたってはじめて「中国」が全国の称呼として登場したのである。

    P.22
    東アジアの大陸部に、「支那=中国」(China)と呼んでもいいような政治的統一体がはじめて完成したのは、いうまでもなく、前二二一年の秦の始皇帝による統一からである。ここにはじまった中国の歴史は、それぞれの時代において「中国」の観念が適用されうる地域のひろがりと、「中国人」にふくまれる人びとの範囲を基準として区分すると、三つの時期にわけられる。
    前二二一年の秦の始皇帝による最初の統一から、五八九年の随の文帝による再統一までを第一期、一二七六年(本書では杭州の陥落をもって南宋の滅亡とした)の元の世祖フビライ・ハーンによる南北統一までを第二期とし、それから一八九五年の日進戦争の配線までも第三期として、ほぼ八百年、7百年、六百年の三つの時期にわけて考えるのが、考察に適している。
    したがって、前二二一年より前の時代は、「中国」以前の時代ということに生る。この時代がのちの漢人の祖となったいろいろな種族が接触して商業都市文明をつくりだした時代であった。また一八九五年よりのちの時代は、「中国」以後の時代とはいえ、中国人にとっての歴史が「中国」の範疇を超え、外のできごとや影響によって左右されるようになった。

    P.58
    前二二一年の秦の始皇帝による中国統一以前の中国、中国以前の中国には、「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡をくりかえしたのであるが、それでは中国人そのものは、どこから来たのであろうか。
    中国人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の観念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫である。

    P.62『周来』の「考工記」:前一世紀に儒家の古文はの手でまとめられた文献 より
    市場に入るさいには、手数料として、商品の十分の一を抜き取られたが、これが「税」の起こりである。後世でも、北京の崇文門は税関の性格をもち、通行の入城社には税が課せられたが、これは城壁が本来は市場の囲いであり、城門が市場の入口であった名残りである。また手数料が、市場の入口の柱に捧げられたところから、「祖」から「租」の語が発生した。もともと「租」の意味は「阻」で、入城を阻止するものだったからである。

    P.68
    中国語(漢語)と普通呼ばれているものは、実は多くの言語の集合体であって、その上に漢字の使用が蔽いかぶさっているにすぎない。そしてその漢字のきわめて特殊な性質が、中国の言語問題の理解を困難にしているのである。
    前にいったとおり、漢字の原型らしいものが発生したのは華中の長江流域であって、これを華北にもたらしたのは、もともとこの方面から河川をさかのぼってきたらしい夏人であった。夏人とむすびつく系譜をもつ越人は、後世、浙江省、福建省、広東省、広西チワン族自治区、ヴェトナムの方面に分布していたが、その故地に残存する上海語、福建語、広東語の基層はタイ系の言語である。つまり華中、華南が漢化する前、この地方で話されていた言語はタイ系であったと思われるので、この地方に故郷をもち、洛陽盆地を中心として最初の王朝をつくった夏人の言語も、タイ系であったかと思われる。

    P.76
    第一期の前記における歴史のハイライトは、秦の始皇帝が漢字の字体を統一して『篆書』をつくりだしたことと、いわゆる「焚書」である。(中略)紀元前六世紀末から前五世紀はじめの哲学者・孔丘(孔子)の創立した儒家をはじめとする諸教団は、それぞれ独自の経典をもち、その読み方を教徒に伝授して、それを基準として漢字の用法、文体を定めていた。つまりテキストはそれぞれ、それを奉じる人間の集団が付随しており、その読み方の知識、技術は師資相伝の閉鎖的なものであった。
    前二一三年の「焚書」においては、秦の政府は、民間の『詩経』『書経』「百家の語」を引きあげて焼いたが、「博士の官の職とするところ」、すなわち宮廷の学者のもち伝えるテキストはそのままとし、今後、文字を学ぼうという者は、吏をもって師となす、というのである。これは特定の教団に入信して教徒とならなくても、公の機関で文字の使い方を習う道を開いたものであって、この漢字という、中国で唯一のコミュニケーションの手段の公開であった。

    P.83
    一世紀から二世紀にかけての時期に、中国の文化史上に重要な時代の一つがやってくる。それは儒教の国教化と、それにともなう漢字の知識の普及である。
    儒教は、先にいったように、前漢の後半期に、他の多くの学術を吸収、総合して、未来の予知を目的とする一種の科学体系に発展し、王荞によって国教化された。(中略)一七五年、新たに公定して統一した経書のテキストを、石碑に彫って大学の門外に立てた。これを「石経」という。
    儒教の国教化以上に(中略)、一つの大事件がこの時代におこっている。それは新しい製紙法の発明である。(中略)このときから縦一尺の紙を横に長く貼りつないだ巻子が書物の形式に変わり、軽くてあつかいに便利で、しかも比較的安価になった。(中略)
    紙の使用の普及と儒教の国教化、テキストの公定化は、これまで文字に寄るコミュニケーションに無縁であった階層にも、文字を浸透させてゆく。

    P.122(一〇〇四年、契丹の聖宗が北宋の真宗と退陣、和議が成立し、真宗が契丹の皇太后を自分の叔母と認め、毎年規定の額を払うことになった:澶淵の盟に関して)
    司馬遷の『史記』にはじまる「正統」の歴史観で見れば、北宋としては二人の皇帝の併存を公式に承認したことになる。言い換えれば、これでは北宋の皇帝は、天下の統治権をもつ、ただ一人の正統の皇帝ではないことを認めたことになる。これは北宋にとって、屈辱以外のなにものでもなかった。
    こうした屈辱の反動で、実際は古く入植した遊牧民の子孫である北宋の人たちが、自分たちが「正統」の「中華」だ、「漢人」だと言い出して、傷ついた自尊心をなぐさめ、新しく北方におこった遊牧帝国を、成り上がりの「夷狄」とさげすんで、せめてもの腹いせにしたのが「中華思想」の起源になった。

    P.198
    中国のどの時代にもいえることだが、中国で一番金をもっているのは皇帝であり、戦争や外交などの臨時の費用は、皇帝のポケットマネーから出ることになっていた。朝廷の大臣たちの立場からいえば、戦争のときには、皇帝から軍事費を請求できるし、戦果があがれば、その作戦を主唱した大臣たちは恩賞にあずかれるし、前線の将軍たちもそれぞれ昇給する。戦争がつづけば、得をする者ばかりである。

    P.204
    明末、崇禎帝の一六二八年、陝西に第ききんがおこり、飢民は氾濫をおこして、府谷県(陝西省の神木県の府谷鎮)の王嘉胤を首領とした。やがて反乱は拡大し、(中略)王嘉胤は一六三一年、殺されたが、その部下は山西省に走り、やがて山西省、河北省、河南省、陝西省、四川省、安徽省、湖北省に及ぶ大勢力となった。(中略)一六四四年のはじめ、李自成は(中略)北京に迫った。(中略)崇禎帝は宮廷の裏の万歳山の寿皇亭に逃れて、(中略)絹をもって自ら縊れた。こうして明朝は朱元璋が南京で定位についてから、二百七十六年で滅びた。(中略)
    このとき、呉三桂という明の将軍は、山海関に駐屯して、清軍に対する防衛に当たっていた。北京で皇帝がいなくなり、自分は反乱軍と清軍のあいだに孤立してしまったので、呉三桂は、清朝の都の范陽に使いを送り、いままで敵だった満州人に同盟を申し入れた。
    清朝側の実験を握っていたのは、ヌルハチの一四男で、順治帝の叔父に当たるドルゴンという皇族の傑物で、まだ子供の順治帝の光景人をつとめていた。ドルゴンは、ただちに呉三桂の提案を受け入れ、清の全軍をあげて山海関に進撃した。
    北京を占領していた李自成は、二十万の兵を率いて山海関に押し寄せたが、呉三桂と清軍の連合軍に大敗した。李自成は北京に逃げ帰り、紫禁城の宮殿で即位して皇帝を名乗っておいてから、宮殿に火を放ち、略奪した金銀を満載して、北京を脱出して西安にむかった。
    ドルゴンが兵を率いて北京に入城した。明の朝廷の百官は一致して、ドルゴンに皇帝になってくれと懇願した。ドルゴンは笑って、
    「俺は皇帝ではない。ほんものの皇帝はあとから来る」
    と言い、瀋陽から順治帝を迎えてきて紫禁城の玉座につけた。こうして清朝の建国から八年で、明朝はかってに自分でほろび、中国の支配権が清朝のふところに転がりこんできたのである。

    P.226
    台湾がはじめて本格的に歴史に登場するのは、一六二四年、オランダがここに根拠地をおいてからである。この年、オランダ人は台湾島の南部の、いまの台南市の安平を占領した。この地の先住民がタイオワンという部族だったので、台湾の名がそれからおこった。(中略)スペイン人は、すこしおくれて台湾の北部の基隆を占領して、ここにサン・サルバドル城を築き、つづいて淡水にサント・ドミンゴ城を築いた。しかしスペイン人は一六四二年になって、オランダ人に追い出され、オランダ人が台湾全島を支配するようになった。オランダ人は先住民にキリスト教を布教したので、その副産物として、先住民の言葉をアルファベットで書く方法が開発された。(中略)オランダ人は食料調達のため、海峡の対岸の福建省から、中国人農民を台湾に呼び寄せて、開墾に当たらせた。中国人が台湾に住み着くようになったのはこれからのことで、オランダ人について入ったのである。このころ満州人が北京に入り、中国大陸の南部では、明朝の皇族たちがこれに抵抗したが、その一人が魯王で、福建省の沖合を本拠とした。その魯王をかついだのが、有名な国性爺、鄭成功(一六二四ー一六六二)である。(中略)一六六一年、二万五千の兵を率いて海峡を渡り、台南に上陸してプロヴィンシア城とゼーとランディア城を攻め落とし、オランダ人を降伏させ、台湾から追い出した。

    P.228
    清朝は台南に三つの県城をおいたが、これは鄭氏三代のような海賊の再発防止が目的だったので、中国人の台湾渡航を厳重に制限した。それでも、人口過剰の福建省からは密航者が耐えなかった。鄭氏の残党のやくざ地下組織と、着のみ着のままで密航してきた羅漢脚と呼ばれる大量の浮浪者のせいで、台湾の治安は極端に悪く、三年に一度の小反乱、五年に一度の大反乱といわれるほど、騒動が頻繁におこった。なかでも、一七二一年の朱一貴の乱と、一七八六年の林爽文の乱は規模が大きく、台湾全島が反乱軍の手に落ちた。
    台湾の治安の悪さは、中国人入植者どうしの仲が悪く、土地を奪い合って械闘と呼ばれるはげしい戦争をくりかえしたためである。台湾に移住した福建人には似種類があり、泉州市の一帯から渡ってきた人と、厦門市の一帯から渡ってきた人は、たがいを余所者扱いする。さらに広東省の頭部の汕頭市の一帯からの移民も、福建省の系統ではあるが、かなりちがう方言の潮州語を話す。この泉州人、厦門人、潮州人は、たがいに仲が悪かった。
    このほかに、客家と呼ばれる人びとがある。客家の本拠は広東省東北の隅の梅県だが、もともとは、一三世紀のモンゴル時代から華北の山西省より南下を初めた人びとで、話す言葉は中国語の山西方言である。客家の言葉は福建人にはまったく通じないし、生活様式もちがう。
    こういった複雑な事情のために、清朝は台湾をもてあまし、開発などを考えもしないまま、二百年がたったのである。

    P.235
    一六四四年の清朝の入関とともに、北京の内城に入居した満・蒙・漢の八旗の旗人たちは、彼らの共通語である満州語と山東方言のちゃんぽんの言語を話しつづけた。これが「官語」である。この官語のうち、一九一一年ー一九一二年の辛亥革命で清朝が倒れて満州語が廃絶したあとに残された、山東方言を基礎とする漢語の要素が、いわゆる北京方言となり、これが現在の「普通語」(「国語」}の基礎となった。

    P.246(一八六二年)
    陝西省で、中国語を話すイスラム教徒(回族)と、中国人(漢族)の衝突がおこった。これがきっかけになってイスラム教徒の大反乱がはじまり、それが甘粛省へ、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)へと波及し、さらにトルコ語を話すイスラム教徒(ウイグル族)が反乱に参加したので、東トルキスタンはすべて反乱軍の手に落ちた。やがて西トルキスタンのコーカランド(ウズベキスタン)からヤアクーブ・ベクという英雄がやってきて、東トルキスタンのカシュガル(喀什市)にイスラム教の神政王国を建てたので、清朝の支配は中央アジアにおよばなくなった。
    これに対して清朝側では、太平天国の乱の鎮圧に功績を立てた左宗棠が、「東トルキスタンを取り返せなければ、モンゴルをつなぎとめられない。モンゴルをつなぎとめられなければ、清朝はもうおしまいだ」と主張して、自分の湘勇を率いて東トルキスタンの平定にむかい、一八七七年にカシュガルを陥れて、イスラム教徒の反乱を一六年ぶりに鎮圧した。(中略)
    一八八四年(中略)、清朝とフランスのあいだに清仏戦争がおこった。この戦争で、フランス艦隊は清の福州港の艦隊を撃滅し、台湾を封鎖した。これに衝撃を受けて、清朝は翌一八八五年、中国式の台湾省を設置した。台湾はそれまで中国の一部ではなく、東トルキスタンと同じような辺境として扱われてきたのである。
    この新疆省と台湾省の設置で、清帝国の性格は根本から変わった。漢族が辺境の統治に関与するのは、清朝ではこれがはじめてである。それまでは、満州族がモンゴル族と連合して、漢族を統治し、チベット族とイスラム教徒を保護するたてまえだったのが、それからの満州族は、連合の相手を漢族に切り替えて、「満蒙一家」の国民国家への道に一歩を踏み出すことになる。それまで多種族のレン号帝国だった清朝は、これで決定的に変質したわけで、モンゴル族やチベット族は、満州族に裏切られたと感じた。

    P.250
    中国人にとって、歴史が中国の範囲だけに限られた減少でなくなり、国境を超えた外のできごとによって中国の運命が決定されるようになった時代が、中国以後の時代である。そのわけめとなったのが、一八九五年の日進戦争(一八九四ー一八九五)の配線であった。(中略)この日清戦争を契機として、中国の社会と文化は急激な変質をとげ、秦の始皇帝の統一以来、二千百年を超す伝統のシステムを放棄して、そのかわりに欧米のシステムを採用した。しかもその欧米システムは、日本においてすでに感じ文化になじむように消化されたシステムであった。そのために、これまで蓄積されてきた漢字語の体系は全面的に放棄され、新たに日本製漢語を基礎とした共通のコミュニケーション・システムが生まれることになった。(中略)千六百八十九年に清の康熙帝がロシアのピョートル大帝と結んだネルチンスク条約において、はじめてはっきりとした国境をもつ領土国家の概念がめばえた。それまで中国人には、「王化」、すなわち皇帝の権威のおよぶ範囲が中国だという概念はあっても、中国が四方を国境線に囲まれる一定のひろがりをもつ地域だという概念はなかったのである。

  • 取り敢えず一冊読んでおく
    少しずつ増やしていきたい

  • 民族の成立と中国の歴史◆中国以前の時代◆中国人の誕生◆新しい漢族の時代◆華夷統合の時代◆世界帝国◆大清帝国◆中国以後の時代

  • 極めてオーソドックスな内容。

  • 日本とのかかわりの深い、中国の歴史について
    勉強しようと思って、手に取った本。
    今まで学生時代に学んだときには出てこなかったことが
    出来て、さらに新たことを学ばせていただいた一冊。

    http://goo.gl/OdMnVQ

    ○漢民族とは純粋なものでなく、古来の漢民族激減後、北方民族が何度も入ってきたもの。典型的漢民族王朝とされている宋も実は北方系であり、新北方民族に圧迫され、中華思想が出現
    ○始皇帝の焚書は漢字の統一という目的のため 
    ○支那の語源となぜ中国とよぶのか(呉智英の支那を使うべしという主張は必ずしも正しくないことを知った)

    中国文明の歴史 (講談社現代新書)
    http://goo.gl/OdMnVQ

  • 宮本さんと夫婦なんですね!人類の世界は元モンゴル前と後で大きく違うと感じました

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著者プロフィール

東洋史家

「2018年 『真実の中国史[1840-1949]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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