- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784061594241
感想・レビュー・書評
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『反哲学入門』からの続きとして読んだ。
『反哲学入門』と比べ、この本は、重なる内容もあるが、個人的にはより詳しく丁寧に述べられている印象があった。この本を読むことで前書の復習になり頭に残ったので、個人的にはよかった。
ある特定の哲学者の思想を理解しようとしたとしても、その人限定の書籍を読むだけでは理解しづらい。なぜならその思想の背景には、当時より前の哲学者たちの思想を基にしていたり、あるいはその人たちに対する反論が存在しているためである。
本書は、その思想の歴史的なつながりを理解するのに最適である。索引も付いているため、これから原著を読む時はこの本を振り返るようにしようと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
プラトンのイデア論がキリスト教に良いように使われたのはすごく納得。西洋哲学の二元論がどのように発展したのかを知れる良書。
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反哲学といえばニーチェだという決めつけ。それ以上の知識の拡がりがないままの自分がこの本を読んで得られたのは、哲学というものをめぐる大きな歴史の動きと、それに伴い変化していく哲学者たちの考え方だった。哲学者一人ひとりの考えを深く理解することはこの本だけでは不可能だが、各々の哲学者が「なぜ」そのように考えたのか(またはその考えに『縛られた』のか)、「なぜ」その時代にその考えが現れたのかを理解するには大変良い書であると思う。
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2021.09.07 とても素晴らしい。感銘を受けた。私の理解力がもう少し高ければさらに良さが分かったのではないか。
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おなじ著者の『現代の哲学』(講談社学術文庫)の姉妹編です。
「哲学」はどの文化圏でもどの時代でも通用する普遍的な知を意味すると考えられてきました。しかし、19世紀の終わりから20世紀にかけて、こうした「哲学」の見方を解体する試みが多く現われてきたと著者はいいます。本書のタイトルになっている「反哲学史」ということばは、こうした観点から「哲学」という知の様式の歴史を解体する企てを意味しています。
ソクラテス以前の哲学者たちは「自然」についての思索をおこないました。ただしこの「自然」は、こんにち自然科学が対象としているような自然ではなく、人間や神々さえも含めたすべての存在者の真の本性、つまりすべての存在者をそのようにあらしめている本性を意味していたと著者はいいます。彼らは、こうした意味でのあらゆる存在者の本性を、それ自身によっておのずから生成消滅すると考えていました。いわば彼らは「生きた自然観」をもっていたのだと著者は述べています。
こうした自然観は、しかしながら、ソフィストたちの登場と、それにつづくソクラテス、プラトンの「哲学」によって覆い隠されてしまうことになります。とくにプラトンの哲学は、現実の自然の外に超自然的原理を設定し、それに照準を合わせながらこの自然を見てゆくという発想に立っていました。ここに登場したのが、超自然的で形而上学的な原理としての「哲学」であり、それ以後の西洋哲学の歴史は、こうした形而上学的思考様式に則って展開されることになります。
著者はこうした見方をハイデガーの存在の歴史に関する思想から継承しているのですが、本書ではハイデガーの「存在の歴史」についての立ち入った議論はなされていません。本書では省かれているハイデガーの哲学史の見方については、『哲学と反哲学』(岩波現代文庫)や、著者のハイデガー哲学の解説書などにくわしく書かれています。 -
ソクラテス、プラトン、アリストテレスの顔がありありと見えてきそうな哲学史。
事実存在(〜がある)と本質存在(〜である)の分裂とその変奏曲としての哲学史。
そして何より本書の特徴は、単なる哲学史ではなく、哲学史そのものを、哲学以前、つまりソクラテスの「アイロニー」という方法によって記述している点。
本書を読む限りでは、アイロニーという概念は、すごく東洋的な香りがする。 -
[ 内容 ]
ニーチェによって粗描され、ハイデガーによって継承された「反哲学」は、西洋二千五百年の文化形成を導いてきた「哲学」と呼ばれる知の様式を批判的に乗り越えようとする企てである。
この新しい視角を得れば、哲学の歴史も自ずからこれまでとは違って見えてくる。
古代ギリシアから十九世紀末にいたる哲学の道筋をたどり直す「反哲学史」。
講談社学術文庫『現代の哲学』の姉妹編。
[ 目次 ]
第1章 ソクラテスと「哲学」の誕生
第2章 アイロニーとしての哲学
第3章 ソクラテス裁判
第4章 ソクラテス以前の思想家たちの自然観
第5章 プラトンのイデア論
第6章 アリストテレスの形而上学
第7章 デカルトと近代哲学の創建
第8章 カントと近代哲学の展開
第9章 ヘーゲルと近代哲学の完成
第10章 形而上学克服の試み
終章 十九世紀から二十世紀へ
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ] -
追悼木田元先生
いつか読もうと思っていたが、木田先生がお亡くなりになられたとのことで急遽拝読させていただいた。何で今まで読まなかったのか。出来ればもっと早くに出会いたかった。
高校倫理や一般教養の哲学を勉強して興味を持った人向けの哲学史入門書。とても読みやすく哲学史とあるようにソクラテスから始まり形而上学を主軸に展開している。 -
哲学というのが奇妙な西洋独自の思考様式であるということは間違いない。しかしデカルトに始まりヘーゲルに及んで完成される近代哲学あるいは形而上学的思考様式が産業革命に始まる近代技術文明の生みの親だとするならばそのような思考の枠組みを理解することも決して無駄ではない。しかし著名な哲学者の言葉に浸かり哲学的思索を深めようとすればするほど、私たちが世界を認識するための道具としての言葉が持つ概念というものの曖昧さというか限界のようなものを痛感するばかりである。
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「 事実彼は芸術こそが「生(レーベン)の本来的課題」であり、「生の形而上学的活動」だと言っております。してみれば、もっとも肉体的な機能でありまた肉体の機能の最高次の実現である芸術を認識の圧制から解放して復権せしめることこそが、ニーチェの目指したニヒリズムの克服の決定的方策だった、と見て良さそうです」 ー 234ページ
スピリチュアリティはロマン主義的であるという説はよく見られるけれど、最近の消費主義的なスピをロマン主義的と見做すことには抵抗があって、それは芸術的側面――つまるところ、他者のための美的表象――が欠けているように思えるからである。
みんなが芸術家になればいいというわけではないけれど、パフォーマンスという要素が抜け落ちたロマン主義は神秘主義であり、秘境主義に成る。もちろんそれが悪いわけではないが、訴求力という点ではやはり落ちるところがあるし、一般社会(なんだそりゃ)との融和を目指すのであれば、そのへんも文化の一要素として考慮に入れてしかるべきなのだろうと思う。